梅の花だよりの聞かれる時節である。咲き始める時期はその年の天候によって変わるが、太平洋に沿った気候の暖かい地方では、1月中旬ころから梅が咲き始める。2月に入ると中国・関東・東海・近畿など、本州の要所で咲き始める。1月下旬~2月上旬は、寒さが峠をこえる時期であるからして、梅の開花は季節が春へ折り返すことを知らせる、サインとも言える。
ところで梅といえばウグイスが対のように言われ、ウグイスはまた春告鳥、花見鳥といった別名もあり、春を象徴する鳥である。各地の気象台ではウグイスが、「ホーホケキョ」とさえずりはじめた日をウグイスの初鳴日として観測している。ここで疑問、ウグイスは本当に、「ホーホケキョ」と鳴くのか?今さらだが、「ホーホケキョ」と鳴くのは先人からの先入観ではないのか?
一度もウグイスの鳴き声を聴いた事のない人に鳴き声を聴かせ、「何と鳴きましたか?」と尋ねたとき、「ホーホケキョ」はどれくらいいるのだろう。この疑問は後でじっくり考察するとして、とりあえずウグイスの鳴き声が、「ホーホケキョ」として春以外の季節も、「ホーホケキョ」と鳴くのか?ウグイスは冬の間は暖かいところにいて、春がくるとササが茂った山野で子育てをする。
実は、春の子育てシーズンにオスがメスを誘うために、「ホーホケキョ」と鳴くのであって、正解は「No!」、ウグイスが、「ホーホケキョ」と鳴くのは春から夏のナンパの時期のみである。繁殖期がおわる秋ころになると、「ホーホケキョ」とは鳴かずに、「チャッチャッ」という小さな声で鳴く。鳴き方が季節によって変わるのは日照時間の影響で本能習性に変化が生じる。
日が長くなるとオスの体内で特別な物資が増え、脳が刺激され、ノドの筋肉もついて、「ホーホケキョ」の鳴き方ができるようになるというのだ。であるからして受け身のメスは、「ホーホケキョ」とは鳴かないし、鳴けない。であるのに、なぜ人間の電話交換手や、野球場のアナウンスを担当する女性、選挙カーの女性をウグイス嬢と呼ぶのだろうか?男にそうは呼ばない。
語源は定かでないが、どう考えても文字通りウグイスのように美声であるという意味から作られた言葉であろう。実はプロ野球球場で初めて女性アナウンスが使われたのは、終戦2年後の1947年4月3日で、この日は東京巨人軍が東京読売巨人軍になった日でもある。その時に、「ウグイス嬢」と呼んだかは定かではないが、どこぞの誰兵衛が、いつしかそう呼んだのであろう。
声だけ綺麗でウグイス嬢が務まるほど簡単な仕事ではない。ウグイス嬢の勤務地は、プロ野球の開催地を初め、高校野球、社会人野球や草野球に至るまで、全国各地の様々な球場であり、仕事の依頼を受けたウグイス嬢は、試合開始数時間前に球場入りし、その試合で対戦する両チームの選手名、ポジション等を確認し、読みづらい名前にはフリガナを振るなど周到に準備をする。
本番のアナウンスで詰まらないよう原稿準備、試合進行のスケジュールなどの打ち合わせを関係者と行う。初めて行く球場では、機材等のチェック、スコアボードやグラウンド内の視点確認など、はっきりと試合状況を伝えられる環境を整えなくてはならず、球場内にキチンとアナウンスが届いているかどうかのマイクテスト、当日の声の調子に問題がないかもチェックする。
開場後には客席に向けた場内案内やスタメン紹介、更に試合前の始球式やイベントの進行役を務めるなど、プレイボールまでにも多くのアナウンス業務を行う。試合開始後もイニングや選手交代のアナウンスだけにとどまらず、ファウルボールの注意喚起やスコアボードの操作、高校野球ではサイレンや校歌の音源操作などの試合運営の裏方的業務もウグイス嬢の担当である。
プロにはプロの綿密で周到な作業がある。さて、ウグイスの鳴き声といえば、日本人ならまず間違いなく、「ホーホケキョ」であろう。しかし、人によっては、「ウグイスはホーホケキョなんて鳴かないよ」と思う人もいるはずだ。同じ日本人といえども、全員が「ホーホケキョ」なんてことはない。ニワトリの、「コケコッコー」は、「ホーホケキョ」よりは確かに信憑性が高い。
が、あれを外人が聞くと、「くっくどぅーどぅるどぅー」と聞こえるという。日本人には到底そうは聞こえないと同時に、外人に、「コケコッコー」とは聞こえない。犬も日本人は、「ワンワン」なのに、アメリカを始めとする英語圏では、「バウワウ」、「バークバーク」であるが、スペインではなぜか、「グゥアウグゥアウ」、ブラジルでは、「アウアウ」と聞こえるらしい。
フランス「ウアウア」、中国「ウーウー」、韓国「モンモン」、タイ「ホンホン」とまあ、カタカナ表記ではこうだが、実際に各国の人たちに発音してもらうとまた異なって聞こえるはずだ。ちなみに、犬の鳴き声を「ワンワン」と表現するのは、15カ国以上の中で日本だけである。日本人である自分的には誰が何と言おうと、犬は「ワンワン」でしかない、それが正解だ。
と言いたい…が、日本でも歴史的には日本の歴史的には、「ひよひよ」、「べうべう」、「びよびよ」などと表現していた時代もあり、名残りが狂言の台詞に残っている。現在の、「ワンワン」は江戸時代に現れ、しばらくの間は上記の表現と共存していた。さて、頭を緩く柔軟にし、先入観を取り払って近所の犬の鳴き声を聞くと、「モンモン」、「べうべう」に聞こえるかも。
ネコも「ニャー」は日本だけ。アメリカ「ミャオウ(meow)」、フランス「ミャオ ミャオ(Miaou Miaou)」、韓国「ヤオーン」となるが、動物が鳴き声を変えるはずはなく、一言でいえば文化の違い。同時に国によって、言葉が違うように「発音」も違うし、「聞こえ方」も違う。しかし、よ~く聞いたら犬が、「ワンワン」に聞こえる?「ヴォンヴォン」の方が近い気もする。
虹だって日本では7色だが、外国では5色、6色だったりする。ニュートンが分光器にかけて7色と発表するまで、虹は3色ないし5色と考えられていた。実際ニュートンもはっきり7色を見たわけではないし、太陽の光をプリズムで分けても、光はくっきりと7つに区切れたりしない。色の境目はあいまいで、ぼおっと各色がつながった帯になっていたりする。
見方によっては、青と緑の間に「青みどり」があったり、緑と黄の間に「黄みどり」があったりと、7色よりもっと多くの色があるようにも見える。ニュートンが無理やり「7色」としたのは理由がある。彼は、音楽と関係づけて、「各色の帯のはばが、音楽の音階の間の高さに対応している」と結論したのだ。なぜニュートンは音楽と関係づけさせたかったのか?
ニュートンの時代の3ヨーロッパでは、音楽が学問のひとつで、音楽と自然現象を結び付けることが大事なことと考えられていたからだ。たぶん、そうすることが当時はカッコイイことだったのだろう。 ニュートン自身は虹の色が無数にあることを実は知っていたということ。言語、食生活、日常、習慣、それらを総合した文化…、何においても世界は広しである。
犬が正確には、「ワンワン」でないように、ウグイスは、「ホーホケキョ」でない。科学的にも矛盾がある。カ行の音が「ケ」と「キョ」と、2つも入っており、特に「ケ」と聴こえる音は無い。何度聴いてもカ行の音はなく、ウグイスの鳴き声はハ行で、「ホーホヒヒョ」が最も近いのでは?または、「ホーポピピョ」と、パ行を充てればスムーズに聴こえるはずだ。
ではなぜ日本人は、「ホーホケキョ」というあり得ない聴こえ方に疑問を持たなかっか?もともとウグイスの鳴き声を誰も、「ホーホケキョ」と表現しなかった。一説には都の繁栄を宣伝するため、「ウグイスは都でヒーヒトク(人来)と鳴いている」と広めたのだ。都を造るとき、「ウグイスも人が集まるよう願って鳴いている」と良いイメージを定着させようとした。
そのことで反対勢力を抑える狙いがあったという。しかし後に遷都する際、法華経を政権獲得に利用して広める事を狙った政治勢力が、「ウグイスは法華経(ホケキョ)と鳴く鳥だ」とし、信者新規加入推進キャンペーンを行ったというのだから、これは一種の政治利用である。人の長い歴史の中で、暗示や洗脳に似た効果をウグイスの鳴き声から得たのである。
日本人はスズムシの音色や、川のせせらぎの音を「もののあはれ」と情緒的に聞く感性持っている。外国人には雑音としか聞こえないのに、日本人はスズムシの音を言葉として聞くとの研究が分っている。また、日本人の脳は風鈴の音色を涼感へと変化させるが、外国人に、「なぜ夏には風鈴なのか?」を説明するのはまず不可能。うむむ、怪しげなるは日本人。
日本の企業が朝礼などで社是や創業者の訓示を復唱させるなど、外国人からすれば、「オーマイガーっ!」であろうが、何事も当たり前として繰り返し聞いた言葉は、人間の脳内でも正当化されるのだ。デパートでは、「おはようございます」、「ありがとうございました」を復唱させるが、考えると幼稚園の園児のようなことを真面目にやる日本人である。
日本人の頭が固い、柔軟性がない、決まったことをなかなか変えないなどの悪しき習性・習慣は反復効果によって染み付いたものかも知れない。毎日毎日説得すれば社員や部下はついてくるとの考えだろうが、それだと万が一間違ったことでも正しいと信じてしまう。「檄」は奨励されるとも限らないし、上に立つ者は上司や親も含めて己の言葉を疑うことだ。
利発な子どもならいいが、いわゆる「いいこ」の危険さは何事も妄信することにある。「親を疑い、師を疑い、我を疑う」というように、疑いの中から新しいものが生まれてくる。いつの時代も若い人が世を変えてきたように、若さと言う無謀さ、柔軟さが国家の骨格であるべきだ。老兵は死ななくともよいが、さっさと引き下がる方がいい。「隠居」は実は大事なこと。
猛烈なパワーと人並み外れた集中力を持ってすれば、それは若者の比ではないかも知れない。「大事なのは集中だ。本当に必要なもの意外は…全てやめてしまえ。」と、これはスティーブ・ジョブズの言葉。「天才は99%の努力」という言葉があるが、比類ない集中力というのも天才の資質ではないか。あるいはそれは能力かも知れない。「努力」と言う事自体、能力である。
「努力」と人は簡単にいうが、誰でもできることではない以上、与えられた能力であろう。自分の大嫌いな、「忙しい、忙しい」って言葉をこれみよがしに言う人がいる。あの心理を考えてみるに、「頑張っているんだねー」と認めて欲しい、人に褒めてもらいたいんだろ。本当に努力する人間は、努力するところは見せたくないものだ。だから、こういう人間は嘘っぽい。
人にも自分にも甘えて、だから上の言葉はポーズである。そういうことをいうと角が立つのでいわない方がいいが、「忙しい、忙しい」うるさいなら、「時間の使い方が下手だねー!」くらいは言った方がいいよ。以前、「忙しい」が口癖の同僚に、「壁に向かって言ったらどうだ?」と言ったことがある。以後意識したのか、言わなくなった。気づかせるのも大事だ。
「暇だ~、やることがない。」なんてのも間抜けなセリフと思う。春は花を見、夏は太陽を浴び、秋は落ち葉を踏み、冬は静かに春を待つ。何もしないでいても、実はやってるんだ。飯を食い、糞を足れてるように。だから、やることがないんじゃない、やることをわかってない凡人なんだろう。人は誰も凡人でいいが、同じ凡人ならやる事くらいは見つけたい。
あと、こういう泣きの言葉を平気で発する奴がいる。「迷ってしまって先にすすめない」。「怖くて何もできない」。いかにも自分が愚図で駄目みたいな、そういう言い方で自己肯定をし、防戦を張る。迷わないことが強さじゃない、怖がらないことが強さじゃない、泣かないことが強さじゃない。本当の強さってのはどんなことがあっても、前に向かうことだ。
だから、「つまらんことをいうな!」としか思わない。人は面白いし、実に身勝手な言葉で横着をし、何かをしないでいる口実を見つけてくる。黙ってそうしてるなら別にいいが、口に出されるとついこういうことを言ってしまう自分だ。「勝手なこと言ってんじゃねー」と腹が立ってくるんだろう。昔は…。が、今はそういう人間を見慣れたのか腹も立たなくなった。
沢山人を見ると、いろんな人間の存在が分ってくる。それぞれに自分で自分を都合よく生きてるんだろうから、それで良しと思うようになった。究極的には「人は人」なのである。人の人生に立ち入るべきではない。眺めながら多少の注釈を加えたり、自己正当化を言ってるなと思えば、暗にそれが自己正当化にすぎないと、やんわりとなだめたりで言いと思うようになった。
「六十而耳順」(六十で何を聞いても驚かなくなった」に該当する。十歳では菓子に、二十歳では恋人に、三十歳で快楽に、四十で野心に、五十歳では貪欲に動かされるのが人間なら、せめて六十代は英知のみを追うようになりたいものだ。梅の時節が過ぎれば桜である。年に一度の桜に、「もののあはれ」を強く感じるこの頃のよう…