Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

誰でも幸福なのでは? ②

$
0
0

イメージ 1

カール・ブッセの「山のあなた」を知ったのはいつ?中3か、高1か?言葉の意味は分かるが、文字の奥にある本意は分からない。いろいろに訳されている。「山のずっと彼方に「幸せの理想郷」があるというので尋ねて行ったが、どうしても見つからず涙ぐんで帰ってきた。あの山の、なお彼方には「幸せの理想郷」があると、世間の人々は語り伝えるのだ。」

上田敏の美しい訳が、言葉の本意より詩の美しさに心奪わせる。俳句にしろ短歌にしろ、詩的表現にしろ、表現されたものより表現主体のあり方を重視するのは、中世以来の日本の伝統だ。ブッセの原訳は、山の遥か彼方に『幸せ』があるそうで、私は仲間と共に探しに行ったけど、結局は見つからなかった。山の彼方のそのまた向こうには、『幸せ』があるらしい。

どんな山の向こうを訪ねど幸せの郷などあるはずがない。山のさらに奥を越えても同じことだ。「幸福」は観光地ではないからだ。あるという幸福を信じて人里離れた山の向こうにむかってみた。それなのに、"どうしても見つからず涙ぐんで帰って来た"と、この表現は、そのまま受け取るといかにも子どもじみている。自分は大人になってこの詩をこう解釈した。

「人は自分が得たいもの、欲しいものに憧れをもつのは誰も同じ。人からよいことを聞けば実行に移す。「幸い住むと人の言う」だと?そんなことで幸福がつかめる?人の言い伝えに裏切られて涙することになるのなら、果てない彼方にある幸福に自らの意志で向かえよ。人の言葉を鵜呑みにした涙より、自ら信ずるところの涙を流せ。そこが幸福の在処ではないか?」

イメージ 2

自らを生きろと言っているのでは?人の言葉に惑わされず、自ら信ずるところの涙が尊いのだと…。チルチル、ミチルの『青い鳥』も同じモチーフで描かれている。「貧しい家に生まれた主人公がおばあさんに頼まれて、様々な世界に幸せの青い鳥を探しにいく。彼らは行く先々で青い鳥を捕まえるが、この世界にもどってくると違う色になっていたり、死んでいたりする。

結局家の鳥かごの中にいる鳥が青い鳥だったのだが、その鳥も どこかへ飛んでしまう。幸せは案外身近なところにあるという解釈で語られている。『オズの魔法使い』もまったく同じこと。『青い鳥』の主人公たちと負けず劣らずの冒険をするドロシーである。子どもの好奇心をつまらぬ学問で押さえ込まず、大いに堪能させまくるという大人の心の願いが込められている。

なぜなら、いかなる大人もかつては子どもであったからだ。だから、真に子どもの身になれば大人が子どもの好奇心を削ぐような事はしないものだ。学習塾や○○教室に閉じ込めておくなど愚の骨頂であろう。とまあ、自分が自分の子ども時代からの教訓であるが、子どもに学力をつける、学歴を与える事が真に子どもの幸福だと考える親がいても理解はできる。

他人のことには責任を持たなくていいので、批判もするし、目先の理解もするが、大事なのは自らが関わる子どもたちである。よその家の子どもと関わっても、「自分の思うように生きたらいいよ。それで自分が責任を取ればいいんだから」などと言うが、子どもというのは、結構親の呪縛に捉われているもので、それは、ある意味楽、ある意味子どものズルさでもある。

イメージ 3

「自己責任」ということほど子どもを悩ませる言葉はないのではないか。ある日子どもに100万円与えて、これを一年以内に200万円にしろという命題と、全教科100点を取れという命題とどちらが価値がある?どちらが簡単であるか。名は失念したが、実際に大富豪になった子どもの親に、このように投資を勧められた子どもがいたといい、そこは納得が行く。

「なぜ学問を?」という目的が欧米と日本ではまるで違っているのだろう。イギリスと日本の教育体系は異なるが、王室に嫁いだダイアナもカミラも、両人ともに貴族家庭に生まれながら好きでない勉強をさせられることもない。あちらは日本でいう高校がなく、義務教育を16歳で終えると、大学進学を志す子どもは、6th formという大学入学資格試験準備校に進学する。

ここで大学で学ぶ予定の科目の基礎を2年間学ぶ。ただし、6th formに進んでもその後大学に行かない(あるいは行けない)子どももいるので、6th formに在学する子どもは30%強で、それでも日本のように全員が高校進学ことはない。義務教育後の2年間は、6th formでも各種学校でも公立に通う限りは無料で、子どもがアカデミックな勉強は義務教育だけで終了する。

子どもたちは義務教育を終える年齢までにGCSEという中等教育修了試験(国家試験)を受験する。受験科目は人によって異なるが、通常は8〜12科目程度を受験する。不合格もあり、卒業制度がないので、GCSEを受験して合格しないと日本でいう中卒資格も得られない。GCSEの成績はA*(エースター)からEまでが合格でそれ以下は落第。この成績が大学進学時、就職時など一生ついて回る。

イメージ 4

ダイアナは学校に行ったがGCSEの資格を持っていない。2回受験しひとつも合格しなかった。代わりに、人に尽くす慈善の感性が学校で非常に高く評価されていて、それが後に数々のチャリティワークでの無私の活動として結実したようだ。カミラもOレベル(GCSEの前身の同等資格)をひとつしか持っていないそうですから、当時の貴族なんてこんなものだ。

ダイアナもカミラも学業を終えると16歳ぐらいでスイスのフィニッシングスクールに行き、貴族の娘として嫁ぎ先で恥ずかしくないような教育を受けた。ちなみにエリザベス女王は当時の王族の娘としては珍しく家庭教師からアカデミックな教育を受け、チャールズ皇太子も王族としては珍しく 6th formのあとにすぐにオックスフォードに進学、まずまずの成績で卒業している。

日本の名家・貴族なら、どんなバカでもカネで裏口入学という手を講じる。日本人がバカなのは、本人の主体性より親の見栄を重視する。だからこう言う事をする。子のためという口実は自分のためである。雅子妃がいかに才媛とて、結婚生活に向いていたのか?皇室に相応しかったのか?秋篠宮紀子妃の方が国民に和らぎを与える。人間関係をこなすのは頭の良さではない、心であろう。

先の名古屋大理学部女子生徒の事件をみるに、彼女は長崎・佐世保の高1生と「人を殺してみたい」共通点があったが、両者共に生育過程で歪があったと推察する。秀才であったというが、特に前者は「名大出身死刑囚ってまだいないんだよな」などとツイッターで呟いているのをみても、ハナから名古屋大に学問しに行っていないのは明らかであろう。

イメージ 5

イメージ 6

彼女の顔を見て驚いたのは、「これが女?」であった。世にブスとかブサイクとかに合致する顔は確かに存在するが、それでも心の温かい和やかな性格の持ち主は多い。偏見かも知れぬが、秋葉原事件も附属池田小事件も宮崎勤事件も、その他無差別殺人犯や凶悪犯にイケメンをみない。いや、イケメンならずとも自分の主観でいえば、並以下に該当する男が多い。

容姿と事件の関連性は定かでないが、容姿コンプレックスが性格を歪めたり、卑屈にさせたりの要因はないとはいえまい。こういう声を体験した事がある。某有名国立大の女生徒は高校時代の恋愛相手と同じ大学に行くことを約束し、努力もあってそれを叶えた。最も進学校であったゆえの自力はあったようだが、地方から来た二人は互いの下宿を行き来する。

共にサークルはグリークラブに入り、彼女はソプラノ希望であったが、途中からメゾソプラノに変えられたことに不満を述べていた。それよりも、問題だったのは彼氏が同じグリークラブのソプラノと恋仲になり、彼女は絶縁を告げられたという。男の気変わりはありがちだが、高校の3年間を一途に過ごした女の立場、一途で他の女を知らない男の好奇心の違い。

どちらも理解はできる。彼女のショックは計り知れず毎夜泣き明かしたという。女が失恋で泣き明かすという感性を自分は到底理解し得ないが、そこで彼女は相手の女に対する心情をこう表現した。「あんな女、シチューの具に煮詰めてやりたい」。どっひゃーの言葉は、文学部的表現か。太宰の短編に「かくめい」というのがある。多くが平仮名で書かれている。

イメージ 7

「じぶんで、したことは、」そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです」。太宰らしい、句点多き文体だが、いかにも太宰らしいのは「革命」である。

彼は『斜陽』の中で、「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」と言った。なぜか彼の書く死には「卑屈」な印象がない。おそらく死に秘められた希望というものがあり、『斜陽』自体、崩壊をテーマに書かれた作品であるが、蘇生する為の破滅のように読み取れる。がしかし、崩壊してしまえば再生は無い、という厳しさをも理解し、表現している。

人が生きていくには、あるいはそれを実感するためには、革命を起こすしかない。神に反し、道徳に反し、倫理に反しても、自分の気持ちだけには反してはならない。それが革命というものだろう。ビートルズのメンバーで革命家であったジョン・レノンは、「Revolution」の歌詞を、「体制を変えたい?そうかい、そうかい、いっそ頭を変えた方がいい」と書いた。

イメージ 8

自分で自分のことをする、自殺もそうであろう。が、人を殺すのは自分が人の事をすること。人の生を奪うなど、余計なことをするな!「人を殺してみたい」の感性は、なぜ「人に殺されてみたい」にならないのか?バカの考えと言うのはいつも一方的、独善的。「ソプラノをシチューの具にしたらいい」といった彼女は、女の情念であろうし、言葉だけなら許されよう。

人を殺した後、「名大出身死刑囚ってまだいないんだよな」とのたまうような奴は、希望通り吊るしてやった方がいい。それが彼女の希望なら、叶えてやるのが彼女の幸福というものだ。太宰は死への憧れを具現化した。彼もまた幸福ものであったろう。人を殺すのがまるで芸道の如くなされ、それを携帯電話に撮っておくなどは、「ゲロ」を吐きたくなる芸道だ。

坂口安吾は太宰の死を以下記している。「太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり、ジコーサマ入門と同じような体をなさざるアガキであったと思えばマチガイなかろう。こういう悪あがきはそっとしておいて、いたわって、静に休ませてやるがいい。」ジコーサマとは璽光尊という新興宗教教祖で、あの大横綱双葉山も信じていた。

親とすれば近所に自慢の名大生の娘が、一夜にして買い物に出かけることすらおぼつかぬほどに周囲の辛辣な目線である。「バカとキチガイは紙一重」というスラングは、「バカと天才は紙一重」から派生したものだろう。いずれも言い得て妙である。バカとキチガイが紙一重なら、秋葉事件の加藤智大も附属池田小事件の宅間守キチガイ行為もバカの所業であろう。

イメージ 9

が、長崎県内有数の進学校や名古屋大学に通う者を世間はバカとは呼ばないはずだ。世間が呼ばずともバカであった事が露呈すれば考えを変えるしかない。しかし、選ばれたエリートといわれる人間が、学業以外にバカであるのは仕方のない事で、勉強できればすべてが凄いという思い込みは止めた方がいい。それでも親は子に勉強を望むのを変えないだろうが。

子どもが学業優秀であるのが、親の何を満たすのだろう?そこが自分に分らず、底の浅い考えという風にしか思えないところでもある。「学業優秀な子どもを喜ぶ親の底が浅いとは何事だ!」なる文句はしばしば耳にしたし、出来の悪い子どもを持ったひがみとも囁かれる始末。囁く前に、「何がそれほど満たされるのか」について、説明を受けたことはない。

無理をすれば心は歪むが、そこをごまかすと自己崩壊からうつになる。名大生の近所評判は、成績がよいという偏見もあってか、「感じの良い子」、「何かの間違いではないか」と困惑の声が挙がっているという。自分ならそうは思わない。成績がよい故のしっぺ返しと思うだけだ。感じのよさなどどうでも演じられる。また、動機の解明など明らかになるわけがない。

本人だって分らない動機であり、生まれて以降の人生の集積である。普通の子が、本人にとって普通ではないと感じる教育的訓練を強いられた結果であって、親も学校も友人も誰も悪くない。小さな違和感を増幅していった本人を、周りの誰も気づかなかった。教育や躾の怖さは、与えること以上に"気づく"が大事なのに、そこがおざなりにされている。人は間違いなく「歪む」。


イメージ 10与える側は常に受け取り側に立ち、その感情の起伏への洞察を心掛けることだ。決して与えていればいいというものではない。そこに気づくことで早めの修正も出来るわけだし、極論すれば、気づかぬ親の責任である。自分のいう、"子は100%親の責任"の言葉の重さがこれ。どのように道を踏み外そうとも、転落しようとも、ネガティブな部分は親の責任であろう。
反対に子どもが親を超えるくらいに堪能に、優秀になるのは親の力ではない。子どもの努力であろう。親の功績は食わせて小遣いを与えたことくらいである。『山のあなた』も『青い鳥』も『オズの魔法使い』もそうであるように、幸福は本人が行為し、涙の暁に手に入れるものだ。もっとも、生きていること自体、幸福という概念ではあるけれども…。

平和の中に平和はない。幸福の中に幸福はない。健康の中に健康はない。富裕の中に富裕はないなどと、意識にないのが最良だ。無意識の中にあっては、平和も幸福も健康も富裕もみんな当たり前のこと。どうしても、平和を、幸福を、健康を、富裕を意識し、それらを実感したいのなら、戦争、不幸、疾病、貧困に身を投じるがいい。ならばすべてに感謝の実感するはずだ。

人の生の「極めつけ」とは、欲や驕りを棄て、妬みなど一切を意識しないで自然に生きること。仙人というのは、それを目指して人里離れて山に住む人をいう。幸福も不幸も意識しないで生きていけたらいい。意識しないあなたは、日々幸福なのだと…。それが結論だ。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles