三大宗教を始め、新興宗教と称されるものは、人生の意味とか真実を追究する哲学とならんで人類と共に生き続けるだろう。すべての人が自覚した宗教を持っているわけではないが、例えば死後の世界を思わぬ人はいないであろう。埋葬するときに火葬は止めて土葬にしろとか、骨粉にして大海に棄てよとか、葬儀には多くの花をとか、葬儀はしてくれるなとか…。
などと人は言うが、それらは気休めであり、夢想に過ぎないかもしれないが、それらも宗教的心情といえなくもない。なぜなら、「死」という絶対にどうする事もできない世界と関わっているからだ。人は必ず死ななければならないという明らかな事実、当然の理を、なんとかして避けたいとするのが人の常であるが、死の意味を知ることで多少なり死の恐怖が軽減される。
それが宗教であったりする。死後の世界の存在や死後においても希望を持てるというなら、死は人の終わりではなく新たな旅立ちという理解になる。理解であって真実かどうかは別の問題だ。人は「真」だけを理解するわけではない、虚実であっても不確かであってもそれなりに理解をすべきだろう。他人の戯言に理解不能はありがちだが、そういう言葉を発する人間という理解はできる。
中身を理解できないなら、外を理解すればいいのであって、すべて一切を理解できないというのは捨て鉢な言い方に思える。「人は幸福であらねばならぬのか?」という疑問を携えてはいるが、人は不幸であるべきとは思っていない。が、不幸でないなら幸福か、幸福でないなら不幸なのか、に照らし合わせて「人は幸福であらねばならぬのか?という設問である。
人は漠然と「幸福になりたい」などという。他人の挙式に呼ばれて「幸福になってね」と声をかけるのも社交の辞令であろう。何をもって「幸福になってね」と言っているのかは、相手に伝わらない。「仲睦まじく…」が、この場合の最適な伝言であろうことは想像できる。結婚して一緒に暮らすことになる夫婦が「仲睦まじい」のは幸福なのだろうか?
そうならない場合に反しては幸福だろうが、仲睦まじく暮らすのは実は当たり前のように思っている。それはあらゆる動物のツガイを見ていて感じることだ。それが一緒に住むものの条件であるように思う。が、人間はどうもそうは行かないらしい。動物の夫婦に浮気はあっても離婚はないのでは?その前にこれは比喩である。結婚は人間の社会制度であるから動物にはない。
が、動物番組のナレーターがツガイになることを結婚というように、だとするなら離婚はあるのか?であるけれども、自分の知る限りにおいて動物はいわゆる離婚はない。鑑賞して中睦まじき動物の代表格の鳥類の中には、一生、同じ相手と暮らすものが多いとされる。が、相手が死んだ時は新しい相手を見つける。これは仲たがいの離婚ではなく、人間と違って一途である。
また、動物の結婚は繁殖の相手(人間も大義に於いて)、という意味であるなら、繁殖期以外はオスとメスが一緒に暮らさない動物は多く、人間も社会形態の中では単身赴任や別居婚もあるが、人間のそういう本質と動物の繁殖期は異なる。毎シーズン交尾のたびごとに相手が変わる動物は、そのつど結婚と離婚を繰り返しているが、それが人間のいう恋愛なら不義ということになる。
『鶴の恩返し』という民話がある。鶴は人間の姿になって老夫婦の前に表れるのだが、身を削って恩に報いようとする鶴の、けなげな痛々しい話。あれは丹頂鶴で、丹頂鶴というのは、一度夫婦になったら相手が死ぬまで浮気をせずに添い遂げるという。なんとも一途な生き物である。どちらかが死ぬと悲しげに鳴き、屍から離れず身を挺して死体を守るという。
人間に離婚が多いのは「言葉を話す生き物」である要素が大きい。まあ、言葉を話してこそ人間なので、離婚理由が「言葉があるから」というのはオカシな話だが、「ヒドイ言葉をいわれた」は多いにあることだ。先の三船美佳・高橋ジョージ夫妻の離婚問題も「こんなこといわれた」だったらしい。そればかりではないし、積もり積もっての離婚だが、何かを原因にしたいらしい。
係争中ともなれば、特定する何かが必要である。「何となく飽きたし、顔を見るのも嫌になったので…」であっては、離婚も叶わない。「モラルハラスメント(モラハラ)」は、フランスの精神科医マリー=フランス・イルゴイエンヌが提唱した言葉。外傷等が残るため顕在化しやすい肉体的な暴力と違って、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力のことをいう。
見えづらいため長い間潜在的な物として存在していたが、イルゴイエンヌの提唱で広く知られるようになった。昔から「言葉の暴力は肉体的暴力と何ら変わらない」といわれていた。場合によっては肉体的暴力以上かもしれない。おそらく動物にはなく、人間特有のものだろう。雄ライオンの何かにむかついた雌ライオンが、知らん顔して無視したり、睨んだりはないだろう。以前、こういうことを問われた事がある。20代前半の女性である。「好きな人に向かって"お前なぁ"とか普通いいます?そんなの、好かれてるとは思えません」。一言聞いて、困った女だと感じた。こういう自己規範の多い女と付き合うのは大変なのよ。女に限らず男もそうだが、男の場合はそこまで感情的でないので、諭すことはできる。が、女の決め事はなかなかうるさい。
「好きな相手にお前などと言わないという規範意識を持っているなら、いくら相手が君を好きであっても、好きでないと判断するんだろ?それは自分の規範を相手に押し付けていることになる。大事なのは言葉ではないし、英語では"You"しかないんだよ。それが日本語では、君、お前、そっち、あなら、あんた、てめぇ、などといろいろ呼び名はあるし、どう言われたいの?」
「名前で呼んで欲しいです」、「じゃ、そう言えば?ただし、いろんなシチュで、お前も、てめ~も出ることあるよ。それが人間関係だし、一筋縄ではいかないと思う方が視広い視野の持ち主ってもんよ」と、言ったものの…。「ウザイんですよね、もう結構です」と言われやした。女子にモノを分らせるってのは大変だよ。自己規範を変えない人間と付き合うと苦労する。
自分の理想は「言葉」や「物」を介さない人間関係だ。それが日本人の文化の中に浸透していたし、良い意味での文化であった。もちろん、「愛してー」、「愛してるよー」の欧米文化とは異なる。「暗黙の了解」、「以心伝心」、「言わぬが花」などが象徴している。相手に思いやりの心をもち、理解しようとする心。「好きよ」といわれるより、「言わなくても分かるでしょ」がいい。
「言わなくても///」というところが奥床しさ。日本人の中に脈々と生きてい、、「言わなくてもわかる」という心の声が、「言わなければわからない」に変遷しつつあるのは、欧米文化輸入の影響だろうか?確かに言葉にすべき効用も多だあるが、ナンでもカンでもとはならない。いい人間関係を目指すなら、「言わなくても分かり合おう」姿勢の相手を見つけること。
見え透いた仲良しが人間関係のベストと誰が決めたのか?見え透かない仲良しがいいに決まっている。「口開けて大いびきをかいてる夫を見てると気持ちが冷める」という女もいる。これも自己規範であろう。もし、乳児がそうであったら、ペットがそうであったらどうなのか?自分の気持ち、規範意識の問題であるのに、そのようにして相手と自分を離している。
寝てるときの無防備さにまで文句を言うような妻なら、自らさっさと出て行けばよい。ナポレオンの妻だったジョセフィーヌも、ベッドで大いびきをかいて眠りこけている夫を見て、「この人がヨーロッパ全域を震撼させた男だ何て信じられない」と言った。バカ女はべッドの寝姿で男を判断してしまうようだ。仲良くするのがベストでないのは、夫婦にだって言える。
人間関係は相手あってのことで、こちらが仲良くしようと思っても、この妻のように、他方が避けるなら無理。相手にその気がないのに、仲良くする必要はない。だから、そういう事も頭において、可もなし不可もなしの付き合いを目指すのがいいのだよ。会話をしなくとも、心に存在を持つ相手はいる訳だ、妻とてそう、夫とてそう、恋人、友人とてそうであろう。
心から消え去ることが存在がなくなることで、媚びたり無理したりの見え透いた仲良しをする必要を感じない。ブログのコメントなどを見ていると、リアル社会では到底いいそうもないような愛想を振りまいているのが多いが、批判と言うよりも嘘の言葉の世界観を感じるのだ。確かにシェークスピアは「人生は演劇であり、人はみな役者」と言った。役者だから大根もいよう。
が、人生の役者は自分で役が選べるのに、そういう選択権を知ってか知らずでか、不本意な役を立ち回っている人が多い。どう演じても役は役であるが、不本意な役とは自分に無理をした役である。演出家に無理強いされるならともかく、ワザに自分が好まぬ役をやる必要はない。嘘も続けば本当になる。気づかぬうちにだから、環境というのは実に怖ろしい。
幼少期から人に媚びてばかりいるとそういう人間になるんだよ。自分は人に媚びないが、生意気だ、偉そうだという人は、人に媚びる人間もしくは媚びられるのが好きな人間だろう。自分はいつなんどきも自分を失わないようにしているし、基本的には相手を尊重する姿勢は崩さない。陰で悪口を言いそうな人間には触覚が自然に働き、あしらう事もあるが、人は基本的に好きである。
森繁久弥彌がこんな風にいっていた。「乞食の役をするために、乞食の恰好をしてデパートに入ったら、みんなからジロジロみられイヤがられた。そのうち自分は本当の乞食になったような気持ちになった」環境は人を作るし、環境は人を変える。自ら望まない役をあえて演じようとは思わなかった。「生意気だ」という相手に媚びなかったことで自分を強くできたと思う。
日常生活でいじめられてる子は、本当にいじめられることが嫌ではなくなる。つまり、自分が自分で楽な生き方を選ぼうとするのだ。反抗して独立心を養うのは大変なエネルギーがいるし、だったらいじめられてる方がむしろ楽だということになる。いじめは、いじめる方が悪いというけれども、それを良しとしてる本人にも問題がある。が、これを変えることは他人にはででない。
本人がいじめ役を率先して買って出てるのだから、どうにもならない。この世に無菌状態の場所はないのだし、自覚をもって少しずつ自分を強くしていこうとすべきなんだよ、本当は…。しかし、それは強制できないし、地道な指導が必要だが、教師も親も、そういう綿密な教育ができない。やる暇もない。だから「いじめを止めよう」などと声高に叫ぶしかない。
自分は相手と少し話せば、この子はどういう環境から今の自分が形成されてるのかが大体わかる。人の心は言葉や文字に現れる。だから、それを察知して本人に迎合するでなく、自分の何かを感染させるように持っていく事が多い。感染力のある人間という言い方は変だが、感染される側に立ったときは、相手をそのように感じてしまう。ふつうは「影響力」というのだろうが。
好かれるとか好かれないとかよりも、影響を与えたいとは思う。どうなんだろうね~、人に好かれる方法って本は多いから、そういうノウハウはあるんだろうが、考えたことがない。いや、若い頃は考えたかも知れないが、忘れているのだろうか?感じたことを率直に言うのが「自分らしさ」実践していたj。が、それで「生意気だ」といわれる理由が分らなかった。
直接に「生意気だね、若いのに」と言われると、「若いからそうなんでしょう。年取ったら丸くなりますかね?」など、いろいろな答えを用意していた。他人が言い合いをしているの、、バカ犬の吠えあいと冷めてみていたせいもあってか、不毛な言い合いをくだらないと思っていた。だから言い合いをしないよう努めていた。その方法としてソクラテス的問答法は良いと実践していた。ソクラテス式問答法は、口論の元となっている問題点を指摘するのではなく、相手に質問することで感情的にではなく、現実の状況に焦点を当てる事ができる。これなら両者ともに考えられるようになる。相手は自分の問いや言い分を基準に他人を、周囲を見ているわけだが、その問い自体を自分に当て嵌めて考える作業をさせてみる。すると、相手の主観は見事に客観的になる。
主観ばかり論じていても平行線で面白くないし、議論で相手を説得させるのは骨が折れる。というのも、どんなに正しいことをいっても、相手が本当は納得したことを言ったとしても、正しい事が分らない相手だったり、納得してない素振りをすることはできる。説得されるのが嫌な人間はいるから、説得は本意ではない。自然に相手が主体的に納得するのが言いに決まっている。
ソクラテス問答法の核心は、「議論をせずに相手に気づいてもらうこと」だ。そういえば「世界三大悪妻」は、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェ、レフ・トルストイの妻のソフィア・アンドレエヴナということになっている。が、以前友人が、「うちの嫁も…」というので、「悪妻を持つとお前は哲学者になれるんだよ」と言っておいた。
「よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる。」はソクラテスの言葉。「悪い妻で不幸にならない」というところが彼らしい。幸福にはなんかニセモノが多い気がする。わざわざ「幸福だ~」という実感がなくても、「不幸だと思わないから幸福なんじゃないのか」ていどの幸福で十分だと思っている。幸福という言葉に盲従することもない。
人間の欲望が満たされることを「幸福」と思わない。欲望の全部が満たされた人間とは、考えただけでも怖ろしい。それを幸福といえるだろうか。満たされないもの、叶わぬものを追ってる姿も幸福なのである。とどのつまり、幸福とは生きていることそのもののように思う。今日一日を生き切れば、明日という日が必ずやってくる。それは幸せなことじゃないか…。