家族内に絶対的信頼関係があるというのは幻想で、そこに抑圧がある限り親子といえど命を危険に晒す。戸籍上は可能だが、親子を解消する法的手段はない。関係を絶つ、敷居をまたがせないは法律上問題はない、佐世保高1殺害事件の加害者A子の父親は、A子を祖母(父親の母)の養子としたが、なぜまた?父親の代理人を務める弁護士は週刊誌の取材にこう説明した。
「財産分与と節税の観点からの措置で、娘を切り捨てたわけではない。戸籍上A子の親は祖母になるが実父が父親である事実は生涯変わりなく、実際その後も事実上の父親としてA子と接している」。あり得る相続税対策だが、節税に熱心な資産家でもここまでやらない。相続財産が10億円以上あるなら、1000万円程度の控除が増えたからといって納税総額はさして変わらない。
それなら戸籍も普通の親子のままでいたいと考えるのが一般的である。わざわざ娘が精神的に不安定になっていた時期に、節税のためとの理由でわざわざ戸籍の変更をする理由があったのだろうか。A子は同級生を殺した理由として、「人を殺してみたかった」といったが、父親の頭を金属バットで殴打した理由も、継母にも捜査陣にも「殺すつもりだった」と打ち明けた。
長崎県警は1月20日、少女を父親殴打事件の経緯を捜査し、殺人未遂容疑で再逮捕した。再逮捕容疑は、昨年3月2日午前3時ごろ、佐世保市の実家で就寝中の父親の頭などを金属バットで数回殴り、殺害しようとしたとしている。一方殺害された被害者の父親は同日、事件から間もなく半年となる現在の心境を綴った手記を公表、公開裁判で容疑者少女を厳罰にするよう訴えた。
手記はB5判用紙3枚に綴られ、代理人弁護士を通じて報道機関に公表された。「本当に悔しくてたまりません。この気持ちは以前とまったくかわりません」と悲痛な思いを吐露し、事件前に少女が父親を金属バットで殴打したことを把握していた学校側には「警察に通報すべきだった」と対応の不備を指摘した。このような結果から考えると問題は残るが、判断は難しい。
娘に殴打された父親は担当教諭に連絡して経緯を話している。その際、父親が「事件にしたくないので、誰にも言わないでほしい」と頼んだため、担当教諭は校長らに報告しなかったという。生徒の問題であるが、校内で起こった事件ではないし家庭の問題といえなくもない。「事件にしたくない。誰にも言わないでほしい」と懇願されたら、自分が担任でも言わなかったろう。
担任教諭はその後に生徒である少女と面談した際、少女から、「人を殺してみたかったので(殴打は)父親でなくてもよかった。担当教諭でもよかった」という趣旨の話をしたという。それに対して教諭は、「私はあなたに殺されるわけにはいかない。あなたにも私にも悲しむ人がいるから」と答えたというが、のやり取りは担任教諭としてあまりに不甲斐なさすぎでないか?
「私はあなたに殺されるわけにはいかない」などと生徒に答えたとは信じられない愚答である。幼く、社会的に無知過ぎる。親の寝込みをバットで殴打した動機が「人を殺してみたかった。父親でなくてもよかった」、担任を名指しで「あなたでもよかった」などの言葉は、到底看過できない。父親の元に出向き、生徒の精神の異常性について何らかの措置を講ずべきでないか?
それほどの言葉である。「あんたを殺したっていい!」と言われ、「私にも悲しむ人がいるから殺されるわけにいかない」などと答える教師って、あまりに暢気すぎる。全部とは言わないが、教師の感性とはこんなものなのだろうか?。重大な事に対する感受性が鈍いというか、なさ過ぎる。「お前を殺したっていいんだ」と生徒をオカシイと思わないのだろう。
言葉だけではない、実際に寝込みの親を金属バットで殴打している生徒に尋常ならざる切迫感を感じないのか?普通の感性なら。何も講じなかったことによる責任はないが、鈍感な教師でなかったら違う展開となったろう。殺害された高一の女子生徒の父親が、刑事裁判で裁いて欲しいと思うのは当然だ。娘が殺されているにも関わらず、殺人容疑を処分保留されていた。
県警は同級生殺害に至る経緯を調べるため、父親殴打事件の捜査する必要があると判断したとするが、実父の殺人未遂容疑だけで再逮捕ということで、殺害された女子高生の刑罰が軽くなる事は決してあってはならない。少女は県警の調べに対しても、「殺すのは誰でもよかった」と供述し、善悪の判断に問題はないとみられ、刑事責任能力が問えると見通している。
長崎地検は鑑定結果を精査した上で「刑事処分相当」の意見を付けて家裁送致を検討しているようだが、家裁が刑事処分にあたるという判断を望みたい。「キチガイに刃物」という言葉は、正常な能力や判断力のない人間に刃物(あるいは武器や権力)を持たせると危険だと言うことだが、刑事訴訟法でっは、キチガイが刃物で人を殺せど刑罰は問わないとある。
キチガイ(判断能力がない人間)が野に放たれていることが問題だが、昨今はそういう人間を家庭が作る場合が多い。「うちの子は頭悪いから手に職でも…」という聡明な親が消え、我が子、我が子と大枚投じて塾に通わせ、バカでもケツをひっぱたけばどこぞの三流大学は出れるというのを足るを知らぬ親の浅ましさと眺めていたが、確かに問題を起こさぬ方が多い。
金属バットで親を殴殺といえば、34年前、二浪の受験生が両親を金属バットで殺害した事件が想起される。東大卒で一流企業に勤務する父親は2人の息子たちにも一流大、一流企業へ進むことを期待した。母親は夫を尊敬、夫の方針に従って子供の躾、教育に当たってきた。長男は一流大学に進学し、一流企業に就職したが、2歳下の次男は2度大学受験に失敗した。もう1年浪人を父親に懇願したが、予備校に通うと家を出るが予備校には行かず、時間とお金を浪費し続ける。ある夜、父親の定期入れからキャッシュカードを盗んだことがバレ、その際身に覚えのない現金盗難を疑われ、「家に泥棒を置くわけにはいかない。出て行け!」と父親に激しく叱責される。こんな時、いつも支援してくれた母親も、この夜ばかりは違った。
次男は2階の自室でウイスキーをあおり、やるせない気持ちを紛らわすが、その時父親が部屋に入ってくる。酒を飲んでいる次男を見るなり、怒りを爆発させた。「大学に行くのを止めて、明日、出て行け!」と足蹴りする。次男は追いつめられて逆上、ウイスキーをさらに飲み犯行を決意する。1階で就寝中の両親の顔と頭が叩き割られ、脳漿は飛散、血飛沫は天井まで達した。
この事件が世間を震撼させたのは、その残虐さよりもむしろ受験生を抱えた家庭、エリートで仕事中毒の父親がいる家庭なら、日本中どこでも起こり得るという点にあった。 決して他人事では済まされない事件であったという世間の関心である。2006年には奈良の高校生が自宅に放火、母と弟妹2人が焼死した事件で、高校1年生の長男は調べに激白した。
「父親から成績のことで再三叱られたことが嫌になり、すべてをなくし、リセットしたかった」と供述。医師の父親は長男にも医学部に進学することを期待し、ICUと呼ぶ勉強部屋で勉強を見るなどしていたが、時には熱心さのあまり、長男に暴力を振るうこともあったという。2つの事件に共通するのは、エリートの父親が息子にも同じ道を歩ませんと強制したこと。
親の価値観や基準を子どもに押し付けることで悲劇・惨劇にみまわれたケースは少なくない。外国の場合、親が子どもに暴力をふるう例は珍しくないが、子どもが親に暴力をふるうのは極めて日本的な現象だそうだ。なぜなら、親の最大の役割は子どもをしつけることで、子どもに保護や愛情を与える代わりに暴力によって勉強を強要するなどのケースは外国にない。個人の能力、個性を何よりも尊重する西洋諸国では、親が子どもの将来像を描き、それに沿って無理やりレールを敷き、その上を走るよう叱咤激励したり、時には暴力をもって子どもにプレッシャーをかけることなどはまずないであろうし、さらにはキリスト教の倫理観が厳然と存在している社会であるから、子どもが親に暴力を振るうことなど起こり得ない。
宗教による倫理的な規制がほとんどといってなく、直情径行な日常生活が自由に営まれる社会も日本だけではないか。イスラムの戒律の厳しさを眼にしながら、こういう国に生まれなくて良かったとつくづく思ってしまう。さらに日本ほど言語に頼らない文化はあるまい。「以心伝心」の文化の長所はあるが、「初めに言葉ありき」の西洋社会とは異なるマイナス面もあろう。
それは、言葉や論理より情緒によるコミュニケーションが重要視されてきた点である。そういう社会であれば、どうしても家庭内では必要以上に「甘え」という依存関係が幅を利かす。その依存関係が大きければ大きいほど、それが破綻すれば言葉や論理で修復を図ることが難しい。対案も見出せず、絶望的になり、感情的な怨念に転化されて激しい言動が噴出する。
言葉社会の文化は言葉による修復がなされるが、情緒文化におけるいさかいに修復の難しさはある。若き頃はさほど人の内面に興味はなかったといったが、言行不一致に甚だしき人間にはひどい目にあわされた。お菓子を買ってあげようという大人について行ったら、クルマに押し込められて誘拐される幼児を責められるだろうか?騙される側は無防備なものである。
「腹黒い」とは、心に何か悪だくみをもっている、の意味の他に、陰険で底意地が悪い、の意味もあるが、こういう人間に対する防線はかなり出来上がった気がする。言い換えると、言葉の端々からこういう人間を見抜くのが得意かも知れない。ちょっとしたことで分るのだが、それはこの手の人間に共通するものがあるからだ。どんなに隠してもすぐに見抜ける。
口から出る言葉の100%近くが嘘の人間が身近にいた。臆病で内弁慶、見栄っ張りで嫉妬深い、自己中心的で無慈悲、無知のくせに他者をバカ呼ばわり。他者に共感しないがする振りをする。利害のみで他者と接する。被害意識が強い。感情だけで理性の欠片もない。言葉をコロコロ変える。褒められて極度に喜ぶ。これが自分の母親であるなら労苦は想像できよう。
どれほどつくろっても騙されない自信はある自分は、この手の専門家。女の嘘は我が身を守るものだと認識・理解できるようになったが、噓をつかぬ女は信頼できる天使ある。離婚した後、妻に私生活を暴露され、あらん限りを公表される有名人は憐れである。家の中はパンツを脱いでいれる場所だが、身近な妻に暴露されるは、寝首を掻かれたようなもの。
これまさに百年の不作であろう。ジェームス三木、堺正章、井上ひさし、春風亭小朝、小沢一郎らの妻が思い浮かぶ。西川史子も今は黙して殊勝な素振りだが、辛抱の糸が切れると黙っていれないタイプかもしれない。が、彼女は甘やかされて育っただけで、アレコレ夫婦関係や、結婚に関する書物を読めば、自分の愚かさに気づかぬほどのバカではないんだろう。
女同士の話を聞いていると、くだらない自己規範を振りかざして夫や恋人をコケにして盛り上がったりする。「ハナ毛が出てるひとってどう思う?」、「うわー、絶対イヤー!」、「オシボリで顔を拭く人は?」、「いるよねーオヤジっぽいの、なんかいっきに冷めるよねー」、などと人をコケにするのがそんなに面白いんか?それでご満悦という低脳ぶり。
女みたいに毎日飽きるほど鏡を見ないんだよ、男は…。ヒゲは鏡がなくてもシェーバーで剃れる。鼻毛がイヤというが、昨日は伸びても今日は切るという流動的なもの。流動的な事は流動的に対処するのがまとも。鼻毛ごときできゃーきゃーいう女にそういう事は言わない。なぜなら、まともな女ならそんな事は言わないし、まともでない女に言って分るはずもない。
「鼻毛、イヤよねー」って死ぬまでいってろ。感性のままにものをいい、感性のままに対処しようとする女にアレコレ言うには野暮。明石家さんまのなんたら番組のように、バカ女をそろえて好き勝手を言わす面白さ。まるで天下を盗ったかのごとく言いたい放題ぶりで、アレは視聴者が「バカだな~女は…」と思わせるのが狙いであり、それで番組は成り立ってる。
同性からみても、「この女どもはどうしようもないバカ!」って思うらしい。さんまがオーバーリアクションで盛り立てるが、「君はバカでないか?」などといえば番組はなりたたない。もっともそんな司会者を登用するはずもない。さんまはバカを相手に上手く盛り上げてるし、彼のあのパーソナリティはさすがだよ。タモリやタケシより、盛り上げ感が上手い。
もし、男があんなような自己陶酔気味というのか、好き勝手いうならまず誰も相手にしない。「いい加減、バカかお前は?もっと広い視野を持てよ」くらいは言うか、思われてオワリだろうが、美女だから番組的に面白いのだろう。ということは、女はバカを晒しても「絵」になるということか。ブサイクが言おうものなら「絵」にもならない、いいとこ「屁」だろうな。
この程度で問題発言ということもなかろう。芸能人の問題発言はいろいろあった。第33回紅白歌合戦で桑田佳祐は三波春夫のコスプレで登場、「国民の皆様ありがとうございます。我々、放送禁止も数多くございますが、こうやっていけしゃあしゃあとNHKに出させて頂いております。とにかく、受信料は払いましょう!!裏番組はビデオで見ましょう!」と発言した。
これが物議を醸し、NHKから謝罪文を要求されたが拒否、NHKとの関係が悪化した。 問題発言の多くは事実を述べたものが多い。桑田にとって権威主義のNHKも、紅白もどうでもいいんだろう。今回の桑田発言も、橋下徹も、タブーに挑戦する実直さであり、要領のよい男に比べて臆せぬ発言に男気をみる。マツコ?美川憲一の方がズボン履くだけまだマシ。