嘘か真か定かでないが、女は失恋すると髪を短く切るという。ある日髪をバッサリ切った女に、「あれ、何で?失恋でもしたんか?」などの言い方をした記憶はある。二度や三度ではないが、「そうなの…」という返答はなくて大方は、「ちがう、ちが~う」だった。「髪は女の命」といわれた平安時代の女性の長い黒髪は、切るに切れない命と同じものだったのか?
洗うこともままならず、ふだんは櫛で梳かしてケアするしかなく、シャンプーは一年に一回くらいだったという。当時はシャンプーといっても洗わず、米のとぎ汁を櫛で梳かすさいにつけて梳いたようだが、米ぬかを使えば確かに艶はでよう。したがって当時の美人の条件としては、百人一首に描かれたような、黒くて艶々した超ロングヘア女性ということだった。
髪を長く垂らしたスタイルを大垂髪(おすべらかし)といい、女性が髪を結うようになったのは、江戸時代の初めであった。生まれて死ぬまで一度も切らず、7メートル超えの女性もいたというから驚きである。とにかく、長い黒髪が美人の条件である以上、必死で伸ばしたようだが、ワカメやヒジキの御利益はあったのだろうか?ただし、生まれながらのクセ毛女性もいたはずだ。
そういう女性は、誤魔化すためにつけ毛(いわゆるかつらの部類)をしたらしい。日本人女性は直毛が多いとされるが、何らかのクセ毛の比率は多く、70%くらいといわれている。したがって、ストレートパーマを施している女性は多い。思うに流行なのか最近はロングヘアが多いようだ。確かに髪を長くすることで、並顔が中くらいにアップするのだろう。
「失恋=髪を切る」は、今も昔も定着した女性の心理なら、そこにどういう意図が働くのだろうか?髪が女性の命なら、失恋したことで命を断とうとする疑似的行為なのか?ネットで調べてみたところ、失恋で髪を切る女性の割合は案外と少ないようである。自分もそういう図星の女性に遭遇しなかった。切る原因は単純にロングが好きな彼氏に合わせていただけという。
おセンチな理由ではなく、そういう彼氏と別れたから自分好みに切ったという。確かに、失恋=髪を切るが定着している現状で、同じことをしたら失恋しましたと公言したことになり、なんやかんや聞かれるのも面倒くさい。男と違って女は他人のことをなんやかんやと聞くらしい。ただし失恋女性が、気分転換にバッサリ切るのはないわけでなく、少数というデータである。
ジャニ系の少年たちにもロングヘアは多く、髪を茶に染めて自己主張というより、いかにもホストって感じがする。つまり、男にとっても髪は自己を装飾するツールのようだ。昨日初防衛した将棋の佐藤天彦名人は、どちらかといえば長髪で、おまけに対局中に自分のつむじ周辺の髪をクルクルと触る癖が頻繁に現れるので、見ていて不思議な印象を与えてくれる。
男のロングヘアは大流行の後に衰退したが、最近はまた復活の兆しが見える。流行は繰り返されるものだが、男女ともにロングヘアのする一つの要素として、顔に自信がなく隠すためのアイテムという考え方もある。特に女性でショートヘアの似合う人は、折り紙付きの美女であろう。ショートヘアの似合う条件の一つに、目鼻立がハッキリしているという事がある。
他にも、あごのラインが綺麗、首が細くて小顔、中世的な魅力があるなどの他に、耳が大きすぎないというのも必須である。自分たちの青春時代で、ショートヘアの似合う女性といえば、恵とも子、いしだあゆみ、九重佑三子、田代みどり、内田有紀、小泉今日子、原田知世らが思い浮かぶが、おそらく自分はショートヘアのボーイッシュな女性が好みだったのかも知れない。
セシルカットが流行したのは、1958年に公開された映画、『悲しみよこんにちは』の主人公だった17歳のセシルのヘアスタイルにちなんだもの。ロングヘアで覆い隠す女性も美しくはあるが、自分がショートヘアを好む理由はなんだろう?そこまで考えたこともなかったが、しいて言えば、ショートヘアには、"隠さない真実が満ちている"とは、言い過ぎだろうか?
本当にそうなのか?そう思っているのか?自問するが、ロングヘアの女性には美しさはあるが、ショートヘアにそれを求めない。求めるすべもない。その点はロングヘアとの最大の対比であろう。美しさを求めないなら、何を求めるのか?女性にはハートを求めるが、ショートヘアにはどこか、「真実」が見え隠れする。槇みちるが『若いってすばらしい』という歌で出てきたことがあった。
彼女のショートヘアの快活さがたまらなく好きだった。ボーイッシュというのだろうか、エレガントな女性よりも、「素」の魅力に溢れていたし、痩せた鶏ガラ女性よりもぽっちゃりが自分の好みだった。友人には、「何でお前はブサイクな女が好きなんだ?」といつも言われていた。確かに化粧女性は好きでなかったし、これも女性に真実を求める性向かも知れん。
どこか美しい物には欺瞞が潜んでいるように思えた。これも偏見だろうが、決して食わず嫌いというのではなく、お化粧塗りたくりの彼女もいるにはいた。が、お化粧の臭いが好きになれなかった。それに比べてすっぴん、素面の女はどこからも女の臭いがした。だから、彼女に化粧をさせなかったし、自分が嫌うのがわかってか、女も同調した。楽でいいというのもいた。
ショートヘアは確かに、「顔丸出し」である。爽やかで清潔感もあり、なにより快活だ。それにぽちゃを加えれば、これぞ自分の思う女の極致である。だから、友人から「ブス好み」と揶揄された。バラやユリより、レンゲやタンポポのような雑草が好きだった。花屋に売ってないような、それでも少女が摘み取って首飾りにするようなレンゲ草には、家庭の臭いが漂っていた。
こんにち、ロングヘアが主流だが、時にショートの女と出会うと、キラリと個性が光る。美しさではロングに及ばないが、ショートには可愛さが漂う。絹の美しさに対する木綿の味わいとでもいうのだろうか、素朴で嘘がない感じがする。もちろん偏見もあるが、経験的にもショートヘア女は屈託のなさを感じる。ショートですっぴん女なら、急な外出でも壁塗りの時間がいらない。
詞に書かれているような、小指を噛むという女に出会ったことはない。♪あなたが噛んだ小指が痛いという詞もあるにはあるが…。噛まれた小指に、「そっと唇を押し当て、あなたのことを偲んでみるの」などとこういう詞で曲が売れないハズがない。作詞は南沙織の楽曲が多い有馬三恵子である。有馬は広島カープの応援歌を三曲手掛けていることでも知られている。
理由は佐々木久子が主宰する、「カープを優勝させる会」のメンバーであったことによる。癖の類であろうが、子どもの頃の癖が抜けきらず、大人になっても小指を噛む女はいるという。一般的には精神的な不安感が強く、指を噛むことによって気持ちを安心させたいといった心理が背景にあるといわれる。普段は抑えていても、プレッシャーを感じると現れるという。
一人淋しく部屋にいるときにも現れるようだが、一般的に子どもの癖は親がしつこく注意をするので直る。表題の、「強く小指を噛んだり」の詞は、いかにも自傷的行為の臭いがし、女の苦悩の状況が現わされている。小指を男が立てて、「コレ」というとなぜか恋人もしくは愛人を意味する。子どもがよくやる、「指切りげんまん」もなぜか小指であるが、これには深い意味がある。
げんまん(拳万)の意味は、拳で1万回叩いてよいということ。指切りの起源は、男女が愛情の不変を誓い合う旨を証拠立てることを、「心中立」といい、遊女が客に対する心中立てとして、小指の第一関節から指を切って渡したことに由来する。かなりの激痛が伴うため、それほど愛してるということを意味し、貰う客も遊女の思いに応える気構えが必要であった。
しかし、実際に切る遊女は少なく、贋物(模造品)の指が出回ったらしい。そうした、「指切」が一般にも広まり、約束を必ず守る意思を表す風習へと変化したといわれている。それにしても誰がいいだしたのか、「針千本」などと、とても用意できない嘘をつくのはどうだろ?飲めば死ぬに決まっているが、「殺すよ!」を、「張千本」に言い換えるのは子どもらしい情緒である。