人間は偏見の塊りである。情緒や感情に左右されないよう気をつけていても、理性を揺るがす多くの偏見には気づいてないものだ。中立、公正、中庸が如何に難しいかは、人間が本能の趣くままにではなく、何かに影響される動物であるからであろう。聖人と言われる人の思想や言葉も、対立する側から見れば偏見と言えなくもない。何にも毒されずに生きることは可能なのか?
おそらく無理であろう。身近なところでは、血液型、県人気質、国民性、家族構成、親、師、友人、あるいは偉人、あるいは宗教などから影響を受け、何かに賛同し、肯定し、己の糧とする。染まるということは、他人が黒といえども白に見えることをいう。したがって、自分が信じるところを書いたところで、他人から見ればただの漢字や文字の羅列に過ぎない。
枯れた花を見るのはいたわしい。花の命の短かきを思うと切ない。多くの人はそんな気分になるのではないか?ウォーキングの途中、色々な花の枯れた姿をみるにつけ、自分は決してそんな気にならない。むしろ心の中では、「ごくろうさん」とエールを贈りたくなる。あれほど美しく咲き誇った花びらの残骸であるが、そこには花のちゃんとした役目がある。
勿論、賛同し、共感することもあるが、その場合は同じ偏見者であったということになり、それが数十万、数百万人となった宗教においても、偏見者の増大という見方は可能である。「これぞ真理也」というものほど偏見であろう。自分が信じていることを、「一つの意見」という言い方をするのは誤魔化しであり、本当に信じる以上は偏見であるからだ。
アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである」と言った。ならば、19歳以上は何なのか?と言った友人がいた。そうではなく、頭の柔らかい年代に、凝り固まってはダメだと言ったに過ぎない。「三つ子の魂百まで」になぞらえ、アインシュタインは18歳を3歳児と捉えた言い方をしたに過ぎない。創造性とは常識を疑うことから始まる。
何を信じてもそれが他方から見て偏見であるなら、その偏見を信ずることは間違いにはならない。なぜなら、他方も偏見だからである。この世のすべてが偏見なら、偏見を信ずればいい事になるからして、堂々と己の信念を偏見として主張すればいいわけだ。世の中、つまるところは偏見と偏見の一騎打ちということになる。それでいいのではないか?
自分は儒教思想の、「親を敬え」、「親孝行をせよ」に偏見を抱いた。「尊敬に値する親なら…」という全文があるなら分からぬでもない。確かに、「どんな親でも親」というのは正しい。今は少ないが昔は捨て子が多かった。そんな親でも親には違いないが、尊敬できる親であるハズがない。物事を一つの価値観で貫いた言葉には、どうしても偏見にならざるを得ない。
「尊敬に値しない人を尊敬しろ」という教えが間違っているのは、誰の目にも明らかである。よって自分は、儒家思想から距離を置いた。孔孟の儒家に対抗する形で老壮の道家思想がある。が、老壮思想にいうても、妄信はオカシイというところはありすぎるほどにある。一例をあげると第20章、「学を断てば憂い無し」について以下のように述べられている。
「学問をすることで種々のことが分かってくるが、それと同時に、これまでは何とも思わなかったことが悪く見えるようになったり、物足りないと思えるようなものが増え、不安に陥ったり、不満を抱くことが増えるゆえに、そうしたことに執着しないようするために、学問は止めてしまった方が良いのではないか」。これは明らかに学問の利点に言及していない。
思想も含めて、主張というものは論を強調づけるためにこういう言い方になる事が多い。儒家の、「親孝行」にしてもそうであるように。でなければ、どっちつかずの曖昧な考えになってしまう。自分も偏差値至上主義教育には反対だが、偏差値の高い人間には、低い人間よりも優秀なところは多だあろう。が、総合論、相対的に、雑草の強さを述べているに過ぎない。
知識があるとないとでは事物の見方がまるで変ってくる。表題に殉じてこういう例を出してみる。「枯れた花を見てどう思うか?」これに対して、三態の人間があるのではないか?ある人は、「悲しい気持ちになる」。別のある人は、「なんとも思わない」。さらに別のある人は、「ご苦労様と感じる」。自分は、「ご苦労様」と枯れた花弁を称えるが、その理由は?
花は自らの役目を果たしたと悟ると枯れていく。花(花弁)の役目とは、自らの存在を虫や鳥にアピールして花粉をつけにきてくれるようにするためのもの。花はそのために咲いている。受粉が終われば花弁の役目はもはやない。花は人のために咲いていないということだが、あまりの花の美しさについ我を忘れて見とれてしまう。今の時節はふわふわと蝶が花に舞っている。
素朴だが心にしみる禅の言葉はたくさんあるが、「柳緑花紅(りゅうりょくかこう)」とは、11世紀の中国の詩人で禅の居士、蘇東坡(そとうば)の言葉で、彼は真実を見抜く力を持っていた。柳はみどり、花はくれない。見たまま、そのまま、いずれも真理の具体相であり、転じてさとりの実態をいう。さとりとは本来の姿をそのままに受けとめるさまをいう。
花は春になると百花爛漫として咲き競う。花は誰のために咲くのか。人に見てもらうためなのか。鳥や虫を呼ぶためなのか。春を告げるためなのか。そうは言えど、早春に綻ぶ花もあれば、晩春を彩る花もある。確実なことは、花は他の評価を期待したり、思惑を気にしたりで咲くのではない。本来具わった天分が、時節因縁を待って開花するだけのことである。
花に限らず、この世の一切の事々物々は天真自然の妙で、持って生まれた天分が内から躍り出たものである。蘇東坡居士は、自然のありのままで姿に不変不動の真理が宿っていることを直視し、「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」と道破した。真面目とは、人や物事の本来のありさまや姿をいう。真面目とは日々の生活を懸命に全力で生きることで養われる。
人がそのように生きるなら、ある日ふと、「柳は緑、花は紅」の境地に至るのではないだろうか。当たり前のものを、当たり前に受け取ることの大事さを説いた禅語である。禅と言えば座禅、座禅をやるうえで大切なことは、「調身」、「調息」、「調心」といい、これは姿勢と呼吸を整え、心も整えていくという考え。これによって本来の姿に戻していくのである。
「日々是好日」、「行雲流水」、「一期一会」などが禅の言葉である。「行雲流水」は自分の好きな言葉である。、自由に生きる。大空に浮かぶ雲。行く手を阻む大きな岩が出てきたって、なんなく流れていく水はこだわりなくぐんぐん進むのだ。だから自由に生きて行こう、ということであり、老子の道思想と、インドで生まれた仏教思想には多くの共通点がある。
老子の、「無為自然」、ありのまま自然体であることの大切さを説いており、中国仏教の、「禅宗」と密接に結びついていたと言われている。「言葉に頼らないこと」、「流暢な言葉や美言、饒舌は信用できない」。これは禅宗、老子の共通の教えである。「花はそれぞれ互いに嫉妬しない」これも老子の言葉。「憧れ」はいいが、「嫉妬」は良くないと誰かがいった。
二つは似て非也のようだが、実は似たもので違いは紙一重である。遠い憧れをぐんと身近に感じたら嫉妬になる。嫉妬は、「悪」、憧れは、「良」に見えるが、紙一重ゆえに危ない。日ごろからこれらの感情を持ちやすい人は、「他人は他人、自分は自分」と割り切るようすべきであろう。他人と違う点、つまり個性を優先して自分の存在価値を高めるよう邁進すべきかと。
老子の、「無為自然」思想は偏見を超えた真理を説ていると感じられるが、決して錯覚や思い込みでないのは、例えば、風の吹くことも、雲の動くことも、河水の流れることも、日が照り、雨が降り、雪の降ることがあるのも、鳥や、虫の飛ぶことも、獣類の走ることも、草木が繁茂ことも、花が咲き枯れることも、何ら疑いようのない自然の摂理であるからだ。
人が生まれ息絶えることもである。人は雨を嫌がるが、他方の人は雨を恵みとする。人間的視点に立てばすべては相対的だが、天地自然の側からみれば、万物を平等に慈しみ愛している。集中豪雨や大水害においても、人間が罪深いと感じるだけで、それ自体は慈しみである。弱肉強食も自然の掟だが、象を食べない人間が象を殺戮するのは生きるためなのか?
行きつくところ、「人間は何のために存在するのか?」である。 「人間が何のために存在するか?」を科学的に解明できないがゆえ、哲学や宗教が必要だった。しかし、人間がいかなる存在であるかは、実は科学で解明できている。「人間は自然の破壊者である」というのが答えである。自然の対義語が、人為(人工)であるのを見ても、その答えに異論はなかろう。