自死は何をも解決するものではなく、逃げであるのはあきらかだが、さんざん悩み苦しんだあげくの自死を一概に「いけないこと」とはいえないだろう。自尊心を喪失して生きながらえるのは死より羞恥という自殺もある。STAP細胞問題のとき、理研の笹井芳樹の自殺にその思いを見た。インテリジェンスの高い人間ほど、羞恥の度合いは強いのではないだろうか。
深谷隆司という自民党代議士がいた。浅草生まれの下町育ちの深谷は、歯に衣着せぬ物言いで人気を博したが2012年引退した。「深谷隆司の言いたい放題」というブログを開設、新着の記事は、「人、色々」である。歯に着せないのはいいが、自民党員という党籍を背負った人の発言には真の自由さがない。何を書いても元自民党員の肩書が未だに背負われている。
彼の2014年4月11日の記事、「恥の文化は失われたか」に以下の記述がある。「全ての責任は小保方氏1人としたことも、トカゲのしっぽ切りのようで不愉快だ。(略) 理化学研究所は、最初の発表の時、彼女をことさら過度に持ち上げて宣伝材料としたのではなかったか。(略) マスコミの報道も相変わらずであった。センセーショナルに煽り立て、ちょっと怪しくとなると手のひらを返したように叩く。
褒め、貶し、往復で稼ぐ何時ものパタ-ンだ。なんだか日本の良さ、『恥の文化』が失われつつあるようで悲しい」。本記事の前段部分は、渡辺喜美代議士の政治資金疑惑についてだが、「政治をなめるな、冒涜するな」と、辛辣に批判をする深谷もかつては政治家であったろう?自身も政治家であるのに、政治家が政治資金に関して偉そうなことを言えるのか?
あげく、「恥の文化」という意味のはき違えをしているのは滑稽千万である。日本人の恥の文化についての考察は、ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』である。かつて日本を支配していた武士階級は、志高く、倫理観も高く、世間に顔向けできないことをしたら、「恥を知れ」とばかりに自ら腹を切った。それほど恥というものを重んじていたと一般的には解されている。
ところが、ベネディクトはそうは言わないばかりか、決して武士を誉めてはいない。ベネディクトは西洋の「罪の文化」に対比させて日本人の、「恥の文化」を以下のように提唱した。西洋の人間は、自分たちの行為は常に神から監視されていると信じ、ゆえに倫理的に正しい行いに務める。したがって、誰かに悪行が知られることがなくても、人間は罪の意識を感じる。
ところが日本人は、誰かに自分の悪行が知られたら、非常に恥ずかしさを感じる。その結果として死さえ厭わない。反面、他人に自分がやっていることがバレなければ、自分のやったことを悪行と感じない。言われてみればその通り、これがベネディクトの言う、「恥の文化」である。同著には西洋の子育てと日本の子育てのちがいについても書かれている。
幼少期において、西洋が厳格に管理して育てるが、日本は甘く温情的に育てる。青年期には、欧米は子どもの自己責任に委ねて育てるのに対し、日本は厳格に管理して育てると対比している。子育ての厳格さの時期が、日米ではまったく逆になっているという。まさしくその通りである。日米の文化の違いが子育てに起因しているとのベネディクトの指摘は背筋が寒くなる。
深谷が偉そうな言い分の裏には、自民党が長らく政権与党に属しているからである。日本人というのは、その人が何をしたか、どの様な人格の持ち主かより、どのような集団や組織に属しているかで、個人の存在価値を量る傾向が強い。ゆえにか組織集団のリーダーは、集団の評価を高めることこそが最高の目標と考え、個人の権利や人格を軽視する傾向を持っている。
集団の名誉という全体の利益の前には、個人の権利などは単なるエゴイズムとされてしまうが、この傾向を根強く持っている組織が日本の学校である。特に進学校と称する高偏差値校の教師は、生徒のことより、学校の評判ばかりを気にしている。これらが生徒たちに不評ならいざしらず、進学校に人間性など無用とばかりに毒された生徒も哀しきかな被害者であろう。
自分はどのように己の人生を全うするか、という個人主義社会における、個人の権利保障より、集団や組織の名誉の方が優先する点で、「恥の文化」は日本の集団にはで根強いものがある。笹井氏が会社の中でクビを吊っているのが発見されたとき、それが会社の中という事からして、笹井自身にとって理研という組織に対する物言わぬ抵抗であったと感じた。
「死んでしまおう」と悩むのはあっていい。が、悩める人間を救おうという力も配慮も組織にないと悟った時、人は孤立する。家庭や家族があるではないか?と考えるが、仕事がすべて業績がすべての人間にとって家庭は寝場所に過ぎない。その意味で笹井は身勝手である。日本人は組織や集団という看板を背負わない個人になると、途端にに我がまま、身勝手になる。
背負い過ぎても家庭と仕事の分別がつかなくなるようだ。仕事はビジネスと割り切れない日本人の勤勉さでもあろう。これからの日本人に必要なのは、学校や会社などの特定の集団の一員としての自覚ではなく、人間としての尊厳と責任ある個人としての自覚なのではないだろうか。学校教育の場においても、この様な自覚を持つ育てなければならないと愚考する。
ベネディクト女史は、集団の中に埋没し、そこに生きる場を求める人間を批判した。「恥の文化」では、自律的な人格は育ちにくいと指摘した。笹井氏の自殺は言わずもがな集団埋没型であり、同じように中学、高校生の自殺も集団埋没型から離れて生きることのできない苦悩であろう。それらは被害者のみならず、加害者側にも反映するなら、何をかいわんやである。
いじめがなくならないのは、見つからなければ悪いことだと思わないからである。政治家のいう「恥の文化」の思考はまるでお角違いだが、少なくても自分のした悪行が他人にばれたら恥ずかしく感じる日本人の傾向を指したベネディクトであるが、こんにちにあっては、悪行が露呈しても恥ずかしいどころではないころが、「恥の文化」退行であろう。
悪いことを悪いことと思わず行為をし、見つかって悪いことだと指摘を受けても、悪いことだと感じないのはどこ原因があるのだろうか?それは家庭にあるように感じる。例えばいじめ、例えば万引き、そういった世の中で曖昧にされているような悪事について、親が強い問題意識を有しているかどうか…。タカが万引きくらい、たかがいじめくらい、誰でもするよ。
そういう親の意識が怖い。小さなミスこそ口酸っぱく言い続けなければならないという野球監督のことを書いたが、そうでなければ人間は自分で自分を簡単に許してしまう。巨人の10連敗に思うのは、監督のおぼっちゃま性向が多分に感じられる。そんな素人が犯すようなミスは絶対に許さんという気迫がなければ、人間はぬるま湯につかる。「いい湯だ」に厳しさは無かろう。
これだけいじめ事件が発生しているのなら、食事時に父が、「いじめみたいなことをやる卑怯者は許さん」と言い続けることでできよう。「万引きはバレたら恥ずかしくないか?」と子どもに問うことはどの親でもできる。そこから話を膨らませて、「見つかって恥と思うことは、見つからなくても恥だろう?違うか?悪ではないのか?」などという対話が必要と思う。
親が日々啓発し、子どもが触発されていく。これが親と子ではないのか?仮にも、「食事中にそんなうざい話は止めてくれない?」と子どもに言われるような親であるなら、子どもが生まれた時からやり直さなければならない。惨めだが、すべては親のまいた種。それこそがベネディクトのいう、「幼児期の厳格さ」である。子どもは存在だけで可愛いものだ。
甘やかさなくても可愛い。ならば、後は厳しく善悪良否を判断できる子どもであってほしい。母親がダメとは言わないが、善悪良否や正義の教育を担当するのは父親が適任とされる。なぜなら、我が腹を痛めて生んだ母親と違って、客観的に我が子を見つめることができるからだ。自死を急ぐ子について、自分的にはその子を産み育てた親に責任はないとはいえない。
「不足の教育」は事件ではないがゆえに、いじめという犯罪や事件性に言及するしか仕様がないということだが、いじめた犯人を見つけ出そうが、学校の管理責任を追及しようが、子どもが生きて戻るわけではなかろう。事後においてもやることはあるにはあるが、それで満たされるものは空虚である。「死なない子ども」、「強い子ども」を育てるが勝る。
おそらく、死ぬ直前の子どもは視野狭窄で、パニックになっているのかもしれない。確かに我慢の形跡は見られるものの、とどのつまりは、「もう耐えられない。我慢の限界です」などの文面を目にする。やはりこれは、「あきらめ根性」というものだ。耐える一つの方法、頑張る一つの方法は、自分などよりとてつもなく苦しんだ人を伝記かなにかで見聞きすること。
そうした想像力で耐え抜いた人も現実にいる。あとは、孤立を目指す方法もある。自分と周囲に神聖なるバリヤーを貼りめぐらせ、誰にも立ち入られない。自らもそこを超えない。できるかどうかは、とりあえず試す価値はある。死も選択種にはちがいないが、あまりにも勿体なさすぎる。ただ、どんな優秀な頭脳をもっていても、人は死ぬのだと笹井氏の自殺で知った。
死を前にすれば乞食もノーベル賞候補者も何ら変わらない。ゆえに死は人間にとって唯一平等である。この人は才能ある人だからと神の恩恵があるわけでない。稀に見る善人であれ、稀代の悪人であれ、神に忠節な敬虔信者であれ、それが寿命の長短に影響しない。その部分をして、自分が無神論者であることを肯定できる。自死を超えるものを人は見つけるべきかと。
お千代さんの『人生いろいろ』から取った表題だが、実は島倉は知る人ぞ知る金銭的苦労をした人である。人の善さが講じて数十億円を騙し取られたという。ある席上で島倉は名前こそ明かさなかったが、「法律が許してくれるならば(その人を)この手で刺したい」と述べている。とかく芸能人は金のなる木であり、その木に群がる人間の話は少なくない。