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分りづらいイスラム世界 ②

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ユダヤ教徒は『旧約聖書』のみ信じ、キリスト教徒は『旧約聖書』と『新約聖書』を信じ、イスラム教徒は『旧約聖書』と『コーラン』を信じている。が、『コーラン』こそがイスラム教徒の最大の聖典である。彼らは決して宗教が違うから対立しているのではなく、問題を複雑にしたのは第二次大戦後も中東に影響力を残したい、イギリスのしたたかな思惑であった。

イスラエルがアメリカの支援で強大になるのに対抗するかのように、ソ連はアラブ諸国に接近して軍事援助を増強して行った。中東で米ソの東西冷戦が広がったことも問題をこじれさせたが、やはり最大の元凶はイギリスである。第一次大戦前、パレスチナを含むアラブ地方はオスマントルコ帝国の領土であったが、大戦が始まるとオスマントルコはドイツ側についた。

イギリスやフランスと戦うこととなるが、このときイギリスはトルコ支配下のアラブ人を味方につける工作をする。イスラム教の聖地メッカを守っていたアラブ人有力者のフセイン・イブン・アリーに対し、戦後、東アラブ地方にアラブ独立国を作る約束を与えた。フセインはイスラム教の創始者ムハンマドの子孫、「高貴な血筋をひく」としてアラブ界に強い影響力を持つ。

イギリスとの約束を信じたフセインは1916年6月、トルコに対してアラブの独立を宣言、「アラブの反乱」を起こす。このときアラブ反乱軍に加わり、イギリスとパイプ役を果たしたのがイギリスの考古学者で、イギリス軍の将校でもあった、トーマス・E・ロレンス大佐である。その時の彼の活躍ぶりは後に『アラビアのロレンス』という映画にもなった。

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イギリスはこの地方にイギリス寄りの国家を作ることで国益を増進させる思惑を秘め、アラブ人には独立国家を、ユダヤ人には「パレスチナにナショナルホーム建設」を約束し、フランスとは「サイクス=ピコ協定」を結び、大戦後に旧オスマントルコの支配地域を、両国で分け合うとの約束を秘密裏に交わしていた。大戦に勝利した英・仏は中東を分割支配をした。

ところが、アラブ人の独立国家建設はフランス軍に鎮圧され、チャーチル植民地相(後の首相)の裁定で、ヨルダン川の東側にトランス・ヨルダンという国を認めた。これによってヨルダン川の西側がパレスチナとなり、イギリスはその後もパレスチナ統治を続ける。ところが第二次大戦で国が疲弊したイギリスに、パレスチナを統治する力がなくなっていた。

その一方でナチスドイツに虐殺されたユダヤ人に対する同情的な世界世論が高まる中、「ユダヤ人のパレスチナへの移住を認めようではないか」という動きが出てき始めた。そこでイギリスはパレスチナをどうするかという問題に直面したが、結局これを国連の判断に委ねる。そして1947年11月29日、国連総会で「パレスチナ分割」が決議されるに至ったのだが…。

結論を言えば国連の「分割案」は守られなかった。決議内容は、パレスチナの56%の地域に「ユダヤ国家」を、43%の地域に「アラブ国家」を建設し、両者にとっての聖地エルサレムだけは「国債管理地区」にするというもの。この分割案によってイスラエルが建国されたが、イスラエルを認めないアラブ連合との戦争でイスラエルは国連決議を上回る地域を占領した。

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その広さはパレスチナ全土の77%にも及んだ。残りの地域はヨルダンとエジプトが占領し、パレスチナは事実上3つに分断された。中東戦争は四度起きている。イスラエル建国で始まった第一次中東戦争、第二次中東戦争は1956年10月、エジプトがスエズ運河を国有化したことで、運河会社の株の大半を所有していた英・仏がイスラエルにエジプト攻撃を働きかけた。

イギリス、フランス両軍もエジプトを攻撃した。が、この戦争には米ソが強く反発したことで、三ヵ国ともまもなく軍隊を撤退させる。1967年6月5日に始まった第三次中東戦争は、エジプト、シリアがイスラエルへの軍事圧力を強めたことに反発したイスラエルが先制攻撃を仕掛け、わずか6日間でイスラエルが圧勝した。これを俗に「六日戦争」と呼ばれている。

エジプト空軍機は滑走路を飛び立つことさえできなかったといわれるほどに、イスラエル空軍による猛攻を受けて壊滅した。この戦争でイスラエルは、ヨルダン領であったヨルダン川西岸と、エジプト領だったガザ地区とシナイ半島全域および、シリア領のゴラン高原を占領した。これはもう国連が決めた「パレスチナ分割案」のほぼ全域を手に入れたことになる。

戦勝国イスラエルの鼻息は荒く、休戦ラインのバリケードを撤去、エルサレムを「統一された首都」と宣言する。それまで聖地エルサレムは国連の分割案では、どこにも属さない「国際管理地域」に指定されていたが、イスラエルの行動は国連無視の暴挙であった。国連の形骸化は今に始まったことではなく、かつても今もボランティア団体の様相を帯びている。

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現在の事務総長藩基文の役立たずぶりは目に余る。紛争地域には行かない、慰安婦とかヘイトスピーチ等韓国の言い分を積極的に取り上げるわ、はたまた韓国人を国連の事務員等に多数登用して議論をかもしている。日本政府は国連に対する活動資金を米国に次ぐ2番目に居室しているが、中国の妨害で理事になれない。ちなみに中国はお金を一円も出していない。

第一次、第三次中東戦争で領土を拡大したイスラエルには「不敗神話」が生まれていた。これが打ち破られたのが第四次中東戦争である。1973年10月6日、この日はイスラエルの「ヨム・キプル」と呼ばれるユダヤ暦の「贖罪の日」。ユダヤ人は24時間の断食をし、外出もせずじっと静かにする日。この日を待っていたかのようにシリア・エジプト軍が攻めてきた。

不意を突かれたイスラエル軍は初期に苦戦はするものの、態勢を立て直して反撃したが、一時的にせよアラブ側が始めてイスラエルを追い詰めた。この戦争による支配地域に大きな変化はないが、「石油ショック」という事態が世界を揺るがすこととなった。これを機に膨大な製油貯蔵を持つアラブ諸国は、石油を政治闘争の武器にできることに気づいた。

「石油ショック」が世界の経済に与える打撃は計り知れない。OPEC(石油輸出機構)は1960年に石油輸出国によって結成されたが、1970年代には石油の価格決定権を国際石油資本より奪い、2度のオイルショックを引き起こした。1986年以降、石油価格の決定権は自由市場へと移ったが、OPEC加盟国は全世界の石油埋蔵量の2/3を占め、石油供給の鍵を握る存在である。

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1973年11月、関西でトイレットペーパーを求める人々がスーパーに殺到した。この情報は瞬時に伝わり、東京でもスーパーが開店2時間前から長蛇の行列となり、トイレットペーパーや洗剤などの日用品が瞬時に棚から消えた。これが第一次オイルショックである。石油価格の急騰に慌てた日本政府は、「緊急石油対策推進本部」を設置、石油の節約に乗り出す。

官公庁での石油・電力の節約、デパート・スーパーの営業時間短縮、テレビの深夜放送自粛、ネオンの節約、エレベーターの使用制限などが実施された。OPEC加盟のペルシャ湾岸6カ国が原油価格21%値上げをするなどの方針を発表した直後、官房長官が「国連決議に基づいた平和の確立を望む」などと寝ぼけた発言をする日本政府に対して批判が集まった。

日本は当初、イスラエル批判はできなかったが、だんだんとパレスチナ寄りになり、最後は反イスラエルの立場を匂わせるまでになったが、再び批判がのしかかる。中東情勢をきちんと見極めた上での批判なら、その見識は評価されてしかりだが、"石油欲しさ"の方針転換が見え見えで、日本の外交政策の転換は「アラブ寄りというよりアブラ寄り」と批判された。

日本だけが醜態をさらしたのではなく、「石油が手に入らないのでは?」の脅しは効果があった。EC(ヨーロッパ共同体、その後EU)諸国もアラブ寄り方針を掲げたことで、開発途上国の多くもイスラエル批判を展開し、イスラエルは孤立した。イスラエル建国と同時に勃発した中東戦争で、イスラエル領内に住んでいたパレスチナ人が迫害され、住居を追われている。

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これがいわゆる「パレスチナ難民」。彼らはもともと住んでいたイスラエルに住むこともかなわず、他に住める土地もない。非情なイスラエルに言い分はないようだが、イスラエルが現在の地に建国した理由は、イギリスとの約束と自分たちの法典が根拠だが、誰にも認められるものではない。パレスチナ人を追い出して建国して良いとする理由はどこにも無い。

が、イスラエルがパレスチナの地を侵略・占領してから、相当な時間が経過した。現在では世界の殆どの国がイスラエル国を承認している以上、既成事実のうえに立って新しい安定した関係を模索すべき状態にあるのがこんにちの情勢である。先の湾岸戦争にも触れておく。1990年8月2日、兵士10万人のイラク軍大戦車部隊が国境を越え、突如クウェートに侵攻した。

6時間後には首都を制圧、クウェート全域を占領した。クウェート空軍は交戦することなく隣国サウジアラビアに逃走する。わずか人口200万、石油資源に恵まれた小国クウェートは6日後にはイラクに併合され、イラク政府は「クウェートはイラク・バスラ州の一部になった」と発表した。隣国に軍隊で侵攻、その国を領土にする野蛮な行為に世界は震撼した。

なぜイラクはそのようなことをしたのか?実はイラクは前からクウェートを自国の領土と主張していた。19世紀、イラク~クウェート一帯はオスマントルコ帝国の領土であった。ところがイギリスが進出してきたことで様相は一変する。1913年、イギリスはオスマントルコと協定を結び、クウェートをオスマントルコ領から切り離して自国の植民地にした。

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1914年の大戦でイギリスはオスマントルコ軍に勝ち、トルコ帝国領土であったイラクも支配下にする。イラクは1932年独立したとき、クウェートから分離独立することを反対しなかったが、まもなく態度を変えてクウェートを自国の領土と主張する。1961年、イラクのカセム大統領は、クウェートはイラク・バスラ州の一部でイギリスの勝手なでっち上げと主張。

イギリスは同年、クウェートの独立を容認する。1979年、イラク大統領に就任したサダム・フセインはこの地域に巨大帝国を作る野望を抱き、80年9月に隣国イランを攻撃、イラン・イラク戦争が始まる。ペルシャ湾に面した土地のないイラクはクウェートを必要とした。豊かなクウェートを手にすればイラン・イラク戦争の長期化で生まれた900億ドルの負債も返せる。

フセインの勝手な考えがイランに続いてクウェート侵攻となった。国連の安保理事会はイラクの無条件撤退を求めた決議を採択するが、侵攻当日という素早い対応であった。その後もイラクに対する経済制裁を行うが、11月29日、イラク軍が翌年1月15日までにクウェートから撤退しない場合、「必要なあらゆる手段」とると通告する。ソ連は賛同、中国は棄権した。

国連決議案に対してフセインは、イラク撤退の条件として、「イスラエルの占領地からの撤退」という奇策で応酬する。イスラエル問題を持ち出すことで、フセインはイラクのクウェート侵攻をアラブ対イスラエル問題にすり替えを狙う。これに呼応したのがイスラエルに土地を奪われた難民組織のPLOで、イラクの打ち出した方針は、国際社会をPLOに向けるチャンスと捉えた。

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PLOのこの態度表明にはこれまでPLOに資金援助をしていたサウジアラビアは援助を打ち切り、PLOは窮地に立つ。アメリカもイスラエルに対し、イラクの挑発に乗らないよう説得、イラクがイスラエル攻撃をしても黙視したことでイラクの思惑は外れた。その後は多国籍軍という新たな軍隊が組織され、一方的に傷めつけられたイラクはクウェートからの撤退を決めた。

その際、腹いせにイラクはクウェートの約500もの油井に火を放ち、莫大な石油が燃え上がり、黒煙がクウェート上空を覆い、大気汚染をもたらした。戦争とはそれ自体が環境破壊を伴うが、イラクのフセイン大統領のこうした罪は重い。結局イラクは負けたがフセインの独裁者的立場は変わらなかった。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生する。

同時テロ以降の合衆国は、アルカイダを支援しているとしてフセイン政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。ブッシュ大統領は、イラクをイランや北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」と名指しで批判する。2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にフセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行ったが、フセインはこれを黙殺する。

2003年3月20日、ブッシュは予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分を掲げ、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始した。2003年12月13日、フセイン大統領はイラク中部ダウルにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり逮捕された。拳銃を所持していたが抵抗や自決などは行わなかった。

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2004年7月1日、大量虐殺などの罪で訴追され、予備審問のためイラク特別法廷に出廷した。2006年11月5日、フセインはイラク中部ドゥジャイルのイスラーム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇だ」として非難した。

2006年12月30日、フセインは米軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。湾岸戦争は冷戦が終ったために起きたものだが、冷戦が終ったゆえに国際社会全体によるイラク包囲網の実現もなったことなどを考えると、二重の意味で「冷戦」の終わりを象徴する出来事であった。




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