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分りづらいイスラム世界 ①

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パレスチナがユダヤ教徒の地であった約1900年前、ナザレという小さな町に大工の子として生を受けたイエスは、そのユダヤ教の世界に独自の信仰集団を築きあげていった。ユダヤ教は、ユダヤ人と唯一神との契約に基づく宗教であり、契約当事者は神とユダヤ人となるが、イエスは一方の当事者であるユダヤ人を外して、すべての人間が神との契約可能と説いた。

そのことでユダヤ律法社会からあぶれたりはみ出した人々が救済を求めてイエスに従った。それに反して、既得権者であるユダヤ人はイエスに反発したのは当然であろう。上流社会を形成するユダヤ教徒はイエスやキリスト教徒に対し、誹謗、中傷、及び激しい弾圧を強めていったが、イエスはそれにもめげず、「神の国は近づいた。悔い改めよ」と説いた。

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「私は王国を築く。そこに入れる者は幸せである」と言った。当時パレスチナはローマ帝国の属領で総督ピラトが統治していた。ユダヤ教の律法師は、「おそれながらピラト様」とでも前置きをして続けた。「イエスは聞き捨てならないことを言っています。国をつくって王になるのだと――」。ローマ帝国領内に国を築き、王になるなどローマ皇帝への反逆である。

ピラトに召喚されたイエスは「その通り、わたしは国をつくり、その王となる」とピラトの尋問に毅然と答えている。あげく、「しかし、わたしの作る王国はこの世のものでない」と、イエスはきわめて重要な言葉を最後に付け加えている(新約聖書ヨハネ第18章36節)。イエスのいう「この世のものでない王国」とは、心の世界、精神の領域を言ったものだ。

イエスの死からおよそ500年、アラビア半島のメッカでイスラム教が生まれた。ムハンマドは神アッラーから「預言者」であることを告知され、以降10年間布教に努め、西暦622年、メディナに「イスラム共同体」を建設。そして10年間、共同体の首長を務め、多くの「神の命令」と「預言者としての言行」を残した。前者は『コーラン』、後者は『ハディース』にまとめられた。

唯一神教の預言者はムハンマド以前にたくさん輩出されている。アブラハム、ノア、モーゼ、ヨハネ、そしてイエス(イスラムでは預言者)。これらの預言者とムハンマドの決定的な違いは、彼が「最後の預言者」に指名されたことにある。「最後の預言者」とは、もう二度と現れないことを意味する。神はムハンマドに全てを託したと理解すべきなのだ。

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人類がいつまで続いたとしても、その間に起こる全ての問題は『コーラン』と『ハディース』に解決のカギが隠されているという解釈である。政治的、宗教的にいまだ紛争が絶えないイスラム国の中心都市エルサレム。ここはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の歴史と重みが数千年に渡って渾然と溶け合った旧市街地は、三大宗教の巡礼地(聖地)と呼ばれている。

85万平方キロに及ぶ聖地一帯はぐるりと約4キロの城壁に囲まれ、そのほぼ中央に位置するのがオリーブ山。イエス・キリストが死後3日後に復活し、その40日後に昇天したとされる標高825メートルの小高い山。旧市街の真正面辺りに位置し、日の光を浴びて黄金に輝いているのが「岩のドーム」(黄金ドームとも)で、イスラム教のモスク(礼拝堂)である。

このドームを中心とした周辺一帯が、「神殿の丘」といわれる「モリヤ山」で、ユダヤ教によると世界が創造されたときの「基礎石」が置かれた場所であり、その基礎石の三層下には泉が湧き、天地創造以来、その泉の水が水脈として全世界に流れ渡っているといわれているという。いわば、ユダヤ教にとって、"世界のヘソ"ともいえる重要な場所となっている。

また、ここはユダヤ人の太祖アブラハムが神と契約を結んだ聖なる山でもあり、ダビデ王が都を置き、ダビデの後継者ソロモンの神殿であり、紀元七〇年に崩壊するまでユダヤ人の宗教・政治・文化の中心地だったところ。イスラム教のモスクの岩のドーム内部には、ムハンマドの「ミラージュ」(昇天伝説)の大きな岩があることで、「岩のドーム」と呼ばれている。

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これはムハンマドの次のような夢に由来している。「ある日、ムハンマドは天馬ブラグに乗り、メッカからひとっ飛びでこの聖地にやってきた。そして岩を蹴って今度は天国へと昇り、そこでキリストとモーゼに会い、再び天馬に乗ってメッカに戻って来たとき、夢から醒めたというものだ。ドームの中心部で崇められている岩は、その時の岩だったという。

エルサレムという都市郊外に位置するこの聖域は、世界三大宗教にとっての重大な意味を持つ場所である。ユダヤ教の「嘆きの壁」、キリスト教の「聖墳墓教会」、イスラム教の「岩のドーム」が入り組んでいる。城壁に囲まれた旧市街ではマシンガンを手にした兵士の姿が目を引く。なぜ兵士がいるのか。それは、エルサレムが「抗争の場」であったからである。

現在でも、ユダヤ人とここに住むアラブ人との争いによって火種が消えることはない。エルサレムは「深い信仰心」と「争いの血」がにじんだ都市なのである。イスラム国の人質問題に苦慮するわが国とヨルダンの人質解放に向けた交渉ははかどっているのだろうか?湯川さんは不幸な結果となってしまったが、問題の焦点となっているのが内戦の続くシリアである。

中東問題を歴史的に振り返るとき、その根底にはエルサレムがある。ユダヤ人とアラブ人は2000年以上に渡り聖地エルサレムを巡る争いを繰り返してきたのである。同じアジアといえども日本から遠い中東だが、血塗られた歴史を持つ中東にあっては、敵対する相手国と和平についての交渉を始めても、「裏切り者」として味方から殺されるということもしばしば起こっている。

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中東は日本からみて西に位置するが、なぜ西にあるのに中東なのか?「中東」は、かつてこのあたりを植民地にしていたイギリスを基点にした言葉であること。イギリスにとって東とはインドのことで、それより東の日本あたりは「極東」になる。逆にインドよりイギリスに近いバルカン半島あたりを近東になり、その中間が「中東」で、全てイギリスから見た言葉。

人質問題を始めとするイスラムの焦点となっているのが内戦の続くシリアである。中東における争いを歴史的に振り返るとき、根底にエルサレムがある。ユダヤ人とアラブ人は2000年以上に渡り聖地エルサレムを巡る争いを繰り返してきた。イスラエルは中東のパレスチナに位置する国家で現在のイスラエルはシオニズム運動を経て第二次大戦後にユダヤ人が建国した。

シオニズム運動とは、1897年、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議が開かれる。「シオニスト」とは、「シオンの丘に帰ろう」という運動の活動家たちをいう。「シオンの丘」とは、ユダヤ人にとっての聖地エルサレムにあり、エルサレムに帰って自分たちの国を作ろうというのが「シオニズム運動」である。ユダヤ人は、紀元前にエルサレム周辺に王国を築いていた。

それが一世紀にローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ人はヨーロッパ各地に離散した。以来、キリスト教社会でさまざまな迫害を受ける。「こんな迫害を受けるのは自分たちの国がないから…」と、ユダヤ人の一部がかつてのユダヤ王国のあった場所に国作りの運動を始めた。その場所は、パレスチナと呼ばれていた。ユダヤ教徒は『旧約聖書』を信じる人々である。

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『旧約聖書』には、「カナンの地」と呼ばれるパレスチナに移ってきたアブラハム(ユダヤ人の始祖)は、ヤハウェ(エホバ)神を唯一神として信仰を誓う。これに対して神は「この地をあなたの子孫に与える」と約束し、「約束の地」という考え方となる。ユダヤ人の独立国家を」の願いに呼応し、1948年5月14日午後4時、テルアビブ美術館で「イスラエル建国宣言」がなされた。

宣言したのは、初代イスラエル首相ダヴィッド・ベングリオンである。「イスラエル」とはヘブライ語で「神の戦士」を意味する。ユダヤ人の独立国家を喜ぶユダヤ人は町に繰り出し国家を歌い、踊ったが、はやくも翌日には、イスラエル建国を認めないアラブ連合(エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク)がイスラエルを攻撃、第一次中東戦争が始まった。

戦争は8ヶ月間も続き、翌年1月停戦となる。周囲のアラブ諸国はイスラエルを正規の国家と認めなかったが、軍事境界線が設けられ、イスラエルは実質的に存在した。が、それはまた、長い戦争の幕開けだった。中東はなぜ、戦争ばかりしているのか?日本人にとっても素朴な疑問であるが、一言でいうとイスラエルと言う国が生まれた事が戦争の原因である。

1995年11月4日夜、イスラエル最大の都市テルアビブ市役所前の広場に10万人が参加して「平和集会」が開かれた。ラビン首相も出席し、歌を合唱して帰ろうとして駐車場に向かったときに悲劇が起こる。至近距離から3発の銃弾を受けたラビン首相は、直ちに病院に搬送されるも絶命した。パレスチナとの和平を進め、ノーベル平和賞を受賞したラビンの最期である。

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首相を撃った犯人はその場で逮捕された。男は26歳の狂信的ユダヤ教徒で、ラビン首相がパレスチナ住民と和平を進めていることに反対しての犯行である。ユダヤ人が同胞に殺されるという事に衝撃を受けたイスラエル国民は、それでもラビンの葬儀に100万人がかけつけた。ラビンの手で中東和平が大きく進み始めていた矢先であっただけに世界は悲嘆にくれた。

またイスラエルとの和平を求めたエジプトのサダト大統領も、1981年、和平に反対するエジプト軍部内のイスラエル原理主義者によって暗殺される。さらには、イスラエルとの平和共存の道を選んだパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長も、味方のはずのパレスチナ側の強硬派から命を狙われている。そしてイスラエルとパレスチナの決定的対立の事件が起こる。

2000年9月28日、イスラエルのアリエル・シャロン(後の首相)が、エルサレムの神殿の丘にあるイスラム教の聖地に踏みこんだ事件をきっかけに、ハマースら非PLO系の組織を主流とするインティファーダ運動が起こり、パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区や西岸の状況が置かれている状況は悪化、アラファトが仲裁に乗り出す。

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交渉で解決しようとする穏健派アラファトに対し、イスラエルとの戦闘を呼びかけるイスラム主義勢力がパレスチナ人の支持を強め、アラファト人気は低下した。イスラエルのシャロン首相は「アラファトがいる限り和平交渉はできない」と、イスラエル政府からの信頼を失う。アメリカ政府も、アラファトの排除なくしてパレスチナ統一は不可能と考えていた。

2001年、イスラエルはアラファトをテロ蔓延の原因とみなし、ヨルダン川西岸地区のラマラにある議長府をイスラエル軍が包囲し、軟禁状態に置いた。長期に及ぶ軟禁で健康を害したアラファトは2004年11月11日、パリ郊外クラマールのペルシー仏軍病院で死去した。生前アラファトは東エルサレムまたはその近郊に埋葬を希望していたが、イスラエル政府は拒否。

遺体はカイロに運ばれ国葬後、翌12日にラマラにある議長府敷地内に埋葬された。アラファトの死後も、諸外国が期待していたパレスチナの意思統一は進まず、パレスチナ内部およびイスラエルとの紛争はその後も継続している。イスラエルはエルサレムを同国の首都であると主張している。しかし、エルサレムは3大宗教の聖地が入り組む複雑な都市である。

イスラエルとパレスチナを隔てる「分離壁」と呼ばれる巨大なコンクリート壁はイスラエル政府が建設した。第4次中東戦争終了後、パレスチナに住むアラブ人によるテロが頻発、パレスチナからのテロを防ぐ目的で建てられた。しかし、国際社会から「テロを理由にパレスチナ自治区を壁で分離しようとしている」との非難の声もあり、国際的に壁は認められていない。

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泥沼化した中東問題だが、和平交渉自体が命がけだが、その泥沼を抜け出そうとする新たな動きもでてきた。2013年7月、イスラエルとパレスチナがワシントンで和平に向けて実質交渉に入ることで合意した。協議を仲介したケリー国務長官は、「困難はあっても達成可能と信じている」と述べた。1993年のラビンとアラファトの歴史的握手を仲介したのがクリントン大統領。

そして今、20年ぶりにパレスチナ和平への期待が集まっている。もつれた糸は簡単にはほぐれないが、同じ神を信じる同士としての宗教的寛容精神が問われている。




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