絶対的な「真実」、絶対的な「善」、絶対的な「悪」、という価値は存在するのかしないのかはともかく、「する」と思うも「しない」と思うも自由。前者は「本質主義」に基づいている。本質主義とは、自然科学のような、一般性を持つ法則の存在を仮定する考え方で、そのような普遍性を追求しないのが「構築主義」であり、両者は対峙する考え方とされている。
構築主義は上に記した「絶対的な真実や価値はない」という価値相対的な思考につながる。自分はこちらに同意する。この世で信じるに値する唯一絶対のものがある的な考えに同意しない。「信じない」の本質は「信じたい」であり、信じるに値する何かに遭遇すれば逆転する。が、唯一絶対的な神を持つイスラム教・キリスト教の妄信者にそれはないのだろう。
彼らは異教徒は悪魔であって、絶対に認めていない。ムハンマドがメッカで神からの言葉を聞いたとき、イスラム教は誕生した。我々にはほとほと縁のなお宗教だが、イスラムの人々にとって、アッラーの教えは絶対である。ムハンマドは、20代に年下の若い女ではなく、中年の富豪女性と婚姻し、安定した40代を迎えたが、どこか世の在り方に疑問を抱いていた。
折々、ムハンマドは彼の住むメッカの東北郊外の山に登り、その中腹にある洞窟の中で物思いにふけっていた。洞窟にこもる日が何日も続いたある日、何処からか彼に呼びかける声を耳にしたのだ。「イクラー…(詠め…)」という言葉で始まる命令は、天使ジブール(ガブリエル)を通した神の声だった。ムハンマドはその声に怯え、洞窟を飛び出し、毛布に包まっていた。
以来、ムハンマドに神アッラーの言葉がジブールを通じ、何度も伝えられるようになった。と、これがイスラム教の始まりである。最初にワヒー(アッラーのメッセージ)が伝えられたのが紀元610年頃とされている。以後、預言者ムハンマドが没する632年6月8日までの22年間にイスラム教はアラブ半島全域に広まったが、当時の交通事情からしてあまりにも早い拡大である。
最も有名なのは、"イスラム教は剣によって広められた"という説。"右手に剣、左手にコーラン"というイスラム教の暴力的イメージは払拭しきれない。イスラム教の信仰は、「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラーの他に神はいない)」に始まり、アッラーに絶対的な帰依をする。テロリストにして英雄である日本赤軍幹部の重信房子は一人の母でもある。
そんな彼女の獄中手記が『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』という表題で出版されている。彼女はたびたび刹那的な恋愛を繰り返し、たまたま妊娠してしまったようだ。相手がパレスチナ人と書かれていたが、普通の家庭より戦いを望む彼女は、生れた娘にも特別な環境を強制することになる。日本赤軍の目的は戦いでパレスチナを取り戻すことだった。
女性にして真の闘士、そして一児の母、そんな重信は著書で、「お母さん、月に人間が行ったら、アッラーフはいなかったって。どこにいるの?」、「おまえね、アッラーフの姿は見ることはできないものだよ」と書き綴っているように、アッラーフは時空の創造者であり、時空に拘束されることはない。宇宙であれ、異次元であれ、いかなる場にもアッラーフは存在しない。
他のすべてを否定し(ラー・イラーハ)、アッラーのみを認める(イッラッラー)の一言は、イスラム教を最高価値とし、またその一言はイスラムの人々の平等を説いた。アッラーの下では何人も平等であり、善行を積む者がアッラーに祝福されるという教えは、当時の社会的弱者、貧者、奴隷を勇気付けた。イスラム教の最初の入信者はムハンマドの家族や貧者、奴隷層だった。
当初メッカの支配階級の人々は、ムハンマドの始めた奇異な活動を傍観していた。なぜならムハンマドがメッカの有力部族クライシュの名門ハーシム家の人間であったからに他ならない。支配階級の人々の多くがムハンマドの新しい宗教に強く反発したのは奴隷問題であったからと主張する学者もいる。カネで買った奴隷と自分がどうして平等?との単純な疑問である。
メッカ内における支配階級者や他部族などさまざまな嫌がらせや軋轢の中、ムハンマドはついにメッカ以外の他の地にイスラム教を移し、信徒の安全を守るべく使命を帯びていた。移住先はさまざまな候補地からメジナが選ばれ、622年、ムハンマドと彼の信者はメッカを離れ、メジナへと移り住んだ。が、メジナ移住後もムハンマドと信者の生活は安全ではなかった。
624年、メジナで力をつけたイスラム教に対し、メッカの住民は兵を送り攻撃を加えた。これは「バドルの戦い」といわれ、イスラム教徒側の大勝利に終るが、教徒たちは当然ながらムハンマドと神の御加護であったと今直語り継がれている。勝ったり負けたりの戦を経るうち、イスラム教徒は結束を強め、ついには630年、イスラム教徒はメッカに凱旋する。
こうしてイスラム史の第一期が終り、続いてカリフの時代を迎えると、イスラム教はアラビア半島から北アフリカ、ペルシャ、アンダルシアと拡大する。厳しい戒律で知られるイスラム教にあって、第一になすべきは自分がイスラム教を信ずることを告白すること。イスラム教ではあらゆる行為が自分の明確な意思に実行されるべきとされていることによる。
自分の善行も、この意志無しに行われたのでは永続性もないもとなろう。したがってイスラム教徒は、自身の明確な意志によって入信し、善行を積むことを告白しなければならない。コーランには"行為は意志によるべし"と書かれている。ニーチェの「善とは、善意志によるすべての行為」の言葉はここに帰す。多額な寄付も何か別の思惑絡みなら善とならない。
彼女にご馳走するもプレゼントを贈るも、下心ありては善とならない。と、以前、友人に注釈したら、「当たり前だろ?そんなこと善人気取りでできるかって!」と言ように、それが生身の人間だ。大いに下心を感じながらもしっかり受け取り、相手の下心に乗るかはぐらかすか、時々の気分という女心。「恋の多くは愚かさ」と言ったシェークスピア、あんたは偉い!
自分などの無神論者に言わせれば、「宗教の多くは愚かさ」である。注釈いうなら、「多くは」なので、あなたの宗教のことではございやせぬ。ま、基本は自分がよければの世界。ラマダン(断食)やハッジ(巡礼)という厳しい戒律のない日本の新興宗教って、所詮は「カネもってこ~い」に思えてならない。キリストは言った。「自分に従わぬものは許さない」
「おお、こわ。まるで○○組の親分じゃ」であるが、アッラーも言った。「自分のために善行せよ」。神ってのは信徒に尽くすのではなく、信徒に尽くさせるというなんとも傲慢な御方であることよ。イスラム法上では、棄教者は原則として死刑。ただしハナフィー派とシーア派では女性の棄教者は死刑ではなく終身禁固に処するべきという意見が主流となっている。
改革派のムスリムはこのような刑罰に反対し信教の自由を擁護しているが、現在のイスラム法学では保守派の見解が主流である。アブドル・ラフマンというアフガニスタン人は、1990年にイスラム教からキリスト教(カトリック教会)に改宗し、アフガン難民を支援するキリスト教系NGOで2002年まで働いていた。このことはイスラム教国である祖国アフガニスタンで問題となる。
彼は2006年に棄教の罪で起訴された。宗教指導者や国民からシャリーアに基づいて死刑にすべきという声があがった。アメリカ合衆国や欧米諸国からの呼びかけもあり、裁判所ではラフマンの精神状態に難がある等を理由に訴追を中止した。ラフマンは釈放後、アフガニスタンを出国、イタリアに亡命した。彼の身の安全のため、居住地は公開されていない。
イスラム教には面白い話がある。それは、栄誉あるイスラム教徒第一号は女性であった。名はハディージャといい、ムハンマドの妻であった。夫と2度の死別を経てハディージャが相手に選んだのは、15歳年下のムハンマドであった。ハディージャは夫の残した貿易業を営む大実業家で、その彼女が15歳下夫の教えに従った程にムハンマドの人格の高さが分る。
イスラムの聖典『コーラン』は一貫して男性優位主義で説かれている。例えば「妻が不貞をなした場合は、まず証人を喚(よ)んで来ること。もし彼らが証言したなら、女を家の中に監禁し、死が女を連れ去る――」など。ムハンマドはある日天使ガブリエルの声を聞くが、彼にはその声が天使なのか、悪魔なのか分らない。そこで妻ハディージャがムハンマドに言った。
「それはきっと天使の声。もっと瞑想を続けてはどうでしょう」と、このハディージャがムハンマドに投げかけた一言が、こんにち世界に13億人ともいわれる信者数を持つイスラム教に発展させたのだ。ムハンマドは幼くして両親と死別、貿易商の叔父のもとで貿易業務に従事する夫ムハンマドを、ハディージャは脱サラさせ、信仰一筋に生きるよう諭したのである。
これぞ姉さん女房の力であろう。イスラム教は600年代の始めに興り、わずか20~30年という短い期間に広大な地域に浸透した。西はモロッコ、モーリタニアなどの北・西アフリカ~アンダルシア、東はフィリピン~マレー半島を始めとする東南アジア、中央アジア、中国大陸もイスラム教の広まった地域に含まれる。この中でシリアのダマスカスを中心にマイヤ朝が興る。
また、イラクのバスラを中心にアッパース朝が隆盛を誇った時代もある。エジプトにはファーテマ朝、モロッコにはムワッセド朝が栄えた。インドではムガール朝で当時建立された、タージマハールが今なおその美しい姿をとどめている。これらの各王朝は、その富と権力により、多くの高価な品々と、文人、技術者、学者を集め、一大文化を生み出している。
中東アラブ諸国は東洋なのか西洋なのか?どちらにも属さないがアジアには違いない。「アジア」という言葉は、元々は古代ギリシア、あるいはギリシアから文化的影響を受けた古代ローマから見て、東方を指す言葉であった。地中海の北岸地域がヨーロッパ、南岸地域がアフリカ、地中海の一部エーゲ海で隔てられた地中海東岸地域がアジアとされた。
東洋でも西洋でもない二つの「洋」の間に横たわる巨大な「中洋」史、東西の間に軋む5000年の中洋史を、かつて「古代オリエント」なる術語で文部省に認めさせた学者がいた。元東京教育大学名誉教授の杉勇(1904年~1989年)である。彼によると中洋史は、一般の歴史と同様に古代、中世、近代、現代という四つの明確な時代区分でさえ立派に可能であるという。
①古代 ~前330年。ペルシャ帝国がアレクサンダー大王によって滅ばされるまで。②中世 前330~後622年。ヘレニズムの時代からイスラムの誕生まで。③近世 622~1453年。アラブ、イスラム高揚期からオスマン・トルコによるコンスタンチノーブル攻略まで。④近代 1453~1914年。オスマン帝国の興亡。⑤現代 1914~現在。民族主義の時代。
ペルシャ帝国支配にあった古代末期、西の辺境ギリシャと衝突した。このペルシャ・ギリシャ戦争に勝利したギリシャのアレクサンダー大王の夢みた「東と西の融合」ヘレニズム時代が開花したが、クレオパトラの自殺で閉幕する。世界三大美女と言われ、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていた」とまでいわれたクレオパトラとは何者?
「絶世の美女」として知られ、人をそらさない魅力的な話術と小鳥のような美しい声であったといわれている。ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみで、この評価は後世の作り話だとの説もある。アレクサンダー死後、エジプトを受け継いだプトレマイオス朝では、権力を巡る骨肉の争いが常態化していた。
クレオパトラ14歳のとき、父であるプトレマイオス12世と、姉ベレニケ4世は王位を巡って争い、父がローマの支援を得て勝利、ベレニケ4世を処刑した。紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が死亡したが、父の遺言とプトレマイオス朝の慣例にのっとり、兄弟で最も年長のクレオパトラが弟のプトレマイオス13世と兄弟婚を行い、共同で王位に就いた。
以前の王なら、玉座に君臨すればよかったのに対し、衰え行く自国を守り、さらには自らの夢を実現するため、玉座を降り「女」を武器として戦わなければならなかったところに彼女の悲劇がある。クレオパトラの戦いとは、自国を侵略する敵カエサルとアントニウスを味方に引き入れることで、エジプトにかつての栄光をもたらすには西方随一の彼らの力を必要とした。
カエサル死後、アントニウス・プトレマイオス朝連合軍と、カエサルの養子オクタヴィアヌス率いるローマ軍が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突。この海戦の最中にクレオパトラは戦場を離脱し、アントニウスもクレオパトラの船を追って逃亡し、ともにアレクサンドリアへ戻った。結局、アントニウス・プトレマイオス朝連合軍は、追跡してきたオクタヴィアヌス軍に敗北を喫す。
アントニウスは部下を置き去りにし、女を追って戦場を後にしたと嘲笑された。クレオパトラ死去の誤報に接したアントニウスは自殺を図る。それを知ったクレオパトラは、瀕死のアントニウスを連れて来させたが間もなく彼は息を引き取った。クレオパトラはオクタヴィアヌスに屈することを拒み贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに胸を噛ませて自殺した。
クレオパトラ儚き夢…。オクタヴィアヌスは「アントニウスと共に葬られたい」との彼女の遺言を聞き入れた。彼女を破局に追い込んだオクタヴィアヌスは、初代ローマ皇帝アウグストゥスとして君臨、以後、東地中海一帯のローマ化が始まる。パレスチナの小さな町ナザレで、マリアがイエスを生んだのは、クレオパトラの死から約四半世紀後のことだった。
EC諸国やアメリカに対して中東人が信頼を置いてないのは、かつての十字軍遠征などの歴史的背景が大きい。日本や西洋の教科書に十字軍は意義ある立派な軍隊と書いてあるが、虐殺や強盗を繰り返した泥棒部隊に他ならない。こんにちも中東に石油の安定供給しか求めない大国のエゴイズムだが、中東とてOPECの石油戦略以外に外交手腕をもたない。
世界の火薬庫といわれる中東は常に問題を抱え、憂慮が耐えない西側だが、そのとばっちりは同じアジア圏の日本にも及んでいる。