本を読まないのが悪いと思わないが、読まないのは「もったいない」気がするだけ。モバイルゲームが好きな人は、「ゲームなんかしないよ」という人を「もったいない、こんな面白いものをしないなんて…」と思うのだろうか?本を読まないのを「もったいない」と思う理由は、本が面白いからではなく、本から得る何かが生き方や人生観に大きく寄与するからだ。
ゲームは楽しむためだけだが、読み易い本とは面白くなきゃ。面白くない本は早晩飽きて飛ばし読みをするが、面白くなくても有益な本は多い。かつて一世を風靡した言葉に、「読み書きそろばん」というのがあった。文字・文章を読むこと、内容を理解して文章を書くこと、および計算すること、ならびにそれらができる能力をもっていることをいった言葉。
近世末期以降、初等教育における基本的な教育内容とされ、また初等教育で獲得させる基礎的な能力・学力の総称である。が、さらに深い意味でいうなら、「読む」とは、相手の伝えたいことを正確に読み取ること。「書く」とは、自分の伝えたいことを正確に表現すること。「そろばん」とは、数字をきちんと把握し、正確な答えを出すこと。であるという。
確かに正確に相手の意図を読み取るのも、自分の伝えたいことを正確に表記するのも、数字をきちんと把握して正確な答えを出すのも、いずれも難しい。ところが、「(言葉を)読む」も、「(意思を)伝える」も、これといってテクニックはない。様々な体験や訓練を経てやっと可能になることだろう。しかし、数字を把握して正しく計算の答えを出すことにはテクニックがある。
そのことをある例で示す。上の図形の水色の部分の面積を求める問題だ。こんなのは小学生ならまあ、あれこれ簡単に出せるが、テクニックを知ってる子供なら1秒で答えを書ける。テクニックとは私立中学を受験するためには欠かせないものであり、瞬時に答えを出す必要があるからだ。そのテクニックとは「0.57」である。知らない人なら「0.57って何?何の数字?」となる。
0.57とは図形にある水色の部分の面積が、正方形の面積の面積の0.57倍になるということ。それを知っていれば、10×10×0.57=57で、57c㎡が答え。1秒で答えが出せるのは0.57を知っているからで、もし、それを知らない場合はどうするか?様々な考え方があるが、半径10cmの円の1/4の扇形の面積から、底辺と高さが10cmの直角二等辺三角形をひき、それを2倍する(円周率は3.14)
扇形の面積=10×10×3.14÷4=78.5c㎡
直角二等辺三角形の面積=10×10÷4=50c㎡
78.5c㎡-50c㎡=28.5c㎡ したがって、28.5c㎡×2=57c㎡ 答え 57c㎡
一見むつかしそうに思われる面積の問題も、このように分析⇔総合という手法で解決することができる。数学教育も他の領域と同様に、認識力・思考力をつけるためにおこなわれる。57c㎡という結果は、正方形の面積の57%にあたることになるということだが、迅速に答えを出すテクニックを教えるために、正解は出せるけれど、認識力・思考力は伴わないこととなる。
また、図形を使った考え方としては、「↓の画像の面積を2で割ったもの」と考えてみる。円の面積=10×10×3.14=314、円の内側のひし形の面積=対角線(20)×対角線(20)÷2=200、円の面積からひし形の面積を引けば、周りの色のついた部分の面積が求めることができる。円の面積(314)-ひし形の面積(200)=114、これを2で割ると形は質問にあった問題の図形と等しくなり、114÷2=57で、解答も等しくなる。
塾に通ってる子どもは、こういう図形の場合は0.57をかけるように教わるが、何で0.57をかける理由は分らない。分らないけれども正しい答えを瞬時に出せる。円周率の3.14も同じこと。円周率3.14の意味が何かを教わらないままに、直径×3.14=円周と教えるからだ。算数とはそういうもので、それで事足りる。もし、理系でない先生が算数を教えるとどうなる?
「むかーし、紀元前のころ、大きな大木があったとして、木を切らないでその直径を知りたい。さてどうすればいいか?」瞬時に子どもは、「周囲を測って3.14で割ればいい」と答える。「紀元前に3.14なんて数字はなかったぞ?ところで君は、3.14の意味を知っているのか?」と問えば「分りません」という。3.14の意味は、昔の人は円周は直径の約3倍と知ってた。
そこで木を切らないでも円周は直径の3倍である事を知っていた。ならば円周を測って3で割ると直系が出る。周囲が3mの大木の直径は約1mである。3倍が正確に3.14倍となったということ。大体円い池があって、その周囲を巻尺で測っていけば、直径が出るということにもなる。まあ、個々まで考えなくとも、4+7がなぜ11となる理由を知らなくとも答えは出せる。
スーバーの閉店間際に398円の商品に20%引きの札が貼られて、それを頭でいくらくらいに値引きになると考えないで買う人が多いと知って驚いた事がある。「計算しないのか?」、「できないからしない」、「何で計算できないんだ?」、「レジでわかるから必要ない」という答えにも驚かされた。現役の大学生である。要するに大学生は20%安いという事実が問題なのだ。
我々は瞬時に値引き額を頭ではじくが、これも便利な時代の弊害だろう。脳ができることをしないでいいように仕向けられてしまったのだ。「どうせ買うのだから、割引額なんか知らなくても一緒でしょう?」と、こうまでいわれたら、ものの考え方の方向性の問題である。我々は知る必要のないことを知ろうとしていると、そういう時代なのだと笑って時代に迎合してやる。
時代は合理主義に走った側面もある。○×式思考法からくる単純な二価値的判断、目まぐるしい視覚映像文化からもたらされる浅薄な思考が指摘されている。矛盾を嫌い、合理性を求めるのは青年の潔癖さかも知れない。合理性とはともすれば理性だけで生きることと合点しがちで、文章においてもある種の欠如感を感じる。何が欠けてるといえないが、心の匂いというものか。
文章を書くための適切な処方となると容易でない。以前、言語学者を自認する輩が当方の文章を、助詞の使い方がオカシイと書いていたが、別に否定はしない。彼は自分の文章を常連に褒められて嬉しがっていたようだが、正しい文章が美しいとか、面白いとかとは別次元。くそ面白くもない文章を書いてる意識もないのだろうが、形式よりそちらを目指したい。
世に嘘つき媚売り臆病者がいる。誠実に生きたら壊れてしまう。だから、誠実に生きるためには強くあらねばならず、それなくして誠実などは嘘。自他に誠実に生きるのは難しい。若い頃に比べてある程度の強さを手に入れた。だから人に対して困ることがなくなった。かつては振り回されたのに。厚顔相手に対して上から見下ろすが、誠実で弱き人には下に位置す。
水泳の技法を学んでみても水に入らぬかぎりは泳げないが、書いていることには間違いがない。素人文の上達とは如何にオモシロイかだろうが、なかなか難しい。芭蕉は「はいかいはなくても在べし。ただ世情に和せず、人情通ぜざれば人不調(ととのはず)」と言った。俳句などなくていい。文学活動などどうでもいいこと。が、人間として感情を欠き、社会に通用せぬは困る。
人間としてふくらみを持つことを強調している。人間性の上に俳諧(創作活動)はあるべしという主張だ。文学に限らず、「なくても在るべし」といえるものは多い。人間であるために、養うべきものを養えと申しているのだ。確かに芭蕉の言うがごとく、人間として真に誠実に生きているものでなくば、すぐれた表現も期待し得まい。そう、誠実に生きるを目指したいもの。
誠実とは真面目のことではない。誠実とは、言葉や行動に嘘がなく、心がこもっていること。真面目とは、本気であること、性質や行動などに嘘やごまかしがないこと。類語だから意味は似ている。が、自分的には大きく違う。逆さにしても真面目人間にはなれない自信はあるが、誠実は難しいことと思えない。酒や博打、女をやらない男が真面目と言われた時代があった。
酒好きにして、酒はいいものだろう。博打の面白さは充分に分っている。女もまたしかり。それをせぬが真面目とは財産をなくすとの意味もある。すべては適度に無理をせずに、己に誠実に、決して無理をせずといったところだろうが、案ずるなかれ。人間は完璧に誠実になどなれるすべはない。真面目も人に見えない部分では悪辣なことを考えたりするものかも。
大きな事件を起こした人間の多くが、「あんな真面目で家庭思いのご主人が…」というの言葉に嘘はないが、あるとしたら真面目が勘違いだったのだろう。真面目は、実は真面目に見えたという表現に思える。人に人の本質などわかるはずがない。「この世は舞台、男も女もみな役者」という言葉が、最近分りかけてきた。人間はどうあがいてもそういうものだろうと…
何かを書くときは必然的に何かを言おうとするときだが、言葉の対象は相手に限らない。自分に向かう事も多く、それを自問自答という。自分に投げかける言葉といえど、思うだけと文字に残す場合とではまるで違う。「ブログに書く事がなくて困ってる」というが、書くこと(何か言うべきことをもつ)は発見であり、創造である。したがって、「読・書・考」は反覆である。
物事の表面ばかりみていると飽き飽きしてくる。長いことそこを見てきた。だから根っこを見たくなる。表面的な現象に惑わされることなく、何が真に価値があるのか、ないのか、を識別でき、してそれを臆せず書こうとする原動力は強さであろう。弱き心の人間は、"これを書いたら何か言われないか"とか、"ちょっとヤバイかな"とか自己規制し過ぎもつまらんし。
また、読書は疑似体験でもある。「所詮は疑似体験だろ?」というほど否定的にはならない。原体験に勝るものはないが、疑似体験を通しての想像力も捨てたものではない。寺山修司に「書を捨てよ、町に出よう」という評論集がある。彼はこれを元に「ハイティーン詩集 書を捨てよ町へ出よう」という天井桟敷用に演劇作品を書いた。これを機にアングラ演劇ブームが起こる。
寺山は鉛筆のドラキュラである。その彼が「書を捨てよ、町へ出よ」と言った。評論集の最初「青年よ大尻を抱け!」でこう言っている。「青年が、〈2DKと安定した就職口と、ささやかな幸福〉を求めて、老人のご機嫌をとりむすんでいるうちは、魅力がない。青年は、そうした「安全な馬券」ではなくて「危険な馬券」に手を出すようでなくては、一攫千金の理想を手に入れたりすることはできないであろう。」
ボソボソ口調の寺山だが、彼は故郷の青森県訛りをいたく気にしていたし、彼は稀代のカッコつけ男であり、であるがゆえにカッコつけないという技をもっていた。そういうところは東北人の奥床しさであろう。タモリがデビュー当時、寺山のモノマネが十八番でよく聞かされたが、寺山本人よりタモリのモノマネの方が寺山に似ていた。それほどに特徴ある喋りである。
寺山は「百聞は一見にしかず」と言いたいのだろう。が、「百聞は一見にしかず」というのは本当だろうか?見るは聞くをはるかに凌駕するのだろうか?「私は身長160cm、体重48kg、スリーサイズは80・52・85、顔は北川景子似かな」といわれるより、見た方が早い。しかし、仮説に基づく適切な状況証拠は、実際に目にした直接証拠よりも確かな事だってあろう。
読書は「聞」に過ぎないから、「見」に劣るという発想には概ね納得する。読書は「毒書」との言い方もあるが、否定は、それが否定するところの現実から出発しないで成就はされないもの。「否定するところの現実」への認識が浅いなら、否定の根拠は浅くなる。ともすれば人間は、二者を比較するさい、一方はその高さで、一方はその低さで対比するという過ちを犯しやすい。
思考行動型、行動思考型、どちらにも言い分があろう。自分はどちらだろうか?若さゆえの前者であったが、その名残りを維持しつつ経年の節操も芽生えている。どちらかに決める事はできず、ケースバイケースだろう。考える事は嫌いではないが、行動に関していえばやらずして分らぬという持論もある。多分の経験から思考だけでシュミレートする事も可能。だからケースバイケース。
人間は時に動きを止めて思索も必要だろう。ルネ・シャールの言葉も頭を過ぎる。「人間が、時には厳として眼を閉じて見ることがないならば、みつめがいのあるものを見ずに終ってしまうだろう」。確かに人は自分の知っていることを見る。それではダメとシャールは言う。みつめがいのあるものはしかと眼を閉じ、本質に心をくばせよと…