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人はなぜ騙される?

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人が人に騙されるパターンは大きく分けて二つある。一つは「もうかりまっせ!」、もう一つは「苦しい、助けて!」である。前者は投資詐欺などで、詐欺商法や誇大広告などの広義にこの部類に属すのではないか。後者は振り込め詐欺、結婚詐欺など人の弱みに付け込んだ騙しの手口である。人がなぜ騙されるのかは、騙す人間がいるからとか、騙す方が悪いからとか。
 
そんな事を言ったところで何の意味があり、何のご利益があるかを考えてみよ。騙す側の責任にして何が解決するのか?騙す人がいなくなる世の到来を望んで実現するとでも思っているのか?確かに騙す人間が一掃されれば騙される人間はいなくなるが、どうやってこの世から騙す人間をいなくできるのか?寝ぼけたことをいうなであろう。とするなら…
 
騙される人間が騙されないようにする方が現実的である。「騙される人間が100%悪い」これが自分の持論である。これには騙す人間は0%も悪くないのか?と、そういう意味ではなく、騙す人間が20%悪い、50%悪いといったところで無意味という論拠から導かれた理念である。騙されない人間になるためには、なぜ騙されたかを遡って考えてみることだ。
 
誰だって騙されたことはあろうし、自分なんかその数は自慢できるほど多いと思っている。「もうかりまっせ!」と「苦しい、助けて!」の他にもう一つ「無知・幼さ」というのがある。年端もいかない少年・少女が騙される理由はを一言で表現するなら「無知・幼さ」というのが手っ取り早い。これにはどう対処すればいい?方法があるのか?を、最初に思考する。
 
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このブログにも書いたが小学3年生のときの天体望遠鏡接眼レンズ事件を取り上げる。自分の人格形成に大きな役割を果たしたこの事件は、過去に4度もブログで取り上げているくらいに自分にとって悔いの残る大きな出来事だった。確かに悔いは残るが、その時に、そうしよう、どうするべき、どうすればよかった、について何ら行為をできなかったのは明らかだ。
 
相手を憎むことすらできなかった。自分が貸した物を、トイレに落としたと言われたときに自分が感じた精神状況を50年以上も克明に忘れないのは、やはりショック度の大きさであろう。全く言葉を返せず、半べそ状態の自分は、悲しさをこらえるのがやっとであったし、同級生にそれだけのことを味わされたのだが、味わさせた岡本は相当に罪深い人間である。
 
彼の嘘は明白で、他人のものを手に入れる手段として、それが彼の方法だったのだ。もう一度タイムマシンであの日、あの場面に戻って、大人の考えで彼の嘘を実現させない自信はある。そう考えると、実はうそと言うのはつかせる側にも責任がある。彼に嘘をつかれた悔しさより、彼に嘘をつかせてしまった自分の無知、不甲斐なさが悔やまれるのだ。
 
だから、あの場面がやりたい。できるのなら…。同じような思いを生きる人間は多いだろう。なぜあの時、何もできなかったのかを悔やんでいる人間であり、それこそが人間を偉大にさせている部分でもあろう。印象に残るは1979年のプロ野球日本シリーズ第7戦近鉄-広島戦で、スポーツドキュメント『江夏の21球』として、ノンフィクション作家山際淳司が書いたもの。
 
 
点差は4対3で広島リードのまま9回の裏ノーアウト満塁の場面で、代打で登場したのが佐々木恭介である。その佐々木はカウント2-2から江夏のカーブに空を切った。「2球目を見逃した悔いが野球生活のすべて」と言わしめた佐々木は、「もう1回何がしたいと言われたら、これがしたい。この場面がしたいです」と語る佐々木の真剣な表情が印象的だった。
 
大人になった自分が小学3年生のときのことで、「あのときどうして○○言えなかったんだろう」と思ってみても、それは無理というものだ。貸したものを便所に落としたといわれて、それを真に受ける幼い脳ミソを悔いても仕方あるまい。それで悔いるのはなぜだろうか?ある事に対して、"何が最善か?"と思考するのが習性になっているからかもしれない。
 
あの時の最善を、大人になって見つけたのだ。10歳には10歳の考え、20歳には20歳の考え、40歳には40歳の考えしかないのだと。その時には分らないが、年を重ねてみたときにそれを実感する。30歳は子どもだった、50歳もまだまだ甘かったなと思えるのは、自分がさらに成長しているからだろう。自分が成長したかどうかは他人には分かっても自分に分かりづらいもの。
 
が、過去を振り返って、"なんであのとき、ああしかできなかったんだろ?こうする方が全然よかったのに"と、そう思えたら成長しているのだ。自分の成長を自らが確信を持った瞬間だろう。20歳ころの日記を30歳で読み返したときに、"なんでこんなくだらんことで悩んでいたんだろう"と思えたなら、自分が成長してるんだ。が、20歳のときに最善が分るはずもない。
 
イメージ 3後悔とは成長であろう。人は後悔したらいい。何十年を経て最善が見つかったら素晴らしい。その時には見つらないんだから。人間の進化は、思考の進化。肉体も進化するが、言い換えるなら老化に向かっている。トレーニングを継続して若々しい体をそれなりに維持する事は可能だ。もちろん、思考も鈍くなり老化に向かっているが、やはり脳トレによって遅らせる事は可能。
 
ひと口に老化といっても、80歳、90歳近くになっても健康的な人はいる。それでも老化は避けられないが、科学の進歩によって老化を早めたり、遅らせたりする食物や生活習慣の存在が分ってきた。それは「アンチエイジング」という学問にもなっている。「噛みトレ」という言葉もできた。いうまでもない「噛むトレーニング」である。噛むが脳によいといわれている。
 
さて、本題に戻ろう。「人はなぜ騙される?」についてハッキリした答えがある。それは相手の言う事を信じるからだ。「そんなの当たり前だ」と言うでない。現に人は人を信じて騙されているし、この当たり前のことを防ぐ手立てを考える前に、「人は人を信じるから騙されるのだ」と復唱してみたらいい。そうすれば、当たり前のことに防ぐ手立てがないのがわかるだろう。
 
机上の空論をあえていうなら、人が言う嘘と本当をしっかり見極めれば、人は人にだまされない。それは可能?答えは「No!」だ。人に絶対に騙されない人間などこの世にいない。例えば誰かの前で、「昨日は腹痛を起こして下痢した」と嘘を言ったとする。これを「それは嘘だろ?」と見破る人間はまずいない。なぜなら、そんなことを疑う理由がないからだ。
 
嘘であっても本当であっても、どうでもいいことに人は騙されたと思わない。別段、「嘘だよ~」とバラす必要もない。さらにいえばそんな嘘をつく意味もない。自分だってそんな程度の嘘なら100回でも1000回でも騙されてやりたい。そうではなくて、自分の財産を失うとか、目減りするとか、精神的なダメージを受けるとか、そういう嘘には騙されない自信がある。
 
その自信は何か?相手の腹を読む、嘘を見破るというのではない。そんなあやふやな能力は時として失敗する。「自分は人の嘘は確実に見破れる」などと豪語する人間が、大きな嘘で騙されたりするのは、自信そのものが問題であるからだ。自分は人を的確に見破る能力なんか持ち合わせてない。それでも絶対に騙されない自信は、相手の言葉をハナから信じないからだ。
 
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こちらに利益を誘導するとか、生活が困窮して助けて欲しいとか、いろいろなことを言われたところでまず信じない。それが嘘とか本当とかの以前に、信じない自由はあるわけだから、仮に自分に大きな利益がもたらせられるとして、それが本当であっても信じないのは勝手だと思う。それで自分が損害をきたすわけではない。得をしなかったかもだが、損したわけじゃない。
 
これが自分が騙されない自信の根源である。「上手い話に裏がある」というように、そんな一攫千金を何も人に勧めなくとも、本人がやったらいいんだよ。そういう疑問に対して取ってつけたようなことをいうが、そんな事も一切信じない。こじつけでしかないし、信じる人間はもはや騙されたも同然だ。お涙頂戴と同情を乞う言い方をする人間もいるが、結局言葉だけだ。
 
実際どうなのかを見せたわけでもあるまい。若い女の結婚詐欺に騙される男は、みんなありもしない同情話を信じるからだ。「父が大病で手術するのでお金がいるんです」というのを、人はなぜ信じるのかを深く考察して分るのは、嘘っぽいなと思っても、それを嘘だとか信じないで証拠を見せろとか疑うのは相手に悪い。相手を困らせる。相手を傷つける。このように思う。
 
嘘かどうかを確かめないで、相手を追い詰めるのが悪いと思う時点、そういう遠慮や配慮をする点において男は女に騙されてしまっている。これが「男は女に甘い」ということ。女に厳しくなれない男は、女に好かれたいという欲望、願望があるからで、女の嘘に慣れていない男の悲しい性。あえていうが、自分が女に騙されないのは、過去に多く騙されたから。
 
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月謝を払ったと言う事。それらについて悔い、相手のせいにしなかったこと。どうすれば騙されなかったかを考えたこと。それらから得た結論は、人を安易に信じる自分の甘さ、賎しさであったこと。女に嫌われたくない、あわよくば好かれたい、あやかりたいというスケベ心が災いした。「そんなもんだ、男は」そう納得させる男も多いが、そういう妥協が許せなかった。
 
「友情の多くは見せかけであり、恋の多くは愚かさにすぎない」はシェークスピアの言葉だが、無理して友人をつくることもない、恋人を作ることもないのよ。無理をせずとも生まれる友情はあろう。自然にしていて芽生える恋もあろう。携帯電話やネットで簡単に友をつくり、友人と言ってはばからないが、ちょっとした友だちを友人にしたいようだ。錯覚と言うか自己満足だろう。
 
自己満足が悪いとは思わない。自己満足が好きならそうすればいいのであって、批判はしないしする気もない。教育学者の斎藤孝も「友人は無理に作る必要はない」といっていたが、そういうものだろう。友人とは相対的な関係であり、一方的に「欲しい」と望む存在でもない。恋人とて同じこと。欲しいという気持ちで生きていれば、ある日偶然にできたりするものよ。
 
「魔性の女」という言葉がある。「魔性の女」が存在するのかどうかは知らない。いろいろ見聞きしてきたが、総合すると男をその気にさせるのが上手い女だという。あげく男の家庭やらなにやらを崩壊させるとか、何だとか尾ひれのついた話は多いが、自分はそういう女の存在を信じない。外国の小説にも頻繁に現れる。そういう女をフランス語で「ファム・ファタル」という。
 
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「宿命の女」という意味だ。男の運命を狂わせる女のことだが、なぜ男はそういう女に惹かれるのか?まあ、男だから分る。自制心が利かなくなる女と言う事。女のもつありとあらゆる魅力で迫ってくるから腰砕けの腑抜けにさせられる。渡辺淳一の『愛の流刑地』の主人公がまさにそれで、自制心がコントロールできなかったことで女は死に、男は殺人者になった。
 
男と女が紡ぎあう世界にあって、男と女にはさまざまな形がある。どういう形も男と女の世界である。「魔性の女」という形容詞があれば「毒のある男」と言う言葉もある。女にいわせると多少なり「毒のある男」が深遠で魅力的という。もちろん、大人の女の言い分だ。「毒」とは「アク」と言い換えられる。「悪」ではない、「アクが強い」の「アク」である。
 
いまどきそういう個性的な男は希少だろう。「毒舌の会話」、「ユーモアのセンス」、「幅広い知識と教養」、「秘めたるやさしさ」、「男としての身体能力が秀逸」などと言えるかもしれない。一時期「ちょいワルおやじ」がモテるだのと言われたが、マヌケはダメだろうし、「ちょいワルおやじ」はマヌケパターンが多かった。男にインテリジェンスは不可欠だろう。
 
イメージ 7男は「魔性の女」に騙されるという。ならば女も「毒のある男」に騙されるのか?持論をいうなら、男は女を騙していけない。常に誠実、また全身全霊で接するべきであろう。最初から騙そうなんて男は、女にたかり金品を目的にしているようだが、こんな男はコキタナイただのハイエナだ。だってつまらないだろう?今、自分の目の前にいる女が世界一と思わなければ…。
接する以上、全力投球をモットーとする。フランスの小説家シャルドンヌ(Jacques Chardonne 1884~1968)はこういう言葉を残している。「男にとって大切なものは愛する女である。男はありとあらゆる幸福と苦悩とを女から引き出すのだ。女はあらゆるものに味気なさや辛みや、甘みを付ける」。今、目の前の女を幸せにし、目の前の女で自らも幸せになろう。
 
 

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