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男親・女親の教育観

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子どもをブランド漬けにしたがる母親は多い。自ら意識しない限り誰にも止められない。他人からの批判は放置できるが、身内に批判者がいるともめる。我が子を東大へと狂う妻も夫から見れば批判もあろう。が、妻に口を挟まなかったのは立派である。自分には母親の熱意は分かるが、子どもの生活習慣に対する彼女の無知、認識の甘さについて批判をした。

「勉強以外は簡単なこと。いつでもできる。大人になってからでもできる」という認識は、勉強をさせるために自らを許容する方便もあろうが、生活習慣に対する無知は否めないし、勉強以外のことに時間を注ぐのは勿体ないと、最高偏差値受験に必要だったのだろう。幼少時期に内面化された生活習慣の悪害は、大人になっても簡単には治らない、そこは危惧をした。

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勉強だけに偏るのも個々の親の優先順位であって、基本、人は人だ。容易ならざる受験勉強を強いたという親である。「男はずぼらでいい」ならいいが、「勉強外の事はいつでもできる」は間違っている。部屋を綺麗に住みたい人は、誰のためではない自らのためだが、他人を心地よくさせる。片づけできない妻に我慢の糸が切れて離婚した夫婦を知っている。

「疲れて家に帰れば部屋は豚小屋。7年間は我慢できた。強く言えばふてくされながらも掃除はするがその時だけ。仕事でストレス、家でストレス…、どちらかを解消しなければ持たなかった」。妻の自堕落に苦悩する夫の言葉は聞いていて切実であった。生活習慣は自身に内面化されてるがゆえ、相手の忠告に素直になれず、自己正当化することで問題が大きくなる。


親のしつけ放棄が問題になるのは、むしろこのことであろう。こうした事例を知らないまでも、子どもを成人にまで育てた親なら、生活習慣を身につけさせなかったことへの悔いや反省は必ずある。そうした後悔が強い人ほど、もう一度子育てをやれるならキチンとやりたいの思いも、やれる自信はあるだろう。が、残念ながら子育ては一回だけと決まっている。

他人の庭が美しくみえるように、親は我が子と他人の子を競わせたがる。「学歴=人格」という短絡的な考えになるのは、最上位の比較だからである。4人の子どもすべてを東大医学部に入学させたいというのを単純に素朴に考えるなら、これは母親の自己満足度の高さ以外に見当たらない。なぜなら、医師は東大医学部でなければならない理由が我々にない。

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我々が何かの病気になり、それが大病である場合、我々は東大医学部卒の医師を探すだろうか?そうでなければ不安だからと探すだろうか?あり得ない。そうした現実に関係なく母親には、最高学府の最高学部が目的であったという事。塾や予備校でずば抜けた成績の生徒がいると、塾の先生は医学部受験を勧めるように、それが予備校にとっての箔となる。

確かに我々からすれば、医師は優秀で技能の高いに越したことはないし、そうであって欲しいが、それが東大医学部卒の医師のみに特化した事実であるとは思わない。死の病に罹患した患者であろうと、健康体の人間であろうと、一般的には近くの国立大学病院もしくは、県立病院や総合病院など、かかりつけのクリニックから紹介を得ることになる。

自分も世話になったが当地にも広島大学病院があり、ここの医師の多くは広大医学部卒である。同じように阪大、神戸大、名古屋大、九州大、北海道大など、都市の要所に国立大付属病院はあるが、こと臨床において東大病院が優秀という事はないが、別段東大を否定はしない。医療は大きく分けて臨床と研究に分かれるが、大学病院の第一の目的は研究である。

大学病院は法や倫理の範囲内で人体実験(御幣のある言い方だが)を行いながら、最先端医療を模索・実践する場である。東大・京大が優秀といわれるのは、研究が盛んであるからで、学問とゴッドハンドは別である。先の母親が東大かぶれであったのは、東大病院が初期研修で人気があり、地方大学や都内私立から多くの応募があるのを知っていたこともあろう。

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そのように考えれば、母親の東大医学部の思いは自己満足並びに、最高学府に行けば損はないとした子どもたちへの保険の意味合いもである。個人の価値観だから社会問題にすることもなく、取り立て批判の要所もない。どこの医学部であっても、多くが悪い医者になどならず、努力して名医になってくれたらいい。それこそがナンバーワンよりオンリーワン。

「ナンバーワンで損はない」という考えも理解はできるが、本を出したりの母の目的が東大入学であれど、4人の子どもたちにとって東大入学は手段でしかない。そこが違う。東大に限らず、いずれの大学の医学部生は頑張れ。「道」と称される職業はすべてそうであるように、医学の道も生涯をかけて学ぶものだ。「名」と称される職業も求道的な要素は多い。

プロゴルファー、プロ野球人、科学者という分野であれ、何であれ、「名」と名の付くものになるにはどうすればいい?こんな質問も愚かだが、名指揮者、名優、名人といわれる人は、人に言えない何かを成した人である。「才能」という言葉も用いられるが、多少素養のあるピアノの世界、ピアニストについていえば、才能だけでピアノが弾けるものではない。

かつて、広島カープに入団するより、巨人軍に入る方が選手として大成するといわれていた。王や長嶋が宣伝にもなったし、確かに強い巨人だった。今は幻想である。イチロー、野茂、黒田らの名選手は人気球団ではない。ズルいことをして巨人に入団した江川の目論見は何だったのか?彼はあの一件でどこの球団の監督にもコーチにもなれないでいる。

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そのことも周知され、今の高校球児や大学・社会人の選手は球団を選ばない。プロ野球選手も、どこの球団に行こうが努力の世界である。同じようなことは医学にもいえる。どこの医学部に入学しようとも、切磋琢磨の世界である。スポーツは技術の世界だが、アスリートに言わせると頭の良し悪しも必要という。ここでいう頭の良さが学校の成績でないのは言うまでもない。

長らく懸念を抱いていたこの国のバカげた受験システムが変わる。2020年1月実施を最後にセンター試験の廃止も決まり、政府の大学入試改革の一環として新たな二つのテストが実施される。「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」は、「知識・技能」と、「思考力・判断力・表現力」を評価する。受験学力がいかに無意味であるか、やっと本腰をあげたようだ。

「センター試験」の前に行われた共通一次試験は、入試問題における難問・奇問の出題をなくし、「入試地獄」を緩和するという目的で導入が決定された。それがマークシート方式という合理化の元では、「鉛筆さえ握れば誰でも正解できる(可能性がある)」などと揶揄された。「受験地獄を悪化させる」、「大学の序列化を不当に招く」など多くの批判も受けた。

1985年、臨教審第一次答申により、「新共通テスト」が提案された。1988年、「大学入試センター試験」と改称が決定した。共通一次試験の育ての親で、元東北大学長の加藤陸奥雄氏は、「入試改革は当時、世界的な傾向でした。日本でも大学進学率が高くなり、一期校・二期校の弊害も出ていました。共通一次は入学資格試験ではなく、あくまで選抜試験だったのです。」

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大学側は制度に安住し、各大学別で特色のある二次試験の工夫を何ら行わなかった。そうして問題に気づいた時には偏差値時代は定着し、「共通一次世代」という特質や、「マークシート人間」と揶揄される若者が育っていた。湧き上がる批判に加藤氏は、「唯一無二の入試制度などない。その都度知恵を絞り、その都度合理的と思う方法でやるしかない」述べた。

共通一次という、かくも壮大な実験から得たものは、①大学入試のやり方一つで、その世代の若者の中身まで変えてしまう。②共通一次のような学力試験だけでは、人の能力は測れない。などであった。大学側は、「共通一次」を、「知」のほんの一部と知りつつも、記述や論文形式の重要性に取り組まなかった。その結果、塾や予備校という受験産業だけを太らせた。

塾や予備校で教えられない「知」を、国は無視したか?理由は単純、「知力と学力の混同」である。公教育さえベネッセなど受験産業に操られていた。現場の教員なも教材など自らが工夫をせず、楽な外注に委ねて受験産業を儲けさせた。こうして利権を生むだ受験戦争の最大の被害者は子どもたちとなっていくが、被害者でありながらも最大の加害者は親であった。

誰もが見える部分だが見ようとしない。自分は「知」を失うことに声を上げたが賛同は得られなかった。民間業者の模試について県教委は、「先生方が勝手にやっているのではなく、あくまで子どもの志望大学進学を願う保護者の強い要請」と、学校側を擁護した。「子どものため」といえば何でもまかり通るご時世だが、ベネッセとの癒着は明らかである。

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ついには小学校模試まで行われる羽目になる。模試をすればするほど学校が潤うといわれるB社の接待攻勢も半端ではなかった。教育関係者どもは、己の横着さと利害で関係業者に振り回され、教育から、「知」を奪われる子どもをほったらかしてきた。そしてやっと重い腰をあげて、「センター試験」中止にこぎつけた。が、今後も別の過程で癒着は続くだろう。


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