他人の判断を重要視する人は、自分を信じないのだろうか?「自信」とは言葉通り、「自分を信じる」だから、自信を持てるようにアレコレ思考したりすることになる。考えても上手くいかないことはあるが、それで、「自信をなくす」というよりも、次のステップに生かせることになろう。物事を考えない人そのに理由を聞くと、「面倒くさいから…」などという。
面倒くさいから考えないというなら、何事も行き当たりバッタリだろうし、それで納得できるものかと思うが、「どうせ考えてもいいようにならない」との考えが基本にあるようだ。そういう種類の人は例えば将棋なども考えないでポンポン指す。本人曰く、「考えるのが面倒くさい」である。それでも負けたら、「ワシ、考えないから」という言い訳を用意している。
人によっては、「考えれば勝てるんだけど」などとおバカな言い訳をするが、「あのブドウはすっぱい」の狐の論理そのもので、笑って聞いてあげるしかない。考えるのが面倒くさいなど、当たり前である。そういう面倒をする必要を感じるからやっているのであり、少しでも良い一手を見つけたいのも理由だが、考えない人の特徴は、これで良しと思い込みで指す。
思考・分析された手ではなく、勝手な思い込みによって指された手はほとんど悪い手となり、負けるのは当然だが、それでも考えないことを正当化する。将棋に限らない。考えない人の特徴は思い込みが強いこと。考えないから物事を決めつけるしかないのだろうが、人の性格の勝手な決めつけも得意である。性格というのは複雑多岐で、考え分析しても分からないものだ。
なのに、「あなたは〇〇でしょう」と決めつけ、自分は人を見る目があると自己満足に浸る。こうう人に、「違うよ」などという気も起らない。なぜにこうした酸っぱいブドウの狐(認知的不協和の起こる要因)になるかは先に記したが、そうならないよう注意する必要もある。勉強するのも大変だし、面倒くさいし、しない方が楽に決まっている。だから認知的不協和が起こる。
「すればできるが、しないから…」という言葉を、成績の悪い理由にする人は、努力をしない人間の特徴だ。「やればできる」も、「努力すればできる」も、すべては、「やらない」、「努力しない」言い訳である。「やる」こと、「努力する」ことが難しいのに、できないことを、「しない」という自尊心をみせる。「考えたって上手くいかない、だから宗教がある。」とある人がいっていた。
「宗教は人間を考えさせないためにある」ようなことをニーチェが言っていた。「人間は考えなくていい。黙って神に服していればいい」この言葉が気に要らず、「冗談じゃないよ」と、宗教を嫌悪した。神を信じる人もいるし、人は雑多で複雑である。だからオモシロい世の中であり、それぞれの人間の対処術を学ぶのは、学問などと比較にならぬオモシロさがある。
生きることは試練、生きることは学びである。「学ぶとは自分を変えること」といったのは林竹二。彼は、「人は何のために学ぶのか?」という命題にこの言葉を用意した。自分が変わらねば学んだことにはならない、学ぶ意義もないという彼は、入学のためだけの受験勉強は、「学び」でないとした。それに多くの時間を費やすことの無意味さを説いたが、この国には必要であった。
このバカげた学びを要求する受験体制に異議を唱え、教育改革を目指した文部官僚が、「ゆとり教育」と銘打って実践するも国民的理解は得られなかった。国民の多くが、「学ぶ=成績向上」と捉えていた。「違うだろうそれは?」と残念だった。ジェイコブ・バーネットは、「天才とは学ぶことを止めた人」というが、受け入れるだけの、「学び」はいらないとの意味。
「何事において成功するためには、自分独特の観点から物事を見なければいけない」と、13歳の神童が言うまでもなくこれは当たり前のことだ。ただ、一般的日本人は成功を出世とみなしている。つまり、同期の誰より早く管理職になり、より高い収入を得るという幸福の概念を親は子どもに求めている。そのための学歴であり、それが日本社会の現状である。
同じ13歳のローガン・ラプラントも創造性の大切さについて語る。彼は普通の学校に通っておらず、自ら科目を選び、教育のカリキュラムを組む、「ハックスクーリング」という学習方法で勉強を行っている。学ぶ場所は、自分の部屋だけではなく、スタバや森の中など、様々な場所を自分で決めている。彼の学習方法は、学校では得られないものを学ぶこと。
日本人にも登場してもらう。全国の中高生によるスマートフォンアプリ開発コンテスト「アプリ甲子園」で、2013年に見事3位入賞を果たした15歳の福井一玄。Excelを少し使えるだけだったという彼が、アプリ開発へのめりこむようになった経緯とそこから得た学びを彼の言葉を借りて一言でいうと、「思いは行動にして初めて価値になる」ということである。
日本の母親は天才になど興味はないだろう。格差社会で、「負け組」にならない、それが学歴、と考える親が多い。いい高校や大学に入るための勉強は、「学びにあらず」の林の声は耳に入らない雑多な社会こそ社会であり、人は各々の信念を突き詰めて思考すればいい。重要なのは自分の思考を基盤にした信念や、行動内容とは矛盾する、"新しい事実"に触れたとき。
それをを突きつけられたときに、不快感情から、「認知的不協和」を起こさないことが求められる。あまりに凝り固まった信念を変えることが困難な人は、"新しい事実"を否定するしかなくなる。年寄りは柔軟な思考がなく、頑固だといわれる。ひいては老害とまで言われるようになるが、これは仕方のないことでもあるが、すべての老人が老害であることはない。
沢山経験し、沢山の知識を得ても、自己絶対化には注意を払っていかなければならない。自分が絶対に正しいと思う人は、それだけで過ちを犯している。自分にとって正しいと思うのはいいが、その意見を人に押し付けてはダメだ。持論を人に披露するのが何ら構わないし、それに人が共感するのは相手の都合であり、主体性である。それは否定されることではない。
何事もハナっから、「正しい」とばかりに押し付ける人は憐れである。そういう憐れな人の押し付けを真に受ける人は、さらなる憐れである。他人の判断の良し悪しなどはたとえ、親であろうと、教祖であろうと、何処かのオヤジであろうと、山に潜む仙人であろうと、神の言葉であろうと、人の言説に影響されるよりも、自己を信じ、自立を心がけて自らで歩んでいけばいい。
自分の人生における選択は、自分で決めた方が後悔しない。自分の意見を言うということを、相手の意見に反対することと捉えてはいないか?だから、自分の意見を言わないとしたら大間違い。自分の意見をいうことは、その場に自分が参加しているということだ。つまり、その場で自分の意見を出さないのなら、決まった後でに文句を言うべきでない。
意見を言わず黙しておき、後で批判する資格などないと考える。それでも人は言うべき時に言わず、後になってナンヤカンヤいう。「だったらなぜあの時に言わなかったのだ?」と、それだけ言えば十分だ。相手に返す言葉はないだろう。まさか、「あの時は寝てた。他のことを考えていた」などの屁理屈は論外である。それ以外の言い訳など、どう考えても見つからない。
確かに人はいろいろだ。気弱な性格の人間は、1~2回意見が通らなかったことで、腐って口をつむいだりするが、そんな程度で弱気になって自信をなくしたり、腹を立てたるなどの、感情に負けず、コントロールして意見を出し続けるのが大切だ。仕事に対する熱い思いや考えがあるならなおさらである。折角のアイデアであっても、相手に伝わらなければ意味がないだろう。
なのに、「意見を言ったが無視された」、「バカにされた」などと腹を立てる女を結構見た。「女性はすぐに感情的になる」といわれるが、男女においては、脳の使い方が異なることが分かっている。左脳は思考や論理、右脳は知覚や感性を受け持つ。男性は物事の思考に左脳を使い、右脳をあまり使わず情報を整理し、論理的に考えたり分析したりする。
女性の多くは左脳・右脳をバランスよく使い、左脳と右脳をつなぐ脳梁を行き交う情報量が増えると、近くにある偏桃体が強く反応し、感情的になりやすいといわれている。それを見越して女性と付き合い、対処を必要とされるが、自分にとっての最初の女性体験は、言うまでもない母であった。「生きる」障害となる母への対処術を学ぶことが自分にとっての、「生」の証であった。
辛かったが、この体験が自分を作ったし、大きく自分を変えた。それこそ林竹二のいう、「学びとは自分が変わること」である。子どもというのは、生まれて目の前にいる親を当たり前の親と認識するが、自我が芽生える時期に、友人からいろいろな母を聞かされ、自分の母はどうやら普通じゃないことが分かった。普通でない相手は異常である。それが闘いに火をつけた。
当たり前だが、「自由は勝ち取るもの」。支配者から脱却するために過去人間は闘ってきた。人間の闘いは子ども時代から始まっている。社会に出ると様々な軋轢の中で、闘いを止めた人の声も多く聞いた。妻にガッチリとキンタマを締め上げられた不甲斐ない夫が理解できなかった。新婚早々、妻が朝起きないので、「味噌汁を作ったり朝食は自分が用意する」には驚いた。
こういう男の何の金の玉であろうか。「お前の玉って、錆びた鉄玉か?それとも石ころか?」というしかないが、いろいろ話を聞くと最初に許したのが良くないと分かった。「いいよいいよ、疲れてるんだから寝てていい」。これを優しい夫と感じたのか、いつの間にかツケ上がり女となった。それも自業自得よ、男の責任だ。こういう奴は部下の管理もできない不適格者だろう。
何事も最初が肝心で、それを許すと当たり前になる。当たり前を当たり前とし、当たり前でないを、当たり前でないと管理するのが人間で、人間は管理されなければ好き放題をやるし、まとまらない。管理職の難しさはそこにあり、当然管理者に向かない人間もいる。「人に命令するのが苦手で、自分でやる方が早いし」という人間を、管理者にする会社がダメなのだ。
上司や管理者に文句たらたらの人間は、上に上がれないタイプだろう。なぜなら、管理者には管理者の立場があり、言いたくないことも立場として言わねばならない。歩兵や桂馬や金銀飛車角といった、能力の違う駒をうまく使えないなら、辞表を書いた方がいい。でなければ社員に舐められてしまう。上司が平社員に舐められることは。会社を舐めていると同じ事。
夫が妻に舐められていることは、家庭の体を成していないことと自分はみる。朝寝坊のぐーたら妻は論外として、毎月の小遣いに不満たらたらの男もいた。「銭闘しないのか?」と向けても、「しない」という。だったら、「みっともないから愚痴はいうな」というしかない。将棋仲間のFさんは1000円亭主。今更どうにもならず、可哀相と思って何かが変わるわけではない。
寿司でも食いに行こうと誘えない彼を不憫というより、将棋が終わるとさっさと帰る彼の後ろ姿を追うばかり。それが当たり前なら、周囲が何を思おうが、Fさんにとって当たり前なのだ。飲まない自分だから、「飯くらい驕るよ」という気持ちにかられるが断る。そんなFさんに対し、節度をわきまえるのが付き合いというものだ。世の中、自分以外のことは分からないのよ。