性行為が終わったあとの気持ちの切り替わりの男女差は、経験的に実感することだが、確かに男は一瞬にして気持ちが切り替わる。この理由を文献で知った。セックスをしている時は無防備であり、事が済んだらすぐに外敵から身を守ること考えなくてはいけない。いつまでもイチャイチャでは危険、だから男は切り替わりが早い。嘘か真かそういうものらしい。
さらに男と女の力の差は自明である。もし男と女がどこかで外敵と出くわす。この時男女の身体能力が同等であれば、どちらが先に外敵を戦うかは、男である理由はない。それ以外にも、「テストステロン」という男性ホルモンが、攻撃性や敵対心を刺激する。よって、肉体的優位で攻撃性な雄が外敵と戦うが、男女の身体差があえてつけられている理由は別にもある。
身体能力差をあえてつけることによって、危険な状況では子を孕むことのない雄を先に戦わせ、種としての生存を保とうとする。雌は雄の犠牲によって守られることになる。したがって、男女における身体能力差というのは、女性は戦ってはいけませんという種の保存の原理・原則である。さらにいうなら、男は強く逞しく育てるのも親の使命、原理・原則である。
そのようなこともない時代であるから、男の子を過保護に甘やかし、弱々しく育てる親もいるが、こういうことが強い女性を生んでいく要因ではないかと考える。レディ・ファーストというのは、女性は弱いもの、庇護されるべきものとの考えから生まれたが、アメリカで研究されたオカマの発祥要因は、女性に対してそうした男の強さ、優しさを醸せない男の成り行きらしい。
優しさの根源は強さである。強さというゆとりが他人に優しくできる。これがみせかけではない真の優しさである。しかがって、心にゆとりがない人、問題を背負っている人に優しさはない。そこを考えると、「優しさ」とは人間の心が何であるかを考え、知ることでもある。我々は、「優しい」=「人間性」などといったりするが、これは本質をついていない。
人間性とは、自分の内面を犠牲にし、過剰に適応することではない。むしろ、そうした内面を犠牲にすることなく自然に成長した人にこそ、「優しさ」は備わるものだ。つまり、人としての、「能動性」、「社会性」、「積極性」、「主体性」などが伴ってこその、「優しさ」である。これが人の優しさの本質なら、それらに欠けているひとこそ、「優しさ」を所有していない。
相手を気遣ったりの優しい言葉を吐く人が真に優しい人ではなく、そうするのが優しく見えること知る人間が、意図的にそのようにしている場合が多い。女性のハンドバッグを持つという滑稽な行為が、優しさであるハズがない。西洋のレディ・ファーストも、そうすべきだから真似るではなく、「男は強く・逞しくあれ」という教育によって、自然に身につく行為である。
自分に強くなれず、女性に優しく対処できない男は、オカマになるしかない。つまり、男の自己逃避である。男に気にいられるために、「優しい言葉」、「優しい行動」をとる女性は少なくない。そういうものに引っかかる男にも心理的な問題はあるが、本当の優しさを所有する者は、浮ついた優しさを見抜くだろう。優しい、「なり」をする女は自分の前に居座れない。
男にも見え透いた優しさを行為するのがいる。理由の多くは、女性が男に求める第一位の定番が、「優しさ」であるからだ。恋愛の熟練者である女性は、そうした男の優しい「なり」を知りつつ、腹で笑いながら利用し、上手く立ち回っている。これが男と女の、「ラブゲーム」である。男の熟達者も世辞の類で、豚を木に登らせるくらいは朝飯前。これとてラブゲーム…。
勇敢な人と、勇敢な行動をする人は実は一致しない。勇敢に見えてその実は虚栄心であったりの男は多い。優しい人と、優しい行動をする人も同じこと。何が本当の優しさで、どれが偽りの優しさを判断するのは、「心」である。優しさとは、優しい行為と自ら気づかない真心に思える。したがって、人のことを常に自分と同じように考えられるかということではなかろうか。
自分に優しくなれるのと同等のことを、ためらうことなく相手にできるかである。それができる人は間違いなく、「優しい」。相手から、「優しい」といわれる必要もないほどに、ひたすら自分にすることを相手にできるに過ぎない。したがって、人からの、「優しい」は、本人には理解できないだろう。自分に優しくすることが、自分には分からないのとおなじ論理である。
そこには意識も作為もない。それが人の優しさではないかと考える。したがって、優しい人の基本は人に認められたいという行為をしない人。行為が人に共感されることはあっても、それは相手が主体的に抱くもので、意図したものではない。だから、評価をされたり、感謝をされたりを喜ばない。優しくない人を見るのによい例として、自慢話をする人がいる。
なぜ自慢話がそうなのか?理由は簡単、自慢話は相手に認められたいという願望から起こるからだ。そうした自慢話と似て非なりで、自分の願望を実現した場合の自慢話がある。こういうのは自慢話とは言わないが、自分で自分を誇るという点で自慢話でもある。同じ自慢話でも、相手に誇りたいものと、自身が自らを誇りたいものでは、発生の意味がまるで違う。
その辺を理解するのも人の正しい物の見方であろう。自己を誇ることが決して悪いとは思わないが、人によっては嫌味と感じる人もいるだろう。それはそれで仕方のないことだ。他人の心は自分に支配はできない。自分が自分を誇った物言いをし、それに相手がどう反応しようと、自分が口に出したことは相手によっていろいろに編集され、編曲されるものだと思うべし。
「そんなつもりで言ったのではありません」などは言うもよし、言わぬもよし、真意の理解が得れるとは限らない。さまざまな例が挙げられるが、身近でタイムリーなのは、東大理Ⅲの灘高三兄弟の妹が、今年同じ理Ⅲに入学した。人んちの家庭のことだが、ただ入学したのではなく、母親が学習に携わって入学させたことでこれはもう立派な社会問題となっている。
しかるに母親は、「このようにすれば息子を最高偏差値大学に入れられる」という本まで書いているように、彼女にすれば自身の快挙なりを自慢をしたいではなく、努力も含めたノウハウを私的なこととして秘しておくにはもったいないとの気持ちもあったのだろうが、こういうことは自身が工夫し、努力しなければ、他人のノウハウを知って同じようにはできない。
料理なども同じかもしれない。誰かが考案によるやや込み入った、深みのある創作料理を、そっくりそのままレシピ本にして、同じものができないようにである。創意工夫というのは、真似ではなくあらゆることを考えながら、ちょっとしたことなど、それが料理の機微というものだ。煮物ひとつとっても、口で言うのは簡単だが、なかなか上手くはいかないもの。
ましてや勉強を教える(やらせる)となると、相手は物を言わぬ具材とちがって、こちらのいう通り、指示通り、文句も言わずに動くとは限らない。相手が100%完全なるイエスマンなら別だが、どんなにすばらしいカリキュラムであれ、ノウハウであれ、人を相手にする難しさがある。したがって、彼女の成功は、子どもの資質に負うところがあったということだ。
口には出さないが(次男は何か言ったらしいが)、自分の手柄があまりに過ぎると、実際に苦悩・努力した子どもにも言い分はあろう。自分にも同じような経験があるから分かるが、子どもに有無を言わせぬロボットのようにしなければ、ナンバーワンには難しい。「ナンバーワンよりオンリーワン」という歌詞がある。改めてあの歌詞はなかなか良いと思ってしまう。
人間はバケツの中の花のように争わないではいられない。子ども4人をすべて東大医学部に行かせたいという親の情熱だけでは叶わないことを熟知する者は、自分の力などはせいぜい10、後の90は子どもたちの頑張りと感じるだろう。が、ああいう本を出すところがその辺の思慮に欠ける。部下の手柄を横取りする上司とは違うだろうが、自身の努力は手段の前には翳むもの。
これは母親に対する非難・批判というより、男の物の見方である。特に同種の経験を持つ者として、自分の力や手柄などは、本当にどうでもよく、ただただ、創意・工夫することだけが求められる。それぞれがそれぞれの形で集合し、それが一つの大きな力を引き出せる要因であった。一つの結果は単に一つのものではないのだから、それを伏せることで他を生かすことにもなる。
あまりに自身を前面に押し出すと、夫の財力や子どもの自制心や頑張りなどが隠れてしまう。そういう配慮が見えないナルシな母親のようだ。「ナルシスト」というのは、結構誤解されて受け取られているが、その本質は強い防衛本能である。自分を目立たせさせるというのは、自分を徹底的に守るという行為の裏返しであり、突き詰めていうと、自分に自信がない。
威張る、自慢するも同じことで、本質は自身のコンプレックス、いわゆる自分に自信がない。他人からの意見や批判などは受け付けられず、感情的・攻撃的になりながら自己正当化を突き進む人にナルシが多い。常に自分が一番であるという姿勢は、常に一番の物を求めようとする。それが自己愛を最大に満足させる。彼女の真の目的は子どを通した自己愛の充足である。