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Channel: 死ぬまで生きよう!
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今も少なくない、ナショナル信者

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「生きる意味とは?」という命題も、それに対するさまざまな答えも目にし、耳にするが、「生きる意味」を捜し求めることに意味はない。なぜかといえば、人生で起こることに、「何か意味があるのか?」と考えた時、意味の有る無し以前に、それらは単に、「起きたから、起きた」にすぎないと帰結した。意味があろうとなかろうと、起きることは起き、起きないことは起きない。

意味づけは誰でもできるが、起きたことは無数の可能性の中のひとつが、たまたま起きた(現実化した)のであって、「あれは必然だった」とか、「こうなるが必要があった」とか、人間がそうに思いたいだけだ。人間は根拠のないことを何らかの理由をつけて思いたいもの。自分は、根拠のないことに理由をつける前に、一切は人間の幻想であろうとの考えが自然である。

自然は完璧であり、われわれは何も必要としていない…。既にすべてが十分なのであり、何も必要とされていない…。「しなければならないこと」など何もない…。「より良いやり方」など存在しない…。単に、「別のやり方」があるだけだ。さまざまな可能性の中で、その中のひとつが、たまたま実現したに過ぎない…。すべては偶然であり、必然性などはない…。

 
未来の出来事も同じこと。「起きなければならないこと」など何もないが、起こったことは単に、起こったのであって、そもそも、「正しい」とか、「まちがっている」とか、そんな絶対的基準は存在しない。人がそれぞれの価値基準を持っているだけだ。その意味においてすべてはひとつであり、そして、完璧である。足りないものはない。神は、何も望んでいない…。

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たとえば、「お金が欲しい」と思ってはならない、ということである。「お金が欲しい」という思考は、たちまち人間社会という中で、忠実なコピー機によって複写されて行く。それは、「お金が欲しいという状態」を現実化させることだが、「お金が欲しいという状態」とは、「お金が足りない状態」ということである。そう思うことで、たちまちにして金欠状態が実現される。 

そうではなくて、「お金はタップリある」と思ったらどうだろう。すると、「お金がタップリあるという状態」が現実化されることになる。先に述べたように、社会は、世界は、宇宙は、われわれの思考の忠実なコピー機にすぎない。「ないのにあるように思えない」という人はおいて置き、お金がタップリあるところをイメージする。「お金がタップリある」と思うのは気分がいい。

思わず気が大きくなる。が、世の中では一見タダに見えるものが、実はタダではないことがよくある。そんな社会を維持するにはそれなりのコストがかかる。1000円の食品を政府が買い取って、100円で売るのが、「理想社会」かもしれない。が、差額の900円を誰が負担する?重い税金をかけるとか、どこかにシワ寄せが行く。政府は金を生む金の卵など持っていない。

何の負担もなくシワ寄せも出ない理想社会、それすら幻想であって、実際はあり得ない。ならば、「おカネがなくても豊かに生活できる社会」にするためには、生活に最低限必要なものが真に安くなる必要がある。それを、「水道哲学」と呼んだ経営者がいた。水や空気みたいにありふれた共有物になること。無理を重ねて安くしたところで、いつかどこかでボロが出る。

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その経営者とは松下幸之助。1932年(昭和7年)5月5日、大阪堂島の中央電気倶楽部で開催された、松下電器製作所(当時)の第1回創業記念式での社主告示として述べた。「産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価有る物であるが、乞食が公園の水道水を飲んでも誰にも咎められない。

それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵にたらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し、この世に極楽楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命も亦その点に在る」。物資を潤沢に供給することで物価を安くし、消費者に容易に行き渡らせるという思想である。

幸之助は後年、「経営の神様」といわれた。彼は、「いい物」を以下のように定義する。「いい物とは、品質や性能がいいということだけではない。材料は本当にいいものか、自然や人間の生存を脅かすという材料では、いい物とは言えない。自然を壊すようなものを、もし使っているとするならば、いくら品質がいい、性能がいいと言っても、それはいい物とは違う。

ひとつの製品が十分に役目を果たして捨てられるときまで、人間や自然に迷惑をかけない、そういう物が、いい製品と考えなければいかん。そこまで考えていい物と捉えているのか。それに、生産者がいい物を作っていると満足してしまったら、おしまい。いい物を造っていると思い込んだら技術の進歩はなくなる。まだまだ、いい製品を造る必要がある。

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人間に本当に役に立つ製品、人間の幸せに貢献する製品を、懸命に求めて造ろうと努力する。そこに生産者の役目があるんや。それは無限の努力が求められると考えていい。安いということも、これも、まだまだんといかんと思うな。本当に安いのか、なお工夫の余地はないのか。生産者が繁栄しながら、なおもっと安くならんのか」。など、幸之助の言葉は真に神である。

幸之助は人の活用についても述べている。「人間がみんな同じ顔形で、同じことしかしなかったら相当気味悪い。いろいろな人がいて、いろいろなことを考えて、いろいろなことをして、だからいいのであって、個性とか、その人の持って生まれた特質とか、誰ひとり同じ人はうないわけだ。それが、いわば自然の姿というもの。「百花繚乱」という言葉のように。

会社の従業員にもいろいろな人がいないとダメ。同じ人ばかりでは、全体として面白くない。会社としても強くなれない。会社経営ではさまざまな問題が出てくる。そのさまざまな問題に対応するのに、一種類だけの人では対応出来ない。いろいろな人がおると、「この問題はあんたやってくれ」、「この問題は君なら出来るから頼む」、そういうことが出来る。

それで会社は強くなる。昔話で、「桃太郎」というのがある。人間とサルとキジとイヌはみんな違う。違うからそれぞれの役割が生まれ、違うからよかった。鬼退治が出来た。会社にもいろんな人が必要だ。個性というか、特徴というか、そういう人の集まりにすることが大事。個性豊かな社員たちを、どう活用していくか、これが経営者の腕の見せどころ」。

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そんな松下電器(現パナソニック)は、業界では、「マネシタ電器」と揶揄されていた。それくらいに松下電器は、他社の作った製品を真似て類似の製品を作り、圧倒的な販売網を生かして売ることで、開発元メーカーのお株を奪う。例えばソニーが新製品を生み出せば、松下がすぐに真似、同じような製品を世に送りだす。これが松下電器の得意戦略であった。

せっかく研究開発を重ね、血と汗の結果生み出された製品を、最大手松下電器にすぐさま真似をされては差別化ができない。こうしたことからライバル他社メーカーは、皮肉を込めて、「マネシタ電気」と呼んだ。幸之助のいう個性重視なら、なぜに、「真似」であるのか?実は松下電器が行っていた、「他社製品の模倣」は、経営戦略としては正しい手法だったのだった。

これは、「同質化戦略」と呼ばれ、企業マーケティングのバイブルとも言われる、「ランチェスター法則」において最も中心とされる戦略論である。「ランチェスター法則」とは、第一次大戦勃発の1914年に、英国のフレデリック・ランチェスターによって発表された、オペレーションズ・リサーチにおける戦闘の数理モデルだが、日本では軍事より経営に生かされた。

松下電器のようなブランド力や生産力・販売網などで優位に立つ企業は、ライバル企業と同じような製品を作って売ることが、最も効率的に稼げる手段になるというもの。1950年代から70年代は家電量販店などは存在せず、各地域の、「町の電気屋さん」で家電製品を買う時代だった。町の電気屋さんは各メーカーの販売代理店で、他社の製品は基本的に扱わない。

イメージ 4そんななかで松下電器(ナショナル電器)は、日本全国に最も数多い販売店網を持っていた。したがって、ソニーやその他家電メーカーが新製品を開発しても、それと似たような製品を作って売り出せば、販売力の差がものをいい、開発元のメーカー以上に儲けることが出来た。当時は松下の家電製品は、どれも27%前後のシェアを持っていたといわれている。
しかれども、松下は何ら違法行為を行っていた訳ではない。他社の特許を無断使用することもなく、近年の中国・韓国のパクリ製品のように、造形やネーミングまで酷似させるようなゲスな真似はしない。トヨタ自動車は日産自動車の技術を借用し、販売網の差でのし上がった。コカコーラもペプシから借用、キヤノンもニコンから技術者を招いて成長していったようにである。

いずれの業界トップシェアを誇る企業は、ランチェスター戦略に習い、同業他社との同質化を図っていた。元来、日本の製造業はテレビ・冷蔵庫・洗濯機などの家電製品や自動車など、欧米メーカーを模倣することから始めた。海外製品を分解し、仕組みを分析し、さらなる高品質の製品を目指し、作り上げることで、世界一の製造業国家となり得たわけだ。

この方法を、「リバースエンジニアリング」といい、その過程においては、欧米メーカーから、「模倣品だ!」と非難された時代もあったが、最終的には品質に勝る日本製品が評価されるようになる。例えば現在のアメリカでは、国産の大手家電メーカーは全滅し、品質に勝る日本からの輸入品が市場を席巻している。自動車においても、日本車の人気は言うに及ばずだ。

つまり日本の製造業の原点は、「真似すること」から始まっていたが、日本人の誠実さや勤勉さがまるでない中国や韓国のような、表面だけを真似た劣悪コピー品とはその根本性において違い、より高品質な商品に作り替えてきた歴史がある。松下電器においても単に、「マネシタ」だけの製品ではなく、品質も圧倒的に高かったことが、世界のナショナル電器であり続けた。



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