自分に正直に生きて、誤った方向に進んだ者がいたのだろうか?もし、自分の思う通りに生きて後悔するというなら、いったい人は誰の思い通りに生きればいいのか?誰かのいう通りに生きたら後悔はないとでもいうのか?それはないだろう。結果的にどちらか一つの生き方をやるしかないし、論理で突き詰めると自分を信じて自分の思う通りに生きるのが良いとなる。
「後悔」という言葉がある以上、人は後悔する生き物だ。無くても後悔はする。一つの選択しかできないなら後悔はある。「後悔しない生き方」などという本もあるが、「後悔しない生き方」を読んだばかりに後悔するかもしれない。後悔しないというのを端的にいうと、ああしておけばよかった…、こうすればよかった…ということだが、後悔しないことがそれほど大事とは思わない。
ああすればよかったのにこうした、こうするべきだったのにああしたなど、自分の意思とは違う行為をした場合の後悔と、自分の思いどおりに生きての後悔とは違うし、後者はむしろ後悔すべきでない。意思に逆らった行為で後悔しても、それについて反省し、修整できるるし、それで自分が以前より大きくなることだってある。「失敗は大事」と言う言葉はそれをいう。
ただ、「うちはな~んにも考えないで生きてるし、そうするのが好き」みたいなことを自慢げにいう女がいる。人の生き方だからどうでもいいが、よくよく聞けば"考える力がない"、あるいは"考えるのが面倒臭い"からそうしているに過ぎず、何も考えない行動が、考えた行動に勝るはずがない。だのにそんなことを言うのは、頭の良い女ではないことを自ら公言している。
ある局面で何が正しいか、何が最善かを考えるのは難しい。それは未来のことを予測しなければならないからだが、霊能師もそうだが、自分には予言能力、予知能力があるなどという人間は、「自分は先が見えるので間違いを起こさない」と言ってることになる。そういう能力があるのか、そういう人の言葉を信じるかはさて置き、自分の事は自分で考えるのが基本だ。
「何も考えないで生きてる以上、起こった事に後悔はしない」というのは良いことだが、後悔はしなくとも、最善を生きたとは言えないし、善を尽くしたとも言えない。が、そういう人間は、「別に最善なんかどうでもいいし、わたしは普通に生きたいだけ」みたいな言葉を用意している。こういう人間と話していても、前向きな何かを感じることはない。
人が親や他人や、周囲の誰からも影響を受けず、自分の感じるままに生きてるなら立ち入らないほうがいい。「それはどうかな?」とか、「こうしたらいいのでは?」などの工夫や助言も不要なんだし、ある意味で「神」の聖域である。そういう生き方もあるんだし、尊重してあげるほうがいい。ただ、人は間違うから成長し、上手く行かないから工夫や思考もするわけだ。
人は人の影響を受けて成長するが、こういう人はあまり他人と会話をもたない。すべてを一人で行い、一切を自己完結するなら他人と話し合う余地はない。強い人というのだろうが、人は弱い時代も必要だ。人間がより良く生きて、後悔しないためにはどうすればいいのか?本当に後悔しない生き方があるのか?などの疑問の前に、「後悔しない生き方」が載っていた。
・健康を大切にする
・やりたいことをやる
・夢を叶えておく
・他人に優しくする
・人の意見に耳を傾ける
・趣味に時間を割く
・行きたい場所へ旅行する
・やりたいことをやる
・夢を叶えておく
・他人に優しくする
・人の意見に耳を傾ける
・趣味に時間を割く
・行きたい場所へ旅行する
上の項目はいかにも人間が考えつきそうなことで、文字にすればそれなりの言葉に聞こえるが、いかにも抽象的で反論はいくらでも可能だ。常に健康で、やりたい事をやり、夢も叶え、他人に優しくでき、人に耳を傾け、趣味に時間を割き、行きたい場所に旅をする。こんなことができたら後悔しないとどうして言えるのか?行きたい場所に旅行するという項目でさえ難しい。
難しい事を"やれた"ことで後悔しないという言葉のすり替え。「夢を叶えておく」など安易に言うだけでもメデタイ人間よ。念願のメジャーを果たし、今年からソフトバンクに移籍する松阪大輔はかつてこのように言った。「ぼくは夢という言葉は嫌い。見る事はできても叶わないのが夢。メジャーで投げられると信じ、目標としてやってきたので今ここにいる。」
「夢を叶えておく」など簡単に言うなって。夢が叶えば後悔しないのは当たり前だろ?と、他人の言葉にイチャモンつけるくらいなら自分で考えた方がいいわけだが、「後悔しない方法」ってのはないと思う。どんな風に生きても後悔はあるし、あえていえば後悔も大事であろう。要は自分の意思で、自分のために何かをすることだ。自分のためにした事なら失敗も生きる。
自分のための失敗なら、自分のための後悔であるし、自己責任における失敗や後悔は、行動について回るものだ。だから、失敗し、後悔することで、次ぎはそうならないよう工夫を加えて新たな挑戦もできる。失敗、後悔が悪いなどというのは見出せない。負けて群れていたら何も気づかない。群れる場所は責任転嫁をする場所。そうではなく一人で自分の負けを認める。
自分が負けているのを自覚することで、自分の上にいる者への挑戦心が損なわれずに入れる。勝って、勝って、勝ち続ける人もあるときすべてを失った方がいい場合がある。頂点を極めた者があれよあれよと落ちていくのをいろいろ見たが、印象にのこっているのは、将棋の羽生善治名人である。彼は、1996年2月14日に残る最後の王将位を奪取して7冠を達成した。
将棋界の全タイトルのすべてを取る偉業であった。ところが以後は次々とタイトルを失い、2004年には王座というタイトルのみとなった。羽生の一冠は11年と9ヶ月ぶりであった。この頃の羽生は誰の目にも挫折に思えた。特に名人戦で森内俊之九段に勝てないことでの苦悩は相当のものがあったろう。そんな羽生が昨年の名人戦で森内を4-0で蹴散らした。
森内は昨年名人位の他に竜王位も奪われ無感となった。新竜王は馴染みのあり広島出身の糸谷六段であり、彼は竜王挑戦者になった9月に七段となり、竜王位を奪取したことで八段となった。彼は奨励会時代から幹事の畠山鎮七段に最も多くの礼儀作法の注意を受けたいわくつきの人物である。「周りの意見などどうでもいい、生きていくのは自分だ」という典型的な現代若者気質。
それでいい場合もある、よくない場合もあるが、身につくなら周囲や他人への配慮も有る方がいい。ある部分において優れた能力があるなら、他の部分はガサツでいいということにはならないし、トータルとしての人間性を周囲は見てしまう。見ない人間もいるにはいるが…。寝癖をおっ立てて平然と正装和服で現れる羽生名人を「将棋以外の事は頭にない表れ」と周囲は許す。
では、寝癖のことに1分時間を割いたら、羽生は将棋が弱くなるのか?24時間のうちのたった1分を身だしなみに割けない彼を自分は頓珍漢と思っている。いろいろな事に配慮ができてこそ人格であろう。羽生名人は周囲が寝癖を望んだとしても、それをすべきでない。糸谷竜王も今は26歳だから甘えがあってもいいが、他人から見た自分を見る事も大事と分る日はくるだろう。
本当に忙しい人は、「忙しい、忙しい」などと言わない。なぜなら、時間は作るものであり、「忙しいから」は言い訳にならない。忙しいが口癖の人間は、性格を表しているのだと思っている。同様に身だしなみの1分を惜しんで将棋に集中するというのではなく、周囲に甘え、自分に甘えている。「忙しい」といって甘えているのと何ら変わりはない、精神年齢のお粗末さだ。
糸谷竜王の我関せず的振る舞いを、「大物の片鱗」と形容する人がいる。おそらく正しいかも知れない。しかし大物とは、その方面で大きな影響力を持つ人間だから、大物の行為を大物でない人間が真似る事もあろう。そういう社会的影響力を考える時、大物は、大物的独尊的行為をしないのも立派な大物の証しである。謙虚に礼儀正しいから大物でないとは言えないのだから。
糸谷竜王も「大物ぶりを発揮する小物」にならないよう注意すべきだし、44歳になっても人前に寝癖をさらすようでは羽生も小人物であり、決して尊敬の対象とならない。ある一面が優れているから、他も優れていることはなく、他は他で補う事も必要となる。身近にいれば付き合う、付き合わないにはいろいろ加味されるし、優れてるから何でも許されるは自己陶酔タイプ。
自分はあまり人間関係で苦労したり悩んだ事はないが、大きな理由はイヤな奴とは付き合わないと決めてるからだ。「みんな仲良く」は幼稚園の標語であり、誰にも嫌な相手は出現する。人間関係というのは、神経質になればだんだん悪い方に向かっていくもの。巷にいう"箸の上げ下げまで気になりだした"、という夫婦が終焉間じかであるように。
イヤだなと思う相手にはそれなりに理由も原因もある。金銭や時間がルーズであったり、無神経であったり、そういう相手にアレコレいっても「観念」は一朝一夕には直らない。これは双方にとっても不幸である。「相互の好き嫌い認知は一致する」法則によれば、こちらが嫌いなら相手も嫌っている。気の合う人間は心地いいが、そればかりにも問題がある。
双方が嫌いなら付き合わなねばいいのに、人はこの単純な事実を無視してうまくやろうとするから苦労する。どうしても付き合わねばならない情況なら、「相手の短所に目をつむる」くらいは必須であろう。にも関わらず無神経な相手なら、最小限度に関わるしかない。将棋の陰険な戦術に盤外作戦というのがあって、相手が気にすることをワザとやって精神を乱す。
それで乱されるのも人間だが、相手の意図を察知し、同情するくらいになれたら達人の域だ。実社会でもあるだろう。何で相手は自分を目の仇みたいにするのか?理由は相手が自分を意識しているからで、ブスが美人に僻むのは止められないから、相手の心中を慮ってやることだ。人の付き合いには浅い付き合いと深い付き合いがあり、人は深い付き合いを大事に考える。
が、本当に豊かな人生を送るには浅い付き合いを上手くやって行く方だ。なぜなら、たとえ親しい関係といえどもそんなに深刻に付き合う事はそうそうない。深い付き合いをする人もそうそう多くない。だから、浅い付き合いを円滑に大事にする。人と付き合い始めると、だんだん親しくならないといけないとか、オカシイとか思う人は多いが、その考えこそがオカシイ。
恋人同士ならそうなるのが自然だが、それは互いが"特定の相手"と認識し、そうなりたいと思うからだ。昨今は体の関係が決して深い関係とは言わない時代のようだが、"かつては一線を越えた関係"という認識だった。処女を戴いた相手には自ずと責任感も生じた。なぜなら処女は女性にも大切であった。昨今はバージンのバーゲンセール。大安売りの様相。
これでは大事にされなくとも当前。処女が大事なのではなく、「人」を大事にしようという我々の世代観であっては、人は自分を大切にしなきゃ。「他人をまるで風景を見るが如き」と形容するように、人が人を大事にしない時代になっている。それだけ人間関係も希薄になり、互いが心を許せないいかめしい存在で、何でそんなに用心する?と感じる場合がある。
浅い関係しかできないというのと、浅い関係を大事にするは似て非なり。前者は望ましい関係でなく、後者はよい関係である。前者に余裕はなく、後者は客観的でゆとりがある。前者はともすれば敵対心となるが、後者は友好心に満ちている。前者は間があいたりすると「何かあったのか」、「嫌われたのか」などと不安が過ぎるが、後者は数ヶ月会話がなくても不安が過ぎらない。
数日前に歯科医院の受付で支払いをするとき、受付さんから「これ使ってください」と、歯ブラシ、歯磨き、うがい薬などのものをパッケージに入れて手渡された。ビックリして、「えっ、えっ、なんですかこれは?」というと、「いつも楽しくさせていただいてお菓子もいただいてるので…」という。「こちらがお世話になってるのに、気を使わないでくださいよ」と…。
開けるとメッセージカードが入っていた。いろいろな歯医者に行ったが、歯医者ってとこは黙って口を開けているだけの認識だが、今の医院は愛想もよい。ちょいと発信してみてそこは分る。一度予約をすっぽかし、「これで許してくれます?」と、お詫びにお菓子を持参した。「○○さんって、実はオモシロイ人だったんですね。最初は堅い人かと思ってみてました」
「最初はね~、ネコかぶってたんでしょう?地を出すところでもないから…。来たくないところは来るのが楽しくなる方がいいですからね」と今は和やかである。浅い付き合いの場所だが、浅い付き合いの前提で楽しくやる事はできる。今は相当突っ込んだ話を誰ともするようになった。人間関係と言うのは二つの「そんな人と思わなかった」で成り立っている。
親しくなってアラが見えて嫌悪感から「そんな人だと思わなかった」と、これは口に出さないで心で思うこともある。反面、親しくなって仏頂面が実は虚像で本当は愉快で楽しいから、「そんな人だったんですね」ならこちらが勝る。人は社会の顔と本音の顔を持つが、カラを脱ぎ捨てることで「意外」というのは結構ある。但し、女が服を脱いで「こんなだったんだ」は禁句。
いつも「キレイだね」といってあげよう。三段腹を気にしてようが、乳首の黒ずみ、大きさを気にしてようが、どこか一つでも褒めるところを見つけられるはず。人間関係とは得てしてそういうものだ。相手のネガティブな面、マイナス点ばかりが気になるのは、こちらの人間性に問題があるのだよ。自分の観察眼、至らなさを棚にあげて人に文句をいうのはダメだね。
心が大きくならないと視野も大きく広がらない。浅い関係でも良好に続けていくためには、常に「初対面のつつましさ」を忘れずに付き合うことだ。「つつましさ」の根底にあるものは、自分自身の弱みの自覚である。が、驕り高ぶった人間にはこれがない。つまり、人に好かれるポイントがない。相手の弱みばかりを攻撃する人間は、大抵の人間関係を壊す人だ。
相手に感じたことを発信するのは構わないが、その言葉が愛情からの発露であるか、鬩ぎであるかは伝わるものだ。難しいのは被害妄想、被害意識の強い人。こういう人には何もいえなくなる。何もいえない=人間関係が樹立しない。被害妄想の強い人は、その点をよ~く認識して改善に努めること。相手の善意な言葉にも牙を向けていては人は逃げるよ。