慶応大学の10代女性が神奈川県葉山町の合宿施設において、同大広告学研究会(広研)に所属する男子学生数人から乱暴を受けたとされる問題で、大学側は関わったとされる4人の男子学生に対し、無期停学などの処分をした。この問題をめぐって大学側は当初、未成年者(18歳)への飲酒強要と、広研に解散命令を出したが、学生個人への処分はなされていなかった。
その後大学は、▽商学部2年の学生▽理工学部1年の学生2人▽環境情報学部2年の学生の4人。商学部と理工学部の学生3人に無期停学、環境情報学部の学生は譴責としたが、無期停学の処分理由は9月2日、葉山町の広研が借用していた合宿所において、未成年飲酒やサークルでの性行為、その行為の撮影など、「気品を損ねる行為をした」などとしている。
「ミス慶応コンテスト」を運営する慶大広研の男子学生が、女子学生に集団暴行した疑いがある問題を報じたメディアの見出しは、『鬼畜の所業、慶大生による集団強姦』であった。被害女性は神奈川県警に相談し、県警も捜査を始めていたが、慶大広報室は、「性行為があったのは確認できたが、刑事事件につながる事実までは確認できなかった」とした。
「文春」や「新潮」は口に性器を突っ込み尿までかけたという凌辱行為を報道しているが、これらの情報リークはどこで入手したのだろうか?警察か、被害者か、内容があまりに具体的であった。その後、女子学生側が被害届を取り下げる意向を見せるなどしたというが、暴行行為の一部始終をその場にいた学生の一人が動画撮影をしていたことが後に分かった。
動画はコピーを重ねネットに流出した。自分もこの動画を目にしたが、感想をいうならこれを集団強姦といえるのかの判断は難しいと感じた。被害届が出されれば警察も捜査せざるを得ないが、個別に詳細な聞き取り捜査をするより、現場の一部始終を撮影した動画を見れば、「百聞は一見にしかず」であり、女学生も被害届の取り下げに至ったのかも知れない。
明らかに動画を撮る目的で及んだ行為とも受け取れ、撮影側には悪フザケの延長程度で、犯罪意識はなかったようだ。例えば先の高畑の強姦致傷事件を警察が犯罪立証できなかったように、強姦の定義は、「暴行または脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫」もしくは、合意があっても13歳未満の女子を姦淫」という条件が満たされていなければならない。
もう1点は弁護士などが上記の条文以外に提示する、「人の心神喪失もしくは抗拒不能に乗じ、または心神を喪失させ、もしくは抗拒不能にさせて、猥褻な行為をし、または姦淫をした者」と、法律家以外にはあまり知られていない要件がある。被害女性は、「テキーラを10杯以上飲まされた」、「抵抗したが押さえつけられた」というが、男子学生との主張は食い違う。
加害学生から話を聞いたという別の学生は、「女子学生が飲み過ぎて体調を崩し、翌日に病院に搬送された際、親に言い訳するために、『レイプされた』と告げたことで一大事になったのであって、これは週刊誌に取り上げられる前の、強姦の話が表に出てない時点でメンバー自らがそう明かしていたので、信じてもよいのかと思いました」。と語っている。
集団暴行疑惑について慶大広報室は、「性行為があったのは確認できたが、刑事事件につながる事実までは確認できなかった」としたが、これは映像を見たコメントであろう。強姦行為の事件性の判断は難しいが、弁護士の見解は、「動画撮影に関しては重大な犯罪の疑惑があるとし、リベンジポルノ防止法違反、名誉毀損などに該当の可能性がある」と指摘する。
さらには、「性行為を撮影することだけで違法にはならないが、他者に広める目的での撮影は刑罰の対象になる」とし、今回の場合、複数対1人ということもあり、動画を広める目的で撮ったと判断される可能性が高い。動画の存在は明らかになっているが、動画がないなら高畑ケースのように、女性は強姦被害を主張するだろうし、弁護士は代理人を受ける。
が、弁護士がこの動画を見たら強姦は争えないと感じるのでは?また、テキーラ10杯飲まされた女性も、後にこの動画をみたらどう客観的判断をするだろうか?動画の始まり場面はこうだ。女性はノリもあってか数杯のテキーラを一気呑みをする。数人の男が手拍子でそれを囃す。ここまではコンパや飲み会で見られる光景だが、問題はその後の行為に対する女性の対応である。
男ども数人が彼女の周囲を取り囲み、後ろからサイドから、女性を触り続けているが、これは単に触り得という感じであろう。女性は明確な拒否の言葉も意思は見せず、見方によっては触らせている状態。口では、「いや~ん」などと言うが、毅然とした「NO!」でないのは誰にも明らかである。男はスカートをめくり、下着の上から撫で始める。女性はされるがまま…
他の席の学生を意識したのか女性は、「見えちゃいますよ」。男は、「見えないから大丈夫」、女は、「見えちゃったらやばいよ」、「見えない、見えない」のやりとり。言葉の意味を解説するに、「見えちゃいます」は、行為を止めてという拒否でなく、「見えるのがイヤ」と受けとれる。ならば行為する側として、「見えない、大丈夫だよ」と安心させる。ここまでなったらもう止まらない。
別の男は後ろから両手で胸を、下着の上からのお触りしていた横の男は、手を下着の中に入れ、ついには下着を取る。この時も女性は、「見えちゃう、見えちゃう」の言葉だけを口にする。部屋にはあちこちに別の集団もあり、女性はそれを気にしているようで、そのことに配慮したのか主導の男は後輩らに、「お前らここに壁を作れよ」と指示、4~5人の男が壁を作る。
上半身の下着を剥がし、女性を弄ぶ男の行為を身を、乗り出して眺めようとする後輩たち。それを脇から実況中継する女性は、「何よこの子、沁みできてるし、嫌じゃないみたいよ。パンツ脱がしてあげなよ。欲しがってヒクヒクだね」などと男にけしかけ、ついには、「全裸にしちゃえ!」と号令する。この動画を同大の学生は、「AⅤビデオみたい」と言っていた。
行為はどんどんエスカレートし、被害女性の声も大きくなったことで男どもは、「やばいな、移動しよう」と、一旦は女性に下着を履かせ、服を着せて他の部屋に移動する。この時女性は男に支えられていた。上の画面がその時の移動風景。後はもうやりたい放題の無茶苦茶。部屋を移動した後、女性はずっと泣き喚いていた。これを見ながら自分は思った。
これを強姦とするなら、自分は強姦のリアル場面を見たことになるが、もし、第三者として何かを証言する立場なら、最初の女性の了解からして、強姦とは思わない。自分は女性でないから女性の心情は分からないが、物事には始めと終わりがある。その間に経過(課程)がある。初めから断固拒否する女性もいるが、この女性は違っている。痴漢の被害者に置き換えてみる。
最初は特に拒否をしないでいたら、男がどんどんとエスカレートしてきた。拒否の理由は羞恥なのか、自尊心なのか、嫌悪感なのか分からないが、拒否をしたくてもできない状況というのは想像できる。拒否が躊躇われる事情も様々あるだろう。同じニュアンスで言えば、飛び込みセールスを家に入れてしまったことで、断れず不要な物を購入するケースも、拒否ができない点で同じ。
最初から、「断固拒否」であれば、ある結果は起こらない。結果とは原因がもたらすもので、その責任は自分にある。行為者が卑劣であったり、悪人の場合もあるが、どっちにしろ、行為者には行為者の目的がある。セールスなら売りたい、痴漢なら遂げたい。こうした相手の目的を察知するなら速攻防御すべきである。それをせずに、「相手が悪い」といって、どこが自己防衛だ?
相手の意図や相手の思惑を断固拒否し、実行させない態度こそクレバーである。法定速度で走っていて、相手がぶつかってきたら責任はないが、こちらも速度超過をしていた場合、防止(回避)できたと判断され、過失割合が発生する。痴漢被害も、強引なセールス被害も、厳密には過失割合は発生しており、弱者救済だけではいささか甘い。我が身は自分で守る気持ちが大事だ。
刑事事件というのは弱者と強者が存在するが、弱者にも過失を認定することが、罪の軽減や量刑の基準となる。自分は何も悪くないなどは決してなく、自身に気づかない過失でも、第三者の目には判断される。過失を食い止めるのを「自己管理」といい、その度合を、「自己管理能力」という。それが高い女性もいれば、高くない女性もいる。後者は相手に付け入る隙を与える。
自分は何も悪くない、誰々が悪い、すべて相手が悪いなどが人間の浅ましさで、言い訳も含めて自己防御本能というが、防衛とは防止できなかった言い訳より、未然に防ぐ方がいい。世の中は、「好事魔多し」、注意力がなければ、「犬も歩けば棒に当たる」。「棒が悪い」とでもいうのか?「人も歩けば棒に当たる」ではなく、「犬」である事の意味を考えてみるべき。
言葉を持たない「犬」、言い訳のできない、「犬」としたことにこそ意味がある。「すべては自己責任ですよ」であると自分は解釈する。言い分け、屁理屈、自己弁護、いわせておけばキリがない。広島弁で言い訳ばかりいう男を、「カバチたれ」といって見下す。「男がカバチたれるんじゃないよ、みっともない!」などと使うが、女にはあまりいわないし、使わない。
おそらく、「言い訳する=女」という共通認識なのか?定かではないが、「男のカバチタレは見苦しい」。標準語で言えば、「男の言い訳は見苦しい」。将棋に負けてもああだ、こうだという人間はさもしい。多少こちらが緩めたとしても、勝った相手を称えるのが男の度量であろうし、「緩めたんでしょう?」といわれて、「いやいや、全力でやりました」という自分を称えたい。
いかなる場合でさえ、言い訳を言わない自分を良しとする。そういう意識を高めて行くことが、少なからずキャパシティに寄与すると確信する。前よりはできるようになったが、まだまだの部分もある。多くの事件、幾多の事象から学ぶことは多い。社会に悪は山ほどあるが、社会に正義は少ないのも現実。文句を言って嘆くより、自己管理、自己防御を忘れぬ事だ。