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死ぬまで生きるであろう、多分…

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以前にも書いたように思うが、ブログのタイトル「死ぬまで生きよう」は、迷わずにあっさり決めた。10年も前の事はおぼろげになって行くが、考えて決めたタイトルでない事だけは覚えている。5秒か、10秒か、そんな感じでさっと決めた。先ほど他界した永六輔がこんなようなことを書いている。「死ぬと思うから死が切ないのであって、先に行って来ると思えばいいのだ」と。

人は確かに死ぬが、「死ぬまで生きる」ではなく、「死ぬまで生きよう」というのは、歴然とある死に対する呼びかけだ。自分は絶対に自殺しない自信がある。その理由は、命の値段はとても高価で、こんな自分の命であっても、命の値段はお金に換算できない程に高価。お金に換算などできっこないと言った方が正しい。なぜなら、天文学的な額のお金を積まれても命は売らない。

億どころか、何兆円積まれても売る気はない。他の人はどうか分らないが、使えない金を貰って、それを何かに役に立てようと命を売る人はいるのだろうか?他人の価値観だから、そういう奇特な人が居てもいいが、命を役立てる心掛けは立派であれど、立派もいろいろで、見習う気もない「立派」もある。斯くの場合の「立派」は、「自分には出来ない」との但し書きがつく。

「何億貰って死ぬなんて、バカでないのか?」という人もいようが、自分はそうは思わない。囚われの身の親族・家族の身代わりになるのと類似行為と感じられるし、自らの命を賭して役立てる何かがあるのが凄い。我が子が囚われの身なら、自分の命と交換に我が子を救いたい、それが親であろう。極端な例だが、命は命と交換すべきだが、お金と交換するのはどうなのか?

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親の子に対する最大の義務は、立派でなくともいいが、まともな社会人として世に出せるよう育てることか。教育(躾)とはそのためにすべきものだ。教育は子どもの幸せのためとする親もいるが、幸せとは何かについての価値や基準は、個々の親によって違うし、個々の子どもによっても違う。が、「まともな社会人」という価値は、人間が社会的動物である故の普遍価値である。

「まともな社会人」などというが、「まとも」とは何?「まじめ」と「まとも」は違うし、社会生活を営む上での最低限の基本。決まりを守り、他人と協調し、人に迷惑がかからぬようにする。これが正しいかどうかを考えるなら、決まりを守らず、他者と協調せず、他者に迷惑をかけると、比較してみる事だ。同じようにこうも考えられる。勉強「できる」、「できない」どっちがいい?

我が子が勉強できる事を望まぬ親はいない。それが幸せの近道と信じるからだ。「いや、勉強なんかそこそこ出来たらそれでいい」という親も子どもの幸せを願っている。勉強のできる秀才であっても、他人に迷惑をかけて平気なのもいる。勉強以外のスポーツや芸事に重きを置く親もいる。子どもの能力や主体性から親が追従するのか、能力や主体性とは無関係に親の先導なのか。

強制はしたくない。子どもの自主性を尊重してやりたいという親もいる。自分はこのタイプである。理由はここでいろいろ述べたが、勉強ができるというのはテスト能力に過ぎない。それを学力というなら、生きる力という実務能力も大事である。長女が小4の時、何気に中学受験の国語の問題集を買ってみた持ち帰って中身を開き、腹が立った時の記憶は鮮明に覚えている。

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「何でこんなことを今、覚えなきゃならないのか?」と、機械的な記憶のバカバカしさに腹が立ち、問題集を即ゴミ箱に捨てた。それがすべてであった。テスト能力などは所詮テスト能力である。ペーパーテストで計られる能力もないとはいわないが、それがビジネス的社会環境の場において、相当の比重を占める能力だとは誰も思っていない。実務能力の例は明治維新が示す。

維新の原動力となったのはいずれも下級武士。坂本龍馬など、一人前の武士として扱ってもらえない階層出身である。吉田松陰の「松下村塾」では何を教えた?松下村塾は教科書として、「武教全書」を用いている。「武教全書」は儒学者の山鹿素行によって著された兵学書で、軍隊の統制法、主戦、客戦、攻城、守城などの戦法、築城や兵具などの軍事技術百科。

また、「武士としての振る舞い」などにも触れられ、道徳観なども織り込まれていた。ただ、松下村塾の優れた点は、「教科書」にあるのではなく、その教育の目的にあった。秀逸なのは、「人の育て方」である。基本的には短所改善でなく、長所を活かすことのみを考えた。さらに、「自分(吉田松陰)と同じような人間を作らない」ことに特に留意したこと。

これは結果的に多様性を生み出すことにつながり、様々なタイプの英雄を輩出することになる。この時代の教育目的と現代では違うといえば違うが、教育の理念や基本的な目的が、淡く世知辛いものになった感は否めない。ただただ多くの事を覚えることに専念する教育が、エリートを作る土壌になっている。エリートさえいればいいという政策は社会を衰退させるだろう。

イメージ 3200年ほどの歴史を振り返ってみるに、庶民の頑張りが目立った時代ばかりで、エリートの活躍が目につく時代はない。せいぜい高度経済成長期に、官僚の舵取りがよかったという程度で、この国は庶民の頑張りでやってきた。日本人の一生は、最初の20年は家庭で扶養され、次の40~50年は働く時期となる。さらに残りの数十年は社会的に扶養される時期であろう。

つまり、働く世代が前半と後半を支える仕組みになっていえう。これが世代別にみた日本社会構造である。今後はますます少子高齢化が進むことになる。支配階級ばかりを親が目指すのはいいが、誰もが支配階級にはなれないし、それほどの定員もない。支配階級を目指して落ちこぼれた人間が、しぶしぶ労務者階級となって不満タラタラで働くことになるのだ。

高度経済成長期の親は子どもに高望みをせず、子どもの頭の程度をちゃんと把握していた。ところが、ネコも杓子も塾に行き、そこで成績が伸びるとつい親も舞い上がる。昔のように「あんたは勉強嫌いでバカだから、手に職でもつけた方がいいね」昔はいたそんな親も教師も今は少ない。バカでも大学に行けばハクがつくと思っている。希望はいいけれども、現実はシビアだ。

テスト能力より、実務能力が社会を動かしていく。今の時代に高度経済成長期のような、社風とでもいうのか、しっかりした組織で、びっしり縦の線で動くような人間関係ではなくなっている。平社員は係長の、係長は課長の、課長は部長の指示命令を文句もいわずに従うだろうか?誰が、勉強漬けの無能インテリ上司を信頼するだろうか?それがこんにちの管理職の苦悩である。

立派なエリートもいなくはないが、むしろ例外で多くはダメ人間。なぜなら、自らの努力で地位を得た者は、自分で代償を払っている分、地位に見合った責任感も持つ。が、然したる努力もなくして地位を受け継いだ者は、最初からその地位に預かり責任感ももたない。というように、エリート教育の弊害もしくは、二世、三世といった世襲会社は、責任感も意欲も薄れ没落していく。

「子に美田を残すな」ではないが、エリート教育に嵌めこもうとする親より、努力を惜しまぬ子に照準を合わせて育てる環境が、逞しい子どもを作る。何は無くても人間は逞しさではないか。今の家庭教育は、逞しさより賢さを求めているようだ。それも周囲と競り合いだけの付け焼刃的な賢さで、絶対的な頭の良さを子どもに求めてない。乱塾が日本をダメにした。

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何事も自ら思考し、自らが答えを出すような子など誰も求めていない。有能な吉田松陰といえども、自分のコピーを作ろうとしなかったが、今の若者の多くは体系化された学問の申し子だから、ほとんどがコピー人間でつまらない。すぐに答えを教える教育の弊害と感じている。結果がでるまでに何十年とかかる教育だけに、親はついつい、「今でしょ!」に頼る。

「今でしょ」を当地の古い言葉でいえば、「今でがんしょ」。「でかんしょ節」という歌は丹波篠山地方の方言で、「でかんしょ」=「でございましょう」であるらしく、当地の「でがんしょ」とほぼ同じ。明治時代末から大正時代にかけて大流行した「でかんしょ節」は、「デカルト」、「カント」、「ショーペンハウエル」という哲学者3人の名前を繋げたものだと言われていた。

小説家でエッセイスト、精神科医、医学博士の北杜夫の著書『どくとるマンボウ青春記』にもそう書いてある。北杜夫は本名を斉藤宗吉といい、父は斎藤茂吉、兄に斎藤茂太がいる。斎藤茂太の遺作、『自分らしく生きて死ぬ知恵』に、「人生は平凡こそが尊い、60点で丁度よい」とある。茂太は長いこと人生80点主義だったが、晩年は60点主義に成熟した。

80点だと日本人の生真面目さが出て、「もうちょっとで100点」とつい頑張ってしまいかねない。若い頃と同じ考えでは健康につつがなく人生を送れないし、歳をとったなりに相応の考え方に成熟させるのがよいという。「カレーハウスCoCo壱番屋」の廃棄カツを横流しした3人はそれぞれ、75歳、76歳、78歳である。年をとってもカネに汚い人間の節操の無さというしかない。

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「本当にしなければいけないことなど、何もない」と茂太がいうように、自分を縛らず、締め付けず、あるがままに生きるのが理想である。完璧な人間はいないのだから、見栄を張らず、ぞんざいに、自由に生きるのが人生の楽しみ方ではないか。完全を求めて不満を募らせるより、不完全なものの貴重さを楽しむ。これは親が子に完全を求めないことにも通じるハズだ。

「完全」、「完璧」を求められる子どもの身になってみろだ。「でかんしょ節」のように、大らかに、人生の半分は遊んで暮らす。それこそ一回ぽっきりの人生ではないかと…。過去を悔いる人は今を楽しめない。「自分のような無学なもの」、「あんまり勉強しなかった」など、言うも書くも嫌味でしかない。他人から見た自分を止めて、自ら楽しく生きたらいい。


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