参院選より都知事選が興味深い。石田純一の名には驚きもし、驚きもせず…。所詮は目立ちたがりの芸能人であるからだ。それより久々に彼の素足の革靴を見た。石田は芸能界きってのイタリア好きで、ナポリまでピッツァ・マルゲリータの発祥の店「Brandi」へ足を運んだという。素足に革靴を意識し始めたのは、以前ミラノでスリッポンに素足のファッションが流行した事に遡る。
素足に革靴といえばラモスもだが、知名度で石田の持ちネタになっている。短めのパンツに素足に革靴というのも、新しい形の東京都知事かもしれない。今回、猪瀬元知事が実名告発したように、"伏魔殿"都庁と都議会に小池氏が本気で対決するつもりなら、彼女やる気を買いたい。どうも男では尻ごみするし、ならばいっそしたたか女の方が適任かも知れない。
猪瀬氏の告発の意図は、自民党都連を向こうに回し、都知事選立候補を表明した小池氏への警告とエールと分析されている。都議会自民党の内田茂自民党都連幹事長は、既得権益の権化として都議会に十数年君臨するドンと呼ばれている。自民党都連会長は石原伸晃だが、会長は帽子で国会議員や都議会の公認権は都連幹事長の内田が握っている。
ウミが溜まりに溜まり、正常な議会運営がなされていないようなら、小泉純一郎の「自民党をぶっ潰す」という威勢のいいリーダーが必要と思われる。石原、猪瀬、舛添氏らはその任に有らずで、自民都連が推す増田氏は抱きこまれるだけで、彼に「任」の「に」の字も期待できない。橋下氏も間接的にエールを贈るが、それほど議会と対決するのは至難のようだ。
小泉劇場はポピュリズムをバックに、日本をダメにした超戦犯とされるが、小池氏が本気で都議会と対決姿勢を示すなら、彼女の都知事を傍観してみたい。意気込みはあっても多勢に無勢、猪瀬や橋下のエールは懸念であろう。重鎮や老害に対抗するのは難しく、外野としては事の成り行きを静観するしかないが、変革はイイことだから小池氏の頑張りに期待したい。
堅い話はさておき、石田の素足の話を膨らませてみる。「素足」、「裸足」、「生足」の違いは?ちょいと考えればわかるが、裸足は何も履いていない足、何も履かずに地面を歩く。素足は、靴下や足袋などを履かないこと。つまり石田純一状態の足。生足は、以前はなかった言葉で、ストッキングなどを履いていない女性の足のえぐい言い方。生脚とも書き、男には使わない。
素足に靴下を履くとはいうものの、裸足に靴下を履くといわない。裸足で外を歩くというが、素足で歩くといわない。足首の隠れる靴下を履いても腿がでていれば生足というが、レギンスなどを履いて、足首以下が見えるのは生足といわない。膝から下の長靴下を履いていても、脚の露出が多いスカートなどで肌を晒している場合は、と言う。生足とは男のエロチシズムであろう。
♪えくぼの秘密あげたいわ もぎたての青い風
松田聖子のデビューシングル『裸足の季節』のサビは印象的だ。えくぼの秘密って一体なんじゃい?友人とあれこれ言い合ったのを思い出す。どちらからともなく、妙(?)な言葉を肴にアレコレ言い合うのも知的ゲームだろう。それは子どもの頃の、「鉄腕アトムはなぜ海水パンツをはいているのか?」、「アトムは何も履いてない、あれはペンキで塗っているだけ」に遡る。
答えのない自己主張合戦は、当時「ディベート」という言葉のない時代の、「ディベート」であったかも知れない。そういえば、山口百恵のデビューあたりの曲に、「あなたがのぞむなら、わたし何をされてもいいわ」(『青い果実』)、「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」(『ひと夏の経験』)などのきわどい歌詞が、「青い性典」路線として売り出された。
辺見マリが、「やめて~」(『経験』)、青江三奈が『伊勢佐木町ブルース』で、アクメな声を発するのとは違って百恵はローティーンである。この辺りから十代女性は外交的快活的に変貌していったのかもしれない。文化はメディアによって主導されていく。男同士で、「わたし何をされてもいい」、「女の子の一番大切なもの」について言い合ったり、取り上げる事はない。
そんなもん分かっていることで、「何をされてもいいのって、何を?」とか、「女の子の一番大切なものって何だ?」は、女性に問いかける方がオモシロかった。当時はまだ奥床しき女性の宝庫の時代でもあり、そういう問いを歪めて考えること自体に抵抗があったのか、真面目に受け取り、真面目に考える様子そのものが可笑しかったが、なんともナイーブな時代である。
卑猥な問いに真面目に答えることこそ、真面目さの自負であったのだろう。女性は真面目であることが、なにより女性らしさの証明であったのだ。「晩生(おくて)」というより、性的な思考を自己規制で排除する。「女の子のいちばん大切なものって何?」と問われた百恵が、「真心」と答えていたように…。後年彼女は、「処女って言わせたかったんでしょう?」と言った。
「カマトト」とは、知ってるのに知らないフリをすることだが、女性はカマトトであるべきだった。それが男の物足りなさでありつつも、男にとっての女性らしさの、「証」という二律背反でもある。とかく男は女という生き物に二律背反を求めるところがある。「あるもの」を、「ある」というより、「あるもの」を「ない」という女性の嘘を許容し、責め立てないのが男である。
あの時代は女性に性体験を聞くと、バカ正直な女性以外なら、「したことないです。」と答えるのが、いわばセオリーであったように。傑作なのはそれで離婚になるというのも、笑い話ではなく本当に起こっていた。「君は処女だといったじゃないか」と言われて処女でなかった女性はどう答えたのか?「ごめんなさい」なのか、「あの時はついそう言ってしまいました」なのか。
処女であることは、女性の貞操観念が高いということであり、それが女性の価値を高めてもいた。純潔教育が主導され、われわれもそういう教育を受けていた時代において、女性の価値観はそういうものであった。みだりに肌を露出してはならない、みだりに男に身体を許してはならないというのは、女性の漲る性欲を押し殺させていた男の傲慢であったということだ。
女性は商品であった。バーゲンセールではなく、特選品である事を求められた。それが、「あなたが望むならわたし何をされてもいいわ」とか、「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」とかを15歳の少女に歌わせることが、どれだけカルチャーショックであり、そのカルチャーショックは、ひとたび公になった途端、ショックでも何でもなく、当たり前となる。
時代はそのようにして変貌していくのだろう。多くのことは、「コペルニクス的転回」で異端な事象が当たり前に収まっていく。太陽が地球の周りを回っている時代に、「地球が太陽を回っているのだ」が、どれだけ異端であったか。「人間は神の創造にあらず、猿が進化したもの」、「宇宙は膨張する」、「重力は空間を歪める」などの理論が、どれだけ奇抜であったか。
「性欲は男だけのもの、女性にはない」というのが純潔教育によって無理やり定義されていった。性欲を覚える女性は異質(?)な自分にどれだけ苦悩した事であろう。だからか、女性に表と裏の顔があった。女性は男に童貞を望まないのに、少なくなったとはいえ、なぜ男は女性に処女を求めるのか?ハッキリいえるのは、恋愛経験の少ない男の幼児性だろう。
成熟な女性よりも未完で未熟な女性を嗜好するのは、ロリコン男やAKB48に群がる未成熟な男もしくは、しがない中高年男の若さへの憧憬である。ところで、「えくぼの秘密」だが、中国には、「えくぼ」伝説というのがある。ロマンチックな話なので以下記す。人間は死ぬと冥界へ行くが、冥界の入り口鬼門関を抜けると、すぐに黄泉路がある。黄泉路には彼岸花がいっぱい咲いている。
路はずれに、「忘川河」という河があり、河には、「奈河橋」が架かり、橋の上には、「孟婆」という女が番人をし、ここを通り過ぎる人に、「孟婆スープ」を飲ませる。「孟婆スープ」は別名、「忘情水」といい、飲むと前世も今生も忘れ、自分の一生における愛、恨み、情、仇などの一世代の浮沈や得失がスープを飲むことで忘れ去られ、心を無にして転生する。
楽しかった思い出、辛く切ない記憶は消え、かつて愛した人や遺恨を抱いた人に来世で遇っても、互いに何の関係もない人になってしまえるのだ。したがって、安らかに転生したいのであればこのスープを飲めばいいが、愛する人との思い出を忘れず、来世にて出逢いたいと願う者は、「孟婆スープ」を飲まず、「奈河橋」から「忘川河」へ身を投げなければならない。
氷のように冷たい、「忘川河」の水の中で、1000年もの月日を試練として過ごした者は、前世の記憶を授けられて輪廻をする。試練に耐えた印である、「えくぼ」を顔につけられ、前世の恋人を探すことになる。もし周りに、「えくぼ」のある人がいるなら前生の恋人であり、だから大切にすべし。再びあなたに遇うため、寂しくも苦しい千年を待っていたのだから…。
松田聖子『裸足の季節』にある、「えくぼの秘密」とはそういうことだ。えくぼを持つ前世の恋人を探すということ。えくぼの芸能人で検索したが、最近の女性は名前も顔も知らん。昔だと、田代みどり、田中美佐子などが浮かぶ。ところで何で、「えくぼ」というのかと思いきや、漢字で、「笑窪」と表記するのを始めて知った。なるほど、笑って窪みとはまさにそのまんま…
石原はダンマリ、舛添もダンマリ、そんな"伏魔殿"都議会に猪瀬が口火を切った理由は、内田茂自民党都連幹事長との確執もあるといわれるが、そうであっても、蓋をとらなかった石原・舛添に比べて猪瀬は蓋を取った。小池はそんな都議会との対決姿勢を現したが、かつて外務省を"伏魔殿"と評した田中眞紀子が、土足で入り込んでしっぺ返しを食らった経緯がある。
「自民党をぶっ壊す」で首相になった小泉が、「都議会をぶっ壊す」方法を小池にどうアドバイスするのか興味津々だ。何気に幼稚園等で取り入れられている、「裸足教育」を思い浮かべた。足の裏にはいくつものよい刺激があるという。石田純一の素足はともかく、土足で向かって行った田中眞紀子より、小泉流の柔軟な発想と、自然体としての裸足で、"伏魔殿"入りはどうか?