小学校のPTAをやって教師について判ったことがある。運動会を前にした予行演習の際の、用具の準備・片付けのときだった。平均台を倉庫をしまうときにある古参女性教師が、「力仕事は男の仕事、ヨロシクね!」。手伝う素振りもみせず、事もなげに言うので、「それ、差別だろ?差別撤廃なんてご都合主義か?」というと、「いえいえ、これは区別ですよ」と言う。
「なるほど…、だったらお茶汲みは女性の仕事だな?」といえば、「それは差別なんですね~?」と言う。こういうバカ女に男教師は我慢しながら一緒に仕事をするのか、というようなことをいうと、「学校という所はイガミあってはやっていけないんです」と男教師は言った。差別と区別の曖昧さを楯に、噛み付くのは決まって女。男は黙して従うという図式である。
区別だ、差別だなどと言い合う場合でないなら、言った者勝ちである。「(女性教師に)重いから嫌など言わないで一緒に片付けましょう」と、自分なら言うが、あんな態度を野放しにする男教師も悪いと感じたし、これが世の現実なのを知っている。「お茶汲みは女の仕事じゃない」といいながら、「力仕事は男の仕事」と言われて踵を返せない逆差別の実態を見た。
女がお茶汲みをしたくないから拒否するのはいいが、差別だなどといわずに、「嫌なんです」と正直に言えよ。そういう女のズルさに腹が立つ。が、率先してやろうとする女性にまで、「しない方がいいわよ」とけしかける性悪女もいる。お茶を入れることに躊躇いのない女性もいて、それは人格の問題であるが、フェミニズムというのは女性のやさしさまで否定する。
この世の女性の多くが男と対等に張り合いたい訳ではないし、フェミニズムが女性に支持されなかった要因はそこにある。田嶋陽子、上野千鶴子、遥洋子らのように、男に立てつけばいいという攻撃志向に批判的な女性も多い。そのことにフェミニストは気づいていても、今さら変えられないのだろう。あげく、しおらしい女性を、「男に媚びている」と、悪口をいう。
言われた女性も気にしないことだ。女性のイジメの基本は、例外を認めない。みんなが同じでなければ困るという子どもの論理が多く、だから「自分がお茶汲みを嫌じゃないからといって、されるとわたし達が迷惑するのよ。悪者にされてしまう。だから止めてね」などとやさしくいうが、その裏では男性に、「あの子はいい子」と人気があることを腹立たしく思っている。
こういう苦悩というか、悩みを聞いても男にはどうにもならない女の世界である。かわいそうだが、結局居づらくなって辞めていく。「みんなと同じようにしてくれなきゃ困る」という同調圧力は、村の論理、村八分の論理である。どうして女はこうなのか?皆が同じ化粧をし、同じバッグを持ち、同じ服を着るなど、流行(はやり)ものに目ざといのも同じ論理である。
女の世界観を男が否定したところで意味ない。否定はしないが、他人にまでアレコレいい、圧力をかけるのは人を苦しめるのがなぜ分らない?分かっていてもやるのか?「人がいい子=自分が悪い子」という屈折した考えのようだ。他人と競ってばかりでこの世は務まらないのを男は知っている。周囲の目は相対価値より絶対価値。ならば自身の価値を高めるしかない。
「男の世界っていいね」多くの女がいうのは、男の「他人は他人」という世界観である。一歩外にでると、誰がどういうバッグを持っているか、どういう洋服がトレンドであるか、化粧法はどうか、あの女性はスタイルがいい、ヘアスタイルがかわいい、などと実に目ざとい。他人ばかりを見ているところがある。実に面白い光景でもあり、ある意味大変という気もする。
それが女の活性ならいい。ある女性「イロイロ楽しめるし、女に生まれてよかった」と、思える人は幸せのようだ。しかない男はつまらんことで女と張り合うのをよしとせず、言われるままにやってしまう。「つまらんこと」とは何かといえば、バカと言い合いするのも面倒くさい。上野も田嶋も経年で大人しくなったが、遥洋子は以前は可愛く、男にも人気があった。
彼女はどちらかというと、前出の二人に比べて美人形である。1984年(昭和59年)放送開始のテレビ番組、『ときめきタイムリー』(読売テレビ)では、上岡龍太郎とともに8年間司会を務めた。1986年(昭和61年)には、テレビ番組、『週刊トラトラタイガース』のキャスターとして14年間、川藤幸三と共演した。そんな彼女がフェミニズムに開眼した理由は大失恋と推察する。過去、自分の知る幾人かの女性で、男に裏切られたことで二度と恋をしない、もう男は要らない、それくらいに自我が傷ついた女性がいた。それなりの容姿であり、どうもしなくても男が寄ってくるやさしさも備えた女性である。「セカンドバージン」という言葉が持てはやされた時代もあったが、今は死語化している。長いことsexしていない意味に使われるようだ。
「セカンドバージン」の本来の意味は、「最初の経験で男性に不快・不振な気持ちになり結婚までセックスをしない」、「二度と男と付き合わない」などである。遥洋子は女として生きるを決別したのは、1997年から3年間、東京大学大学院の上野千鶴子ゼミに特別ゼミ生として通い、フェミニズム社会学を学んだ以降か?ゼミ明けの2000年に『結婚しません。』という著書を出す。
法要で実家に帰った際、兄嫁から、「洋子ちゃんはもう男として生きるねんて」と嘲笑され、場に居た皆がどっと笑ったという。その恨みからか、「女の敵は女」とブログに記しているが、兄嫁から痛い所を突かれても、『結婚しません』という本も書くほどに一家言はあろうし、非婚主義ならいいではないか。兄嫁如きに敵対するダサイ女に、「○○主義者」という肩書きは程遠い。
茶番と言うか、真似事というか、中途半端で他人に惑わされない、真のフェミニストになったらいいのよ。主義や思想のためなら、自らを滅ぼすことのできる人間こそが、真に思想家足りうるのであって、目先の感情や性格の毒に左右されることなく、それらとは別の高い次元で生きてこそ、「○○主義者」である。我々は偉大な哲学者の苦悩を知っている。
真に主義者、思想家を目指すなら、その事で本人が苦しむのは当然にしても、実際に苦しむのは本人より、それを見ている側である。見ている側の苦しみに耐えることのできる人間こそ、何かをなし得るのだ。ニセモノは五万といる。ホンモノを目指すなら、自己の些細な感情と決別する。結婚しない選択をとっていても、他者から「何で結婚しないの?」と言われてムカつく。
「非婚主義」とは到底言えない。主義とは自分が主張するだけでなく、他人から認知されること。そのためには、明解で説得力ある言葉を他人に投げかけなければならない。よって、感情に支配される女性が、「○○主義」は至難である。所詮は、「触らぬ神に祟りなし」と無視されるのがいいところ。何を言われても動じぬ女性の、「○○主義者」の到来を望みたい。
差別主義者というのは、大統領候補のトランプのような人間でなければならないし、「○○主義」を名乗るのはそれほど大変なことだ。自分もかつて、「女性差別主義者」と言われたことがある。文脈や要旨を度外視し、言葉じりを捉えた差別主義者発言に、いちいち弁解するのも面倒くさい。田嶋や上野は男をリスペクトしないが、自分は大いに女性に一目置いている。
区別を差別と言い、差別を区別という人間は多い。突き詰めた議論の最中、「わたしが差別と思うから差別」という女性がいたが、「わたしが痴漢と思えば痴漢、好みの男は痴漢と思わない」と発言する女性と同等のアホである。善悪良否の基準が自身の感情なら、膝を付き合わせた議論などできるはずがない。自己の主張を一方的に推すだけの相手と不毛な議論もダルい。
「オフィスに生活はない」と苦悩した佐高信著『逆命利君』主人公、鈴木朗夫の言葉を思い出す。「ゴミゴミしたオフィス、机の前に坐って、複数人の中で、そこいらの女の子に調子を合わせながら過ごす8時間の馬鹿々々しさはどうだ…」。東大経済学部を卒業後、人気企業のトップ住友商事に入社した一人のサラリーマンの、入社早々期の独白日記である。
真面目でひたむきな性格の鈴木は、確固とした自分を持っていた。がゆえに、彼は日記に次のような呪詛を書いて自らを癒す。「馬鹿げている。この生活はゼロよりも悪い。人間というものがこうも愚劣だとは想像もしなかった。僕の周りでガツガツと飯を食い、無作法に振舞い、知性の欠片もないところをひけらかす若い男達、その間に黙って坐っている事のい苛立たしさ。
日本人はこんなに馬鹿だったのか。尤も、僕は日本人じゃないから知ったことではあるまいが…」。鈴木は紛れもない日本人であるが、嫌悪感を同胞と見定める抵抗感が、「僕は日本人じゃない」と書きつける。別の書き方もある。「僕のレベルが高いのだ、などということではない。つまり異質なのだ」と、自己の独善的有能感を戒めるため、「異質」という言葉にすがる。