石内バイパスから五月丘入り口を右折し、県道71号を田方方面に南下の途中の山道に、紫色の棘のような花弁を持つ花の原生群がある。昨日も書いたが、ウォーキングの途中で、名も知れぬ花に心を寄せたり、おもむろに近づいて、しげしげと花弁を眺めたり、自然との共生を楽しんでいる昨今だ。花に目をやる、花に心を奪われるなどという事は今までなかった。
野辺や山を歩くことで、ほとんど人に知られず、見向きもされず咲く花たちも、見方を変えると、咲き誇っているように感じられる。さほど自己主張のないような控え目な野草もあるが、目に止まった紫の尖った花弁をもつこの花は、なんともいえないエキゾチック感を醸していた。近づいてみると、「何でこんな形をしているのか?」と自然の造形に驚かされる。
花弁を引き寄せようと、がくの部分に手をやると、「いテテ!」。美しさに魅かれ、こちらに引き寄せようとしたのに、棘があるではないか。美しい花にも棘、とはいったものだが、何でお前には棘が必要なのだ?と「むっ!」と来てしまった。ひょっとしてこれは「アザミ」ではないのか?花オンチの自分が、この花をアザミと断定するうっすらな記憶があった。
眺めながら思いは確信に変わっていく。「これはアザミに違いない」。棘のある花はバラとアザミ、くらいの知識程度は花オンチの自分にもある。バラは野草ではないし、有名な花だが、アザミの形状についての知識はなかった。「アザミ」で思い出すのは中島みゆきの『アザミ嬢のララバイ』である。「アザミ」といえばそれ…、この曲以外、アザミにゆかりはない。
花の棘は防護の効用もなく虫に食い荒らされる。バラの棘は盗難防止になるが、アザミは…
棘で痛い思いをさせられた「こんにゃろめ」のアザミと決別し、再び歩きながら『アザミ嬢のララバイ』のことが気になり始めた。頭の中でメロディーがぐるぐるとめぐり始めるが、詞は定かでない。「アザミ嬢」とは何だろう?アレは何を歌っているのか?「アザミ嬢」の謎を考えるには、歌詞を思い出す必要がある。聴いた事はあるが、歌った事はない。
そのせいもあってか、思い出そうにも部分的な歌詞しか出てこない。のっけの、♪ララバイひとりで 眠れない夜は…、のところと、春は菜の花 秋には桔梗 そしてあたしは いつも夜咲くアザミ、のところしか浮かばない。全体を通して、ララバイの語句が多いのが特徴だ。歌詞で象徴的なところは、「そしてあたしは いつも夜咲くアザミ」というところである。
歌にあるようにアザミは夜咲くのか?夜咲く花といえば、「月見草」、「月下美人」であり、どちらも花の形状は知らない。夜咲く花という知識があるだけ。歌詞全部は分らないが、歩きながら「アザミ嬢」というのは、女の本名ではなく水商売女の源氏名ではないかと想像した。「夜咲くアザミ」というのは、アザミが夜咲くのではなく、夜の女の比喩ではないかと。
アザミの形状からして、夜咲いて朝閉じるというより、一日中咲いている花のようでもある。結局ウォーキング中に思ったのは、『アザミ嬢のララバイ』は水商売女のことを歌った曲とし、帰るや否やアザミを調べてみた。『アザミ嬢のララバイ』についても調べたところ、アザミは夜咲く花ではなかった。この曲で、20年間アザミは夜咲くと思った人もいたようだ。
ララバイ(lullaby)は、いうまでもなく子守歌。曲中25回も使用されている。ララバイで印象的な曲として、岩崎宏美の、『マドンナ(聖母)たちのララバイ』がある。マドンナ(Madonna)は、古いイタリア語の、「ma donna」が語源で、「我が淑女」の意。短縮形では、「mona」が伝統的綴りだが、現代イタリア語では、「monna」となり、モナ・リザ(Monna Lisa)と表記する。
例のごとく節操なき文ゆえにあちこち飛び火をするが、ブログをやることで知識は増大する。取立て必要な知識ではないにしろ、知ることで世界は広がって行く。「知る」ことは調べること、「調べる」ことはまた考えること。「考える」を思考し、分解すると、「過去の事例を踏まえる」+「リスクやベネフィット(価値)を推し測る」+「優先順位をつける」ということになろう。
そこには、「知る」と、「調べる」が手段として含まれることになる。逆の言い方をすると、概ね、「考える」という行為は、「知る」と、「調べる」という要素に支えられていることになりはしないか?何かについて、「考える」というのは、何かについての、「当面の答えを出す」道程のことで、その、「考える」を効率よくこなす行為が、「書く」と、「話す」であろう。
有名なロダンの、「考える人」は、人が考えるポーズであるが、ウンコのポーズでもある。ポーズだけでは、「書く」、「話す」という行為の効率には到底及ばない。できるだけ多くアウトプットすることが、インプットの効率性を高める王道にあるとの気持ちで、できるだけ多くのアウトプットを心掛けて書いている。記事の論点や有用性より、できるだけ多く考えたいという自慰行為である。
「アザミ嬢」が水商売女なら、マドンナとは対極的である。『マドンナたちのララバイ』の詞をあらためて読んでみると、なんとも言いがたい聖母の慈悲を感じる。この曲は男への癒しの歌であるのが分かる。『アザミ嬢のララバイ』の詞の内容も、男を癒したい女の心情を歌う点は共通するが、こちらは水商売女が主人公であり、日陰女の切なさが見える。
「こんなあたしでいいなら、いつでも尋ねてきてよ、こんなあたしでいいなら…」。と、これが中島みゆき独特の世界観である。「水商売」は職業的差別用語の意味合いがある。最近はキャバ嬢などとオシャレな言い方をするが、差別意識はなくとも、当事者は被差別意識を持つのだろう。女性は夜の商売で確かに高賃金、高収入を得るが、反面失うものもある。
ハッキリいえる事は、風俗、モデル、コンパニオンなどにしろ、女を武器にする商売はある程度の容姿が備わって、接客のコツさえ掴めばOLに比べてはるかに稼ぎは大きい。が、いかにテクニックが磨こうとも短命であることは間違いない。若さを失えば、ワザは価値あるものとならない。逆説的な言い方をすると、輝ける期間が短いからこそ値打ちが上がる。
いわずもがな水商売女性の客は男である。大抵の男性は下心を持って近づいてくる。したがって、女性は値踏みされる立場にある。使う側も勿論、商品としての女性であって、商品価値のない女性に高給は払えない。ビジネスの論理としては当然のこと。昼に会社で働いているOLたちは、「女は金になる」などの意識はないが、水商売をするとよくわかるという。
「自分自身が商品である」ことを知った女が、まともな恋愛などは高値の華なのだろうか?夜の仕事でたくさんの男性を相手にする女性であっても、恋をしたい、恋愛を楽しみたい気持ちは、昼の女性と何ら変わらない。『アザミ嬢のララバイ』は、そうした女の控え目な心情を歌っている。三度も繰り返される、「春は菜の花 秋には桔梗」は何を意味するのか?
あくまで自分の感じ方だが、菜の花は黄色い可憐な花であり、「可憐」は女性の憧れであろう。桔梗を画像でじっくり眺めると、どことなく折り目正しい清楚感が漂っている。「清楚」もまた女性の憧れであろう。アザミ嬢は「夜咲く」という、そのことだけで、菜の花や桔梗とは異なる世界観を抱いている。自己嫌悪に違いないが、歌詞に卑屈は感じられない。
『アザミ嬢のララバイ』の歌詞をさらに読み込むと、アザミ嬢の恋心を綴っているのが分かる。恋する男がいて、彼を癒すことができるなら、それで自己の存在感を増すという、控えた女の心情が伝わってくる。ところで、中島みゆきはなぜ結婚しなかった?過去形だが、もうないだろう。1952年2月23日生まれの彼女は、列記とした64歳である。列記しなくても64歳に変わりないが…。
人がなぜ結婚しないかなど、想像する方がどうかであり、余計なお世話。そんなこと分かるはずがない。まあ、分らないから想像するのだが、本人が心中を喋るはずもないなら、想像するのは人間が考える動物として許されることか。いかなる人間も考える葦である。中島みゆきの恋の噂はほとんど耳にしないが、唯一あったのはデビュー直後で、相手は松山千春だった。
デビュー直後の千春はアルにはあったが、ズラに頼らずツルピカにしたのも自然派である
ハゲる前の千春はまあ、カッコ良かった。同じ北海道出身であり、みゆきが千春に恋心を抱くのは無理からぬこと。しかし、言葉を選ばないのが信条の千春はこう述べている。「デビューしてから数年後に、俺と中島みゆきとの噂があって、あれには背筋がゾーッとした。嫌いじゃないよ、でもタイプじゃない」。背筋がゾーッとだなんて、千春も言うね~。
そしてこのように結んでいる。「あの時みゆきと一緒になってたらよ、(今頃)あいつのマネジャーやってただろうな。ヒモみたいな生活してた…」。これは何となく意味が分かる。ヒモというのは男冥利といわれるが、尽くす女だからやれること。千春はみゆきを一途で尽くす女と見る反面、彼女を玉座に据えて、使いッパシリの憂き目に合う、強い女と見ている。
巷いわれている彼女の結婚しない理由として、①学生時代に亡くなった彼氏がトラウマになっている。②不倫関係のプロデューサーとずっと同棲している。③同性愛者である。④仕事と家事を器用にこなせない。などが風評として出回っているが、いずれも確信はもてない。当たり前だ。人が結婚しない理由などの想像の確信が持てるのがどうかしている。
自分の考えとして言うなら、結婚していない女は二種類いる。結婚をしたいができない女。結婚に人生観を宿さない女。前者を「結婚できない女」、後者を「結婚しない女」といっていい。後者にはさらに二種類あって、「結婚したいが意に添う相手、もしくは自分のメガネに敵う男がいない」。「まったく結婚する意思(意欲)がない」。これについては次回…
売れる前のみゆき嬢は、○○イクというより、どこにでもある庶民的な顔で、ユーミンとは違った