舛添知事がようやく辞職を決めた。あらゆる手をつくしてみたが、どれも巧を奏さなかった。将棋を指していても同じような局面に出会う事は多い。どうやっても逆転しない勝ち目のない将棋を、身も蓋もなく指し継ぐ人はいるが、それを「頭金がのるまで」と肯定する格言がある。何が起こるか分らないのだから、最後の一手まで諦めないで指すこと。
そういう教えである。かと思えば早めに投了する棋士は、、「無駄に指し継いでも棋譜を汚すだけ」という。言葉を変えていえば、「最後まで諦めない」というのと、「引き際の美学」の対決となる。さて、どちらが正しいのか?いかなる賢者に問えど、この世を支配する神に問えど、答えは出ないだろう。よく引き合いに出されるのは、「二つに分かれた道」である。
長い一本道を歩いてきた。それが急に二本に別れている。人は立ち止まり、どちらに進むべきかを迷う。迷う理由は、片方に必ず「幸」があり、片方に「不幸」があると思うからだ。二つの道には「幸」「不幸」はない、どちらに進んだところで「幸」、「不幸」を作るのは自分なのだ。という風に思うとしたら、迷う意味がないのが判る。
どっちに行こうが、どっちを選ぼうが、どう転んだところで這い上がればそれでいい。所詮、人生などはイバラの道と心をくくっている人を「強い人」といえなくないか?その逆に「弱い人」というのは、あらかじめ道が決まっていると考える人ではないか?二つの道のどちらかに「幸福」があるはずだと思う人。あると思えば「ある」、ないと思えば「ない」。
物事は見方、感じ方でどのようにも転ぶ。将棋に限らずどの道そうしたものだろう。「最後まで諦めない」も「引き際は清く」も、生き方の選択であって、どちらが正しいというのではない。そのように思えば、他人の生き方に口を挟むこともなくなる。ということなら、「他人の生き方に口を挟む」のは悪いことなのか?と聞こえるが、自分はそうは思わない。
もし、他人のことに口を挟まないなら、自分のことに口を挟むのか?自分の行為・行動に「口を挟む」とは言わない。親は子に、子は親に、教師は生徒に、生徒は教師に、夫婦は片割れに、師は弟子に、友人は友人に…、自分以外は他人であり、他人に口を挟むのは世の習わしとしたものだ。「口を挟む」は別の言い方で「意見を言う」である。
なぜ意見をいうのか?また、なぜ他人は自分に意見をいうのか?「他人は自分でないし、自分は他人でないから」である。つまり、自分と他人は考え方が違うから、他人を見て違和感を持つからだ。ちょっとした作業でも仕事でも、A地点からB地点に物を移動させるにしても、いろいろ方法がある。他人の行いを見て、「こうした方がいいのに」は親切である。
「なるほど。確かにそのやり方がいいね」と、喜ばれることもある。かと思えば、「いらぬ口出しは余計なお世話。自分はこのやり方でいいと思ってる」と、これは親切が仇ということ。さて、どちらがいいのか?これとていかなる賢者といえども、「正しい」を決められない。全能の神とて同じこと。そういう風に突きつめていくと、神が絶対に正しいとは思えなくなる。
つまり、自分の行為の正誤を知ろうと神に問うなどは無意味で答えてくれるハズもない。何かを行う場合の、「祈り」というのは、神の加護を期待してのことである。道が二つに分かれていて、どちらに行けばいいのかを神に問うのではなく、こちらを選んだ自分にどうか「幸」あれと祈るわけだ。「祈り」とはそうしたものであろうと、「祈った」ことのない自分の想像だ。
宗教に無縁の自分は、「祈り」と神についての素養はないが、「祈り」と神についての象徴的な場面を思い出すのがプッチーニのオペラ『トスカ』である。祈りを神に裏切られる物語は、他にも様々あるが、『トスカ』の悲劇は筆舌に尽くしがたい。トスカの恋人は捕らえられ、死刑宣告を受けた。あくどい警視総監は助命懇願するトスカに、ある条件を突きつける。
ある条件とは「やらせろ!」である。汚い言葉だが、汚い行為に相応しい言葉としていった。劇中ではもっと奇麗な言葉で言うのだが…。敬虔なクリスチャンであるトスカにとって、これほど無慈悲な言葉はない。しかし、それを受け入れなければ恋人は銃殺され、受け入れれな助命するという。トスカは苦しみのさなか、心中を神に訴え、嘆き、絶叫する。
最近あまり見ないし、やらないが、「究極の選択」というお遊びがある。「ウンコ味のカレーと、カレー味のウンコ、どっちを食べる?」みたいな…。『トスカ』のこの場面は自分にとって究極の場面である。「何がいい」、「どうすればいい」などと、1000日考えても答えの出る問題ではないし、ようは選択だ。世の中に起こる、難しい、あらゆることのほとんどは選択であろう。
「自分はどうする」というのが答えである。が、「どうする」の答えが間違ったと後になって思う。誰も最初から間違った選択はしないものだ。「これは間違いと思うがやろうと思う」という言い方をする人間がいる。何事も間違いかどうかはやってみなければわからないが、先にそういう言い方をするのは、結果に対する言い訳、もしくは自信の無さである。
自身の罪や落ち度に由来する非難を免れる名目のことを「免罪符」という。それを自らに申し付けているに過ぎない。「免罪符」とは「贖宥状(しょくゆうじょう)」のことで、16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。これが「罰を許す」という通俗的な意味で使われるようになった。が、あくまで罰を許すで、罪を許すのではない。
カトリック神学では、罪とその結果である罰とが区別され、前者は改悛によって赦されるが、後者は罪が赦された後も、罪の赦しを前提に何らかの善業によってしか相殺されない。したがって、カトリック教会が善行(献金など)を代償として、信徒に与えた免罪符(一時的罪に対する罰の免除証書)は、中世末期、教会の財源増収のため乱発された。
1517年、聖ピエトロ大聖堂建築のための贖宥(しょくゆう)に対し、ルターがこれに真向批判した。そのことが宗教改革の原動力となった。「カネ持って来い」宗教は世にうじゃうじゃある。が、教祖らしきは決まっていう。「信者の自主的なもので、強制はしていない」。権威にすがるものは権威にひれ伏し、自らを縛っている権威が、それ即ち暗黙の強制であることに気づかない。
宗教批判は染まらぬものの批判であって、信者に対する批判ではない。人が自分のカネをどこにどう使おうが、それはご自由にだ。こういう場合の「口を挟む」は、自らの心にであって、口を挟むほどに自らの批判を増す。批判はまた行為につながり、行為なき批判はただの悪口である。自分がしたくない事への批判、批判はそのためにすべきものだ。
「沈黙は金、雄弁は銀」という諺について、誰が考えても銀より金の価値が高い。したがって、「沈黙」が「雄弁」より高いことになる。と、思いきや、これは外国産の諺であって、この諺ができた時代は、自然銀は少なく、生成が難しかく、金より銀の方が価値が高かった。よって、「沈黙」より「雄弁」が勝る。が、「言わぬが花」同様に日本では間違った解釈となる。
「言わぬが花」という諺について、他人のことをあれこれ言わぬ方が人間関係を上手くやれると解釈する者は多い。まったく意味の吐き違えで、「言わぬが花」とは、口に出していうより、言わぬ方が「趣きがある」としたもの。100万円の腕時計を、「税込み108万したんだぜ」というより、黙ってさりげなくつけている人間の方が趣きがある、ということ。
贅沢品、高級品を自分のステータス、心の満足で持つ人は真のセレブだろうが、人に見せびらかせるために持つ人を庶民という。舛添は「セコイ」のオンパレードで「晩節を汚す」ことになった。外国の英字新聞にも「sekoi」という文字が使われた。世界的な成功者であり、世紀の大資産家でもあった、ジョブズやゲイツは高級品を身につけない。
金銀じゃらじゃらも身につけない。金を身につけなくとも光、輝いているからであろう。「王座の上にあっても、木の葉の屋根に住んでも、その本質において人間は同じ」という言葉に合致する。金銀財宝を見せびらかす人間は、それで自分はお金持ちと言いたいのだろうが、本当のお金持ちはそんな小物はいつでも買える。買うのがら面倒くさいだけだ。
「人格」という言葉を英語で「personality」というが、これはラテン語のお面を意味する「persona」から来ている。「お面」はいうまでもない、劇の道具である。老人の面をかぶれば、若者でも老人になれる。したがって「お面」は、役割、配役との意味も持つ。さらに個人を英語で「individual」といい、「分けられないもの、代用できないもの」の意味。
シェークスピアは、「世界は一つの劇場である」言った。つまり、人格・個人とは、世界と言う劇場で、他の者では代用できない独自の役割・配役を持つものという意味である。世界は広いが、自分と言う人間は、唯一無比の個人である。たとえ極少でも自分と言う役割はあるはずだ。自分に自信を持ち、他人も大切にすれば、それも自分の役割であろう。
悪党は殻を被るから悪党になる。殻を脱いだ悪党もいるが、殻を脱いで悪党やっても得るものはない。だから自然に、悪党から遠ざかる。舛添知事は、自分が悪党であることを必死で隠そうとした。故に傍からみると悪党に映る。彼は劣等感の塊であろう。自分と直面するのが怖い人間に思える。自分が感じているように感じるのは、弱い人間にはできない。
人を土台にして自分がのし上がることだけを考えるような、そんな人間であるのは、彼の周辺から聞こえてくる。ビートたけしもそんな風にいっていたし、元妻片山さつきも、「彼は大蔵官僚であるわたしの肩書きが欲しかった(自慢したかった)だけ」とまで言い捨てた。まあいい、すべては終ったことだ。我々は舛添劇場という三文芝居を観たに過ぎない。
彼がこれほど惨めなバカであったかを知ることになったに過ぎない。それは知る必要もなかったし、知りたいことでもなかったが、彼が分相応の自分を目論んだことで、勝手に彼がそういう自分をさらけ出したのだ。憐れな王様乞食として、矢も尽き刀折れて去っていく今の彼の背中に、惻隠の情を贈りたい。分からせるために叩く必要はあったが、目的を果たせば無用だ。
まだ67歳だろう?つまらん如きで世間から嘲笑されてしまった舛添要一。彼のシンパでもあった田原総一郎は、「彼はテレビで台頭し、テレビで潰された人間」と評した。内田裕也は、「舛添はロックじゃね~、フォークソングだ!」と言った。おそらく織田哲郎のバンド、「TOUGH BANANA」の、作詞家舛添のことをいっているのだろう。