高校の頃に気の合う友人がいた。気の合う部分というのは、自分らは何かにつけて、「遊び心」気質を持っていたことである。遊び好きの二人は、あらゆるところで遊びを楽しんだし、彼との遊びは知的遊びが主で、互いの知識をひけらかしあうことで、やりかたは、「しりとり」がメインだった。しりとりといっても、りんご~ゴマ~マメ、としたものではない。
「ことわざしりとり」、「地名しりとり」、「人名しりとり」、「熟語しりとり」などなど、これが結構楽しかった。「しりとり」の基本というのは、最後の文字(しり)を取るので、「しりとり」だが、範囲が限られているし、高校生なのでそんなに、「ジャンル博識」でもないし、最後の文字より3つ前までO.Kにした。そんな彼に負けたくないし、家で辞典片手に予習もしていた。
「小倉百人一首」なども、「あ」から順番に覚えたりした。暗記を自らに強いるではなく、覚えよう、覚えなくちゃという強迫観念もなく、覚えてるほうが、「得だ」くらいの気持ちである。予習が勉強であるとか、必須であるとかでないゆえに、それらを知識と呼ぶなら、楽しみながら蓄えられたものだ。これを、「学びながら遊ぶ、遊びながら学ぶ」というのであろう。
「学び」は遊び感覚でやる、「遊び」はまた、真摯に・真面目にやる、という相乗効果である。そんなこんなで、「ことわざ」や、「熟語」やらを目くじらたてて覚えるというのではなく、所詮知識遊びであるからして、意味をかみしめながら、「知ろう」の意識が強かった。いや、知識という感覚よりも、どちらが、「ものしり博士」であるか、という気持ちだったのでは…
彼とのお遊びは、やはりNHKの子ども番組、「ものしり博士」の影響だろう。偉大なるものしり博士ことケペル先生は番組の冒頭で、「何でも考え、カンでも知って、何でもカンでもやってみよう」と訴えるのだが、科学や歴史その他、日常の様々な疑問にいたるまで、子そもに分かりやすく解説する、まさにテレビ百科事典とも言うべき教養番組であった。
好奇心はあらゆる生物の子どもに備わる特徴だが、ヒトの子どもほど好奇心の発達した生物はいないとされる。「こどもは、謎やむずかしくて混み入ったバカげたことが大好きだ。なぜなら、奇妙でとらえにくいものは何でも、あらゆることに先がける興味深い教えとして、人の本性を魅きつけ、引き込んでしまうのだから」と、これはブルタルコスの言葉。
自分のまわりのあらゆることに興味を持ち、詮索、探検しようとするその特徴は、あらゆることへの実際的な先駆けとしてつながっていく。同じようにプラトンは、すべての若い生物が"飛躍"しようとするとことに、「真の遊び心」を見出した。それというのも、遊びにはいつも驚くような要素があるからだ。男の子のイタズラを制止しないように、と言った。
「イタズラ」って悪い言葉、ネガティブなイメージがある。「24歳の配管工が、5歳の幼女にイタズラをして逮捕」、「中学の教頭が中学生の少女にイタズラ…」。これが何を意味するかは誰でも分かるし、これもイタズラである。イタズラを奨励するなら、良いイタズラと悪いイタズラがあるということになるが、何がよくて、何が悪いのかは子どもに関わる親の判断による。
自分が言いたいのは、すべてのイタズラが「悪」ではないということ。すべてのイタズラを親から小うるさく禁じられ、守るその子は果たしてどんな子どもになるのだろう。世間には、「イタズラ遊び」といって、許容されたイタズラもある。いろいろ思いつくが、『子どもの遊びポータルサイト ミックスじゅーちゅ』の中に、「イタズラ遊び」のあれこれが載っている。
子どもなら誰でも、たいがいやったことのある懐かしい、「イタズラ遊び」がある。いずれも他愛のないものだが、ワンパクな男の子となるとこんな程度ではすまない。自分がやったから、ということもあってか、それでも奨励したいのは、「ダメ」ということをやるのが男の子の本質だと思うからだ。ダメといわれたことを多くの女の子は素直に従うようだ。
もちろん、従う男の子もいる。が、ダメと言われたら、なぜダメなのかを、「知ろう」、「確かめよう」とする男の子もいるし、女の子もいるハズだ。「ダメなものはダメ」という言葉は旧社会党委員長土井たか子の常套句と言われた。揶揄も含めてであるが、「なぜダメなのか?」を論理的に説明せず、「ダメなものはダメ」は、女言葉だろう。男の世界では通用しない。
が、そういうおたかさんだった。イタズラをした子どもを制止・禁止するときに、「ダメなものはダメ」という母親がいる。児童心理学的にいえば、「ダメなものはダメ」が通用するのはせいぜい10歳くらいまでといわれる。「人を傷つけてはいけない」。「人の物を盗ってはいけない」。「人に迷惑をかけてはいけない」。これらを観念として諭すのも一理ある。
が、自分はダメな理由を噛み砕いて諭すのを好んだ。その理由は、10歳前の自分が「ダメなものはダメ」では納得しなかったからだ。「戦争はダメ」それを観念的価値と刷り込むのはいいとしても、子どもに分かる理由を提示するのは悪い事ではないだろう。頭の悪い子には念仏だといっても、早いうちから考えさせる訓練はしないより、した方がいい。
ケペル先生の言う、「何でも考え、カンでも知って、何でもカンでもやってみよう」は子どものバイブルではないだろうか。ところが、逆もまた真なりで、「ダメなものはダメ」と言った方が、むしろ考える子になる。という考え方もあるが、方法は人の性格によって変わり、唯一絶対という「法則」はない。自分は、「ダメなものはダメ」の恩恵を受けたのかも知れない。
学問というのは体系である。これが絶対というより、こうするのがベターというのが体系である。個々別々の認識を、一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体を体系というなら、例外は間違いであるという指摘も間違い。イチローが従来のバッティング理論を覆したように、既成のものを正しいと妄信しない彼の反骨精神がもたらせたものでもある。
一般的に、女性を保守的とするなら、男は革新的であろう。であるがゆえに、「責任感」という文字がのしかかる。好き勝手をして責任を取らない男はただのクズである。いくら男は革新的、反骨的であっても、責任は取らせるべきかと。行き詰って、「どうしよう、どうしよう」とうろたえ、泣いていいのは女であって、男がそうではダメだと我々は学んだ。
人から、書物から、映画や、紙芝居から、男の何たるかを学んだ。「泣くんじゃない!男の子は泣いちゃダメ!」というのは、感情を押し込めてこそ男の子という試練でもあった。昨日、舛添知事が泣いたと言う。あの男は自分のために泣いたのだろう。都民や他人のために涙を流すような情緒を持った男ではない。泣いた理由が笑止千万の手前味噌。
「自分の子どもがマスコミに追いかけられ、泣きながら帰ってくる。殺害予告までされている。子どものことを考えれば辞めたいと思っているが、都政を混乱させるわけにはいかない。だから続けている」などと、よくもまあ、こんな言葉まで弄し、そうまでして知事職に留まろうとするものかと呆れを越える。利用できるものは何でも、たとえ子どもまでも、というクズ人間。
辞職をかたくなに拒む舛添氏について、局長級の都幹部の一人は、「知事は自分が置かれた状況が分かっていない。『なんで僕だけこんなにいじめられるんだ』って思ってるんじゃないか」と言ったとされるが、的確な状況判断ができないという完全なるバカである。そんな人が日本の首都の長において置く訳にはいかないのはまさに自明の理。
ここまで羞恥の人間というのは近年居なかったろうし、その意味で彼は人間としての異常性を感じる。物事の見極めがつかない人間は、社会や近隣でも迷惑千万であるが、バカならたしなめることはできても、「クズ」はゴミ箱に捨てるしか処置がない。彼の涙は、今までの彼の都民を舐めた態度からして、反感を増幅させるだけ、という事すら分らない。
常識が通じない人間のサンプルというしかない。これで政治家のはしくれというなら、自公もつまらん人を担いだものだ。つまらん人間と判明した以上、つまらん人間の言い分、言い訳、懇願など聞いてはダメだ。つまらん人間の特筆すべきは、自分のことだけに没頭するし、それを隠すために、余のため、民のためという言葉をしきりに用いる。
いかにダメ知事といえども、「五分の魂」をもった人間である。折角、腹を切らせてやろうという、「情け」を各方面が提示したにも関わらず拒否する彼の根底にあるのは返報感情であろう。ならば三条河原に引き連れて斬首するしかあるまい。都民のためという大嘘は、自分の意見を聞いてくれなかった恨みから、都議会を解散に持ち込むことで証明できる。
辞職なら知事選のみの50億で済むところ、都議会選挙50億の計100億となる。往生際の悪さ+恨みつらみ感情の強さ、甚だしき自己愛に蹂躙された人間の醜態を見ることになるのか。「愛」という情緒の欠片もない人間が、他人の説得で殊勝な態度を示すと思わないが、議会解散を強行するなら、彼の汚名は末代まで。最後くらいバカを止めてほしい。