「暴走老人」なる言葉を編み出した田中眞紀子は紛れもない、「暴走老婆」だったが、「あなたも暴走老婆じゃないの?」と、石原は返さなかった。小説家の彼はボキャも多く所有しているが、石原は、「暴走老人」という語句が気に言ってるように感じた。本来「暴走」は若気の至りを揶揄する言葉だが、老人の、「暴走」は元気がいいと聞こえ、石原もご満悦だったのでは?
『関白宣言』という歌がある。懐かしいがあれほどキモチわるいと思った曲は無い。理由はさだまさし。男の願望がギッシリ詰め込まれた詞を、ニヤケ顔で歌うさだがキモチわり~。亭主関白を続けた夫が最後に、「いい人生だった」と妻に感謝するという慎ましやかなオチが羞恥心の元凶。亭主関白は男の願望などでなく、文字通り男の責任感である。
さだまさしがテレビでアレを歌おうものなら、速攻チャンネルを変えていた。女性の言葉に、「生理的にダメ」と言うのがあるが、その手の人間が現在3人いる(た)。出演番組を見ない、速攻チャンネル変えの一人はテレビから姿を消した「ジャパネットたかた」の高田社長。それと、「今でしょ」の林修。あのひょっとこ顔がダメ。もう一人はマツコデラックス。
この3人が、「生理的にダメ」。高田社長は裏返った声に脳髄を犯される。女性でダメがベッキー。不倫騒動でなく顔がダメ。大方のものは受け入れたいが、受け入れられないものあってこそ人間。ニーチェは著書、『人間的、あまりに人間的』の序文でこう述べる。「私はかつて、必要に迫られて、自分のために、"自由精神たち"をも発明したのである。
彼らに、『人間的、あまりに人間的』という標題をもった重苦しくも勇敢なこの書が捧げられている、かかる"自由精神たち"は、存在しないし、してもいなかった」。などとニーチェは、もっとも悪しきものの弁護者を演じることを自らに唆し、自らを励まし、本を著した。彼の著作というのは、疑惑、侮蔑、勇気がほとばしる、まさに大胆不敵な学校である。
知事や市長の言葉を捨てた橋下徹も、善悪の相対性を論理的に述べる人だ。安易に多数派に属さない姿勢がいい。「よからぬもの」のただ中で上機嫌でいるためには、ニーチェのいう自由精神たちを伴侶とする必要がある。『人間的、あまりに人間的』の副題は、「自由精神のための書」とあり、真の自由とは、「道徳」に対する嫌悪や不信の念さえない状態である。
「己の精神を自由にするために、己の感情を縛りつける」というのではなく、「己とは精神であって、感情は己ではない」という考えが前提になっている。したがって、「感情に振り回される」ということ自体がそもそもおかしく、そのとき既に己の感情を、己から切り離してしまっていることになる。つまり、切り離すからこそ、「振り回される」ことになるのだろう。
誰にでもある自分の中の気に入らない自分、あるいは理想的でない自分、をそれら「理想とする自分」から切り離し、「感情に振り回されている」と正当化することで、「振り回される自分・理想的でない自分」を温存させるならば、自分を変えることなどできない。感情を縛りつけ、抑え込んだとしても、縛りつけられ抑え込まれているのも自分自身であるからだ。
斯くの、「理想的な精神」に自由などない。理想的なところに自由を求めるのではなく、なにより自由であることに気づくことこそ真の自由である。己が一つであれば、自分が自分に振り回されたり、自分が自分に何かを強要したりすることは起こり得ない。一時的に感情的になることがあっても、自分は一貫して自分自身であり、すぐに自分に素直になる。
自分の中で自己分裂をきたさないことが大前提。己を縛ったり、抑制したりの作為を排除した自由な自分。我慢をして何か(悪)をしないのではなく、よく思われたいから何か(善)をするではなく、そういう理想的な自分を求めず、真に自由精神から理想とする自分になる。外から眺めた自分を排し、徹底的に内側から眺めた自分こそ自由精神である。
人から嫌われる、人から好まれるなどに一喜一憂しないのを自由精神とするなら、これが自分の目指す自分のあり方。橋下徹も自由な精神の所有者だ。彼は誰に対して物怖じしない。テレビ番組ではその構成上やり過ぎ感はあるが、その辺を差っ引いて彼の本心を覗いてみる。彼を嫌う人に一貫して感じるのは、人受けを好むお行儀のよい偽善者か。
『五体不満足』の乙武氏はあの一件後、「自分は善人を演じすぎた」と言ったが、彼が心を許せる一部の知人にはエロ男で有名だった。よって不倫が公になった際、彼の本質を知る人間は驚かなかったという。障害者だから人間的に立派とは思わぬが、障害と言うハンデを乗り越えて生きる人を、立派とみるのは無意識の差別意識かも知れない。
その期待に答えるべく彼は自分を偽った。真の自分を晒したい意識はあっても、障害者ビジネスで生計を立てる以上、世間を裏切るような言動は表向きにはできなかった。「善人を演じる不幸」といえば分かり易く、善人をメシの種にしたことによるの苦悩と察する。たとえ「清純派女優」という看板であっても、ファンは清純女優に夢を抱く。
アイドルという架空の実体に抑圧されながらも、ファンの期待に応えて抑制したアイドルをプロ意識という。プロスポーツ選手が、自身の成績ばかりでなく、ファンの期待に応えて節制し、努力・研鑽するのをプロ意識というように、プロとアマチュアを分かつ顕著なものがそうであっても、近年のアイドル不祥事の多さを責めるのは間違い。
AKB48を創った秋元康が、「彼女らの魅力は未完成であること」と言うなら、それを受け入れるのがファンである。プロとしての教育をされない彼女らにプロの自覚が備わるはずがない。それに加えて、今の時代は横断的な生き方が許される時代でもある。銀幕のスターや英雄的な企業人といえど、普通の人間であるという、カリスマ性は消失した。
かつてカリスマといわれた人たちが、彼らを仰いだ人を裏切ったことはさまざまにあった。企業の不祥事や経営危機はトップの責任であり、企業内の混乱もリーダーの責任でだが、未完成アイドルであると公言して売りだす主宰者も、彼女らの不祥事の責任をとらなくていい。なんとも都合のいい論理であり、不祥事を見越した姑息な防衛策であろう。
素人に好き勝手やらせて、何か不祥事があったら、彼女らの責任としてクビにすればいい、主宰者に責任はなく、カメラの前で謝罪をする必要はさらさらない。教育もされず、自覚もない危なっかしい素人の自制心のみに委ねたやり方を考えた秋元が頭がいいことになり、そんな策略にまんまと利用される若者たちは、必死に彼女らのケツを追っかける。
老人の若者批判は永遠の図式なら、アイドルに依存する彼らを哀れとの同情も批判に違いない。異性は床の間に飾って眺めてないで、適切な言葉ではないが、手に取り足に取って使ってみろである。会話もし、行き来もし、デートも楽しいハズ。半熟卵にアイドルの偶像を抱き、握手券を買って手を握ることでアイドルを身近に感じるようだが、周囲に女はいるだろ?
素人アイドル量産の時代は、彼女らにすがる若い男を益々腑抜けにし、ダメにしていくように感じる。秋元はそれでうはうは金万になり、目の前の女を口説けない若者が素人アイドルに入れ込んでいく姿を腑に落ちない思いでいる。彼女らの総選挙CDを大量に買うなら、そこいらの女を彼女にし、アジの開き定食でもご馳走すればアシも開こうに…
暴走老人について頭を巡らせ、アレコレ書いているうちに若者の、それも男が女を刺したり、殺したりが多い昨今である。男が女を刺し殺すというのは、それ自体男が女よりも弱くなったということだ。かつて女に刺された男は多いが、刃物を使うのは女が非力だからで、男は女を殴り、蹴り、踏んづけ、投げ飛ばせばいいだろうに、何で刃物なんだ?
今の男はそれだけ非力になったということ。同僚予備校生を背後から襲って殺したという事件が福岡であったが、背後から切りつけるなど、あってはならない卑怯である。侍の時代は、「だまし討ち」と非難されたが、有効性があることから暗殺に用いられた。あくまで武士の時代。彼氏が彼女を暗殺などの言葉はないが、「背後から抱きしめる」は、大いにやってよし。
コミュニケーション不足、兄弟喧嘩なしで育った若者は、少子化時代の申し子といえる。かつて貧乏な時代、子どもの数は多かった。今は貧乏=少子化ではなく、子育てにカネがかかる、だから少なく産んで大事に育てる時代。大事に育てるから男が脆弱になるのと、男が女を刺す関連は不明だが、男の子を逞しく育てられない時代であるのは事実だ。
少子化と高齢をくっつけて、少子高齢化時代という。男が女を刺す事件と同様に、高齢者の犯罪が目立つ昨今だ。おじいちゃん、おばあちゃんはいい人、子どもの頃に抱いた思いは幻想になりつつある。少子高齢化や核家族化を背景に、地域社会や家族・親族から孤立する独居の高齢者が増えている現状。その事と高齢者犯罪の因果関係はあるようだ。
「(高齢者が)何らかの理由で不満を抱え、はけ口を見つけられないまま、犯罪行為で解消する」という。犯罪抑止には、独居高齢者が抱える不満をくみ取り、解消することが必要となる。「健康面や経済面などの問題をかかえる独居高齢者を、コミュニティーに参加させ、社会との接点を見いだすことが犯罪防止にもつながる」との指摘されている。