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記事とは…

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はて、ブログの記事とは作文なのか?論文なのか?はた、一般的に、「記事」というが、記事というなら記事とは何なのか?子どもの作文について、①言うべきことを持つこと。②言うに価すること。③適切に表現する能力を持つこと。この3つが、生きた文章を書くポイントとなる。なるほど、言われてみると、①が肥大し、③が欠如し、②に価しない文もある。

ブログの文を記事というなら、記事とは、「現象・存在・状況などを文字からなる単語を組み合わせ、文章で表した事物を、伝えるための文章」とある。新聞記事、雑誌記事はそういうことだ。それでは作文とは?「ある情報を伝達することを目的として、文章を秩序立てて作製する行為。人間の言語活動の中でも特に論理性や構造性が最も問われるもの」。

論文とは?「学問の研究成果などのあるテーマについて論理的な手法で書き記した文章」。というが、ならば小論文はそうともいえない。小論文とは、「特定の研究成果についての記述ではなく、あるテーマについて論述する論文の一つの形式」とある。なるほど納得だが、作文は、感想でも自論でも何でも良いが、小論文は論理的になってなければならない。

つまり作文より高度な要件・技法がいる。したがって、小中学生は、「作文」でよいが、高校・大学生なら、「論文」に進化すべきであろう。さらに論文は、「ある意見に対して自分の判断を下し、その判断がなぜ正しいのかを根拠を挙げて述べる文章」ともいえる。ありがちなのは作文では、「ボクは××よりも○○が正しいと思います」でいいが、論文でそれはダメだ。

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「自分がそう思うんだからいいでしょう?」という女性がいる。男にもいるが男はそれでは通用しないと知っている。女性同士の会話では、「私はそう思うからいいの!」で突っ込むと嫌われるが、男は、「何でそう思うんだ?」は必然で、「オレがそう思うんだからいいだろう?」では相手にされない。根拠(理性)を示せとになるが、女性は感情の発露で済ませられる。

女性が女性の意見に対し、「何で?」、「どうして?」、「根拠は?」などと突っ込むと、間違いなく嫌われる。共感型女性関係にあっては、「そうね、あたしもそう思う」などと同意していれば仲良しこよしとなる。女の子同士の言葉、「仲良しこよし」の「こよし」とは、「小良し」でなく「小好し」と書く。どういう意味かというと広辞苑には、「小」のひとつお意味に、「語調を整える」とある。

「夕焼けこやけ」と同じ接頭語で、「仲良し小好し」は単に語呂合わせ、あるいは、「仲良し」を調子よくいったものであるらしい。「うちら仲良しこよしじゃけんね~」などの言い方をする。「粋な」を「こいきな」、「憎らしい」を「こにくらしい」、「しゃくな」を「こしゃくな」、「小耳を傾ける」、「小腹がすいた」などなど、幹語のニュアンスを弱める使い方もある。

調べるとオモシロイが、日本語も英語も文法に拘ると結構むつかしい。中高6年間も英語を習ってもほとんど喋れないのは、会話主体より文法主体だからであろう。動詞や助詞、現在完了、過去完了、感嘆文、などの意味より喋るに勝るものはない。自分は、「夕焼けこやけ」の、「こやけ」はちょっと夕焼け、「こよし」はちょっと仲良しの意味と解するスタンスである。

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どちらにしても男が、「俺たち仲良しこよし!」とは言わない、「女言葉」であろう。そもそも男同士にあって、「仲良し」という言葉が使われることはないし、使った記憶もない。女の子同士の世界観は男に謎だが、とかくトラブルがつきまといがちな女友達関係とは無縁というある外国の有名人女性が、「女友達とずっと仲良しでいたいなら…」と、その秘訣を述べている。

 その1♡ 忙しくても、友達との時間を大切にね。
 その2♡ 友達が失恋したら、そばにいてあげて。
 その3♡ 一緒に成長してこそ友達ってものよ。
 その4♡ 誕生日は必ずお祝いして!
 その5♡ シンプルなことを一緒に楽しんで!

読んで思ったことは、「こんなんやってられん!」である。これほどまでして(男同士)仲良くする必要があるとも思えんし、上のことを率先して無理なくやれる女性というのが驚異に思えてしまう。それほどに男の基本は、「自由奔放」である。自分に無理せず、相手にも媚びず、それで関係が続けばいいし、そんな事までして、「ずっと仲良し」でいるなど自慢にもならない。

誇りにも思えない。というのは自分や、自分の知る男観だが、こういう事をやる男がいるならそれはそれで人の選択だ。が、同じように望まれるなら結構である。まあ、人にされて自分がしないのもどうかと思うし、面倒くさいプレゼント交換なんかどっちもしないのがいいに決まっている。欲しいもの、買いたいものは自分で買うし、貰って嬉しくない物はいらない。

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どうやら女性は貰うこと、その行為が嬉しいらしく、男とは本質的に異なる動物のようだ。だからか、上に記したように、「欲しい物は(人に貰うより)自分のお金で買ってこそ嬉しい」傾向の強い自分は、自分にあったように生きたいし、自分にあったように相手にも望みたいし、ゼニカネの介在もない、煩わしさのない関係を望むから、無理したくない事は最初に言う。

妻や恋人の誕生日を忘れて責められる男はいるが、おそらく最初から無理をしていたのだろう。責められてするのもどうかと思う(責める側も同じ)が、そういう人間関係は望まない。善悪というより自分に無理な生き方をしない、自分に合った生き方というチョイスである。本当に無理してくたびれるよりは、自分と言う人間を知り、知り尽くしておくのが楽な生き方になる。

服を着てめかすというのも、ある意味社会の制約であり、誰もが家の中ではめかさずフランクでいる。できるだけ世の中の制約は少ないほうがいいに決まっている。ストレス軽減を模索すればそのようになるし、ストレス軽減の人体への影響は計り知れない。ガンもストレス、胃潰瘍や便秘もストレス、総じてこの世はストレス社会であり、クライシスが体を精神を蝕む。

「産後クライシス」、「介護クライシス」、「ミッドライフ・クライシス」、「老年クライシス」などの言い方もあり、いわゆる、「五月病」は新社会人のクライシス、「中二病」は思春期のクライシスである。「ミッドライフ・クライシス」とは、カナダの精神分析学者エリオット・ジャックが命名した中年期の思春期で、キアヌ・リーヴスも悩まされるなど、欧米では社会問題として認知されている。

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中年の危機の始まりは大体45歳頃といわれ、その後1年3か月ほど続くという。今まで価値があったものに価値を見いだせなくなったり、今までの生き方に関心を失い始める、といった形でその危機が訪れる。誰もが人生という作品を、「つくり出す」なら、言うなれば人生という創作活動のなかで、「創造の病」にかかる可能性は高くなる。それをどう処理するか?

避けられるものならいかに回避するか?というようなことを無意識のままに書いている自分である。なぜ書くのか?ひとえに問題意識であろう。世間に横たわる様々な問題を自然にピックアップし、自らに問いかけ、思考の末に答えを導くのだが、その答えは正しいのか否かは人によって違うし、気にすることではない。大事なのは、考える時間を持つことだ。

結果を気にするあまり、過程を持たぬのをいいとは思わない。結果は過程の必然といえばそうだから、たとえ答えが導かれなくともそれが結果である。「我思う、故に我あり」ではないが、書くことは思うことの具現化であり、自分の考えを客観的に眺めることでもある。単に思考は空気のように形に残らない。脳の中にストックしておいても、消滅することも多い。

「書くのは残しておくため」というのは二次的要素で、取り合えずは、「今の今」の自分を知ることにある。「自己表現」というが、自分を表現してこそ自ら足り得る。文章は表現活動である。書かれたものなしには、論理も認識も存在しないし、過去および現在についての明瞭な区分も存在しない。対象が現象か本質かを問う、「存在とは何か」という哲学思考もある。

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本質は難しい。我々凡人にとってさらなりだが、多くの人間にとって、直接的に物の本質を直観する能力を果たして人間に与えられているだろうか?現象は本質を開示するために、しきりに自らを現しつづけてくれているが、だからといって本質を見極めるのは能力であろう。その能力を砥ぎ、磨くのも人間の探究心である。人間はまた偏見のかたまりとして育っていく。

物事をありのままに見ることの難しさとは何であろうか?「ありのままに」という言葉が流行ったが、我々は現象として対象であれ、果たして、「ありのまま」に見ることができるのだろうか?具体的と言う手法は、それほどの客観性を期待し得るものだろうか?一人で判ったようなことをいい、一人判ったような気になっている。そんな文章はいくらでもある。

無理に人に伝えるべきとも思わぬが、公に文を書く以上、独善であるべきというのもどうであろうか?人間が現実を認識するのは、人間的現実を形成するためだ。ところが、事物は直接的にその本質を示さないことが多い。世の中で多発する事件なども、報道が本質とは限らないし、裁判結果が本質ともいえない。そこで人間は認識のために推論を行うしかない。

イメージ 7しかるに、正しい認識を得るためには厳密な推論が必要になる。どうやってそういう力を得るのだ?「プロファイリング」という言葉は、映画『羊たちの沈黙』を機に一般的になった。犯罪捜査において、犯罪の性質や特徴から、行動科学的に分析し、犯人の特徴を推論することだが、基本的な構造は、「こういう犯罪の犯人はこういう人間が多い」という統計学である。

よって、霊能師や予言師の予知能力とは異なる科学的推論である。占い師が占いを行う前に、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」というのは正直な言葉で、なにかと気取ったあるいは驕った霊能師は、そういう事はいわない。いわない以上インチキ詐欺師である。したがって、「当たるか当たらないか判りませんよ」という占いにお金を出すのは遊興精神であろう。

それなら許される。事件においての犯行や、犯罪現場で犯人像を推定する作業は、現場の警察官や刑事でも行うが、それら現場の推定が経験や勘によって行われる物であるのに対し、プロファイリングは行動科学的知見を用いると言う点において異なる。が、あえていうなら、プロファイリングというものは、事件を解決するものではないというのが大前提である。

よって、犯罪捜査のテレビドラマや映画にあるような、一人のプロファイラーが犯人を特定し、はたまた逮捕するようなことは絶対にない。個人を特定するのではなく、あくまで確率論的に可能性が高い犯人像を示すものであり、捜査を効率的に進める支援ツールであるがゆえに、当然にしてプロファイルに当てはまらない人間が犯人である事は、何ら珍しくない。


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