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「三つ子の魂百まで」

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金沢市の山道で小学2年の男児(7)が母親に置き去りにされ、石川県警金沢中署が心理的虐待の疑いがあるとして、金沢市児童相談所に通告していたことが4日分かった。置き去りにした20代の母親は、「言うことを聞かず、宿題をしなかったので…」との理由で、5月23日午後6時15分頃、金沢市の山道に隣接市から車で向かい、長男を降ろしてその場を離れたという。

母親は数分後に現場に戻ったが、長男がおらず、午後7時15分ごろ110番した。金沢中署員や消防が山中を捜索し、同9時20分ごろ、現場から数百メートル離れた山中で、しゃがみこむ男児を見つけたが、ケガなどはなかった。これは28日に起こった大和くん置き去りの5日前になるが、どちらもやった事は同じ。どちらもあわてて110番通報をすることになった。

言う事を聞かない子どもに対する折檻という方法は昔からあった。折檻が躾的な効果がある、ないという科学的分析がなされない時代のは、おそらく効果があるとされたのだろう。代表的な方法はお灸と押入れである。どちらも頻繁にされたがいずれも母親にである。父親がそのようなことをするはずが無かった。というのは、父親にはどこか通じるものを感じていた。

「愛されていた」という実感は、さすがに子ども心にはなかったが、敵か味方かと区分すれば父は自分の味方であったようだった。殴る蹴るの折檻が当たり前にされていた頃に、そういうことを一切しない父の存在を、味方と感じるのは当然だろう。これらの行為は今でいうなら虐待といわれるが、当時は「虐待」という言葉もなく、する側もされる側も悪の認識がない。

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お仕置きや折檻は、する側もされる側も当然の時代だった。子どもの頃に観た映画『宮本武蔵』(1961年・東映京都/監督:内田吐夢)で、武蔵が寺の和尚に木の枝に吊るされるが、これは吉川英治原作『宮本武蔵』に実際にある場面だ。状況を説明すると、関ヶ原の戦いに足軽として参加した武蔵が戦いに敗れて故郷に戻るも、敗軍の一兵として追われていた。 

物事が上手く行かないときに「自棄酒(やけざけ)」を煽るが、武蔵も戦に負けた憔悴感と敗残兵として追われる身の苛立ちからか、村で大暴れをしたようだ。大聖寺住職沢庵和尚は、そんな武蔵を見かねて捕縛し、村の千年杉に吊るしたとされる。その後武蔵は、姫路城の天守閣に幽閉され、「野獣」から「人間」として知性に目覚めていくというストーリーである。

内田吐夢監督、中村錦之助主演の『宮本武蔵』は、吉川英治の原作を一年に一作ずつ計五部作を五年かけて製作された超大作であり、興行的にも内容的にも成功を収め、戦後時代劇映画の輝きを象徴するシリーズとなった。賢人や達人はそういった折檻あってこそ、というのが我々子どもにも叩き込まれていたようだ。されるのは嫌だったが、そういうものだとの認識はあった。

いちばん記憶にあって、もっとも恐怖体験として、トラウマになっているのは、「寺に預ける」という言葉だった。事あるごとに言われるので口だけと思っていたら、ある日バタンコ(オート三輪自動車)が家の前に来て、泣き喚きながら無理やり乗せられるシーンは今でも頭に残っている。母親が近所の炭屋の店主に頼んで、わざわざバタンコを要請したのだった。

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自分はされる側だが、その場面を観る側として頭の影像に残っているほどに、戦慄な体験なのだろう。寺になんか預けるハズがない、すべては仕組まれた演出、三文芝居であるが、どうして子どもは恐怖を感じるのだろう?「やれるものならやってみろ!」と、タカをくくって大正解だが、どうして子どもはそう思えないのだろうか?正解は「子どもだからである」。

炭屋のバタンコが家の前に来た時の恐怖は長く(今でも)頭にとどまっている。あの時ばかりは気が狂いそうに泣き叫んだ。当時は子どもを社会全体が成長させたものだが、お灸や押入れや寺に預けるなどの脅しが、どの程度子どもの成長に寄与したのだろう。やってることは今でいう「虐待」と何ら変わりはない。近年は児童相談所全国共通ダイヤルというのがある。

これは近所、近隣が虐待を感知した際に、通報するシステムで、匿名でよい事になっている。近所・近隣が子どもの成長に関わろうとした時代から、近所・近隣が「虐待」を監視しようという時代になった。どちらがいいのだろうか?善悪良否よりも、時代の流れという他ない。子どものしつけ方も時代や社会の変遷によって変わっていくのだろう。昔は昔、今は今である。

武蔵が木に吊るされ立派になったからと、同じ事をやるバカはいない。孔子といえば「仁愛」だが、『論語』には孔子らしからぬ文言もある。「子曰く、唯上知と下愚とは移らず」。これを直訳すると、「とびきりの賢者ととびきりのバカは同じ」というが、「最上の知者と最下の愚者は学習では変わらない」という事で、「ダメな人間はいくら努力してもダメ」という風にも読める。

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王陽明の弟子は同じ疑問を持ち、『論語』のこの一節はどういう意味なのかを質問している。陽明は弟子の問いにきっぱり答えて言った。「先生曰く、是れ移すべからざるにあらず。只だ是れ移る肯ぜざるなり」。これは、「変えることが不可能なのではなく、自身が変わろうとしないからである」。つまり、成長し立派になるかならないかは本人次第と説いた。

なるほど、すべての人がその資格は持っているということ。変わる、変わらないは、変えようとするかしないか、つまり、やるかやらないかである。誰にも能力はあるし、それを引き出すか引き出さないかが大切だ。反対にこうも言える。「朱に交われば赤くなる」というように、どんな立派な人間でも、ある環境に交わると、環境どおりの人間になってしまう。

これを別な角度で思考するなら、赤くなるということは、赤くなる因子をだれもが持っているということ。つまり、我々は良い因子と悪い因子の両方を持っているということ。ならば大事なことは、たえず意識して良い因子を使う努力をすればいいということになる。何も考えず、無意識・無気力で生きていると、当然にして気づいたら「朱に染まって赤く」なっている。

性格形成の一要因は、その人の生い立ち環境が大と科学的に検証されている。とくに三歳までの家庭環境や、両親が子どもにどう向きあったかは、人の一生を左右するくらいのインパクトを持つ。科学の「カ」の字もない時代に、「三つ子の魂百まで」という言葉は、怖ろしく的を得ている。三歳にまで受けた影響は、良いこと悪いこと全て後の人生にまとわりつくという。

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とくに、感覚的、感情的、非論理的、な性格の部分として、脳の中に焼きついてしまう。それにしても何故三つ子なのか?別に、二つ子(2歳)でも、五つ子(5歳)でもいいと思うのだが…。そこでポイントになるのが、まずは物心(ものごころ)。よく親が「うちの子、最近物心がついてきた」などというが、物心とは、世の中のこと、外界や他人の感情を理解する心のこと。

人間が、「なるほど、これはこういうことなんだな」と分かり始める年齢が、ちょうど3歳くらいにあたる。心が成長したから、いろいろなことが理解できるようになった、と考えられるが、もう少し深く思考すると、それまで無意識の活動が中心だった自我が成長し、無意識の壁を破って自我が意識に目覚めたから、いろいろなことが理解できるようになった。

それが物心といっている。物心で自我が無意識の壁を突き破る前…、つまり、3歳以前の子どもは、ほとんどのことを無意識的に行動している。大人でもそう言う行動をする人を「なんだお前は子どもじゃあるまいし、もう少し考えて行動しろよ」などと言ったりする。が、そうした大人の無意識(無思考)と3歳前の子どもの無意識とは、まったく別のものだという。

分かりやすい言葉でいうなら、子どもは「完全なる無意識状態」である。そこが大人の無意識と違うところで、大人の無意識行動というのは、ある程度の年齢からして、それらを意思によってコントロール出来るほどに成熟している。出来るけど、「しない」のと、コントロールできないから、「しない」はまるで違う。大人は、「しない」で子どもは、「できない」と考えていい。

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子どもは完全なる純真無垢。「無垢」とは仏教用語で、煩悩の穢れがなく、清らかなことをいい。一般には、精神や肉体が穢れていない純粋なことを意味する。子どもと接してみるとつくづくわかるし、だから経年の大人が子どもに接して心が洗われるのだ。純粋に自身の中の「快」・「不快」で行動を決められるのが子どもの特権である。つまらないことには見向きもしない。

「つまらないことでもやらなければならない」と感じるのは自我の芽生えた移行である。嫌な相手とでも口を利き、付き合う必要性を理解するのが大人だ。感情は、心の奥(無意識)から湧き出てくるものなので、それ自体、直接コントロールは出来ないし、理性の力を必要とする。よって非理性的な人間は、自分の好き嫌いも行動に反映され易く、固定化され易い。

3歳以前の子どもにはそれがなく、だから親も大人も手に負えない完全無意識行動者である。別の言葉でいえば、「完全無欠の無敵もの」。無欠とは無欠勤ではなく、欠点が無いこと。子どもが無欠なのは即ち無いものを欠点とは言わない。欠点と言う段階に入れば、「有る・無し」という言い方をするが、それ以前にあっては「有る・無し」の問題ではない。

欠点のない人を立派というが、長所・短所が構築される段階以前の3歳児は、何をしても許される特権階級といっていい。高価な花瓶を割ろうが、母親のジェエリーをトイレに流そうが、絶対に怒ってはいけない、怒る意味がない。7歳男児のやんちゃが問題になっているが、5歳児、7歳児でも3歳児のような多少成長は遅いが、高度な感受性を持つ子どもは存在する。

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「決まり」を守ろうとする保守的な女の子に比べて、ノーベル賞や世紀の大発明をするのが男であるように、男は革新的研究心に富む。何かオモシロイことはないか、変わったことはないか、好きあらば寄り道をしよう、好きあらば妻以外の女に言い寄ろうと考える生き物である。それが男の感受性を満たすというのは、スカートめくりのロマニズム(幼児性)と言える。

無意識というのは、理性の支配を排除していることであって、言い換えるなら「ホンネ」の部分であろう。ホンネの行動がその人の性格になるのは当然といえば当然である。これが「三つ子の魂」の正体である。3歳の子どもの行動はすべて無意識のホンネであり、そうした時期は建築物で云えば、基礎部分(土台)にあたり、我々にとって重要な時期となる。

親の好まざる傾向性であっても、むしろ固定したものが「ある」ことを喜ぶべきであろう。親の好みにどおりに子どもを変えようと無理をすると、さてどうなるだろうか?未知のことを断定はできないが、答えを求めたいなら、それをやってみるしかない。自分はそのことを体現した人間だから、自分と親の関係における答えは持っている。が、他人の結果は分らない。

子どもの心に上手く対応できる親もいれば、子どもの心を益々荒らすような物の言い方や態度の親もいる。その差は親の性格というよりない。親子といえども人と人の関係だから、いい性格の持ち主を「いい人」というように、「いい親」とはいい性格を持った人であろう。別に教育書を読んだり、躾の方法を学ばなくとも、いい性格を持った人がいい親になる。

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