男と女の子育て観の相違はいろいろあるが、母親は乳児期の記憶がいつまでも残り、子どもが成長・発達して心や体の機能が充実しても、乳幼児期の記憶が災ってか、我が子を幼く、弱々しく見てしまいがちになる。我が子を正しく見る能力が曲げられ、それが過保護になる原因のようだ。子どもへの接し方が感情主体になると、どうしてもそのようになりがちだ。
野球やサッカーにしても、名監督、名参謀は感情的にならない。選手のプレーにその都度感情的になってしまっては、チームもゲームもコントロールできない。闘将、猛将などと、熱くなる監督を評価するマスコミは面白半分に書いているだけだろう。人間だから勝負事には熱くなりやすいが、先ずは自分をコントロールできる監督でなければ無能である。
激しく抗議するときは、理性を土台に演技力を発揮しているに過ぎない。心中は冷静であるという。子育てに言われる言葉に、「子どもを怒るのではなく、叱ること」というが、選手を叱る、審判を叱る(抗議)と同じ事だ。怒り(感情)の発露が子どもにどう伝わるかという冷静な視点はなく、自身の怒りにかまけている母親をバカだと思った時のことを忘れない。
大好きだったセーターを石炭ストーブの中に放り込んだ母を目の当たりにし、その光景を子どもはどのように思うのか?自分の体験であるが、同じようなことをされた他の子どもたちは、どのように思うのか?親が子どもの大切なものをどこかに捨てたり、横取りして食べたり、そんな動物がいるとは考えられないが、人間はそういうヒドイ事をする動物だ。
それでも子の親であるという、現実を果たして受け入れられるだろうか?自分は、受け入れられなかった。「それでも親か!」どころではない。「この人は人間じゃない、鬼だ!」と思った自分。小学五年生にして、親に対する人心は決別となった。怒りや悲しみを超越した行為をされたとき、人間は茫然自失となる。その事がもっとも恐るべき感情であろう。
親に対する怒り、悲しみをはるかに超えた、「茫然自失」が意味するものは大きい。50年をはるかに経過しても頭の中に映像として焼きついている体験というのは怖ろしいものだ。戦争体験や原爆体験なども、そういうものであろう。同じ事が実の親によって被ったのだから、そのショックは筆舌に尽くされない。その日を以て、親子を紡ぐ心の糸がプツンと消えた。
その後もいろいろな目にあったが、「どうしてこういう親をもったのだろう」という言葉しかなかった。精神的に追い詰められながらも、耐えるしか術はない。耐えるか、逃げるか、殺すか、死ぬか、四つの選択の中で、「耐える」を選んだのは、今に思えば正解だった。それ以外のものはいずれも悔いとなったであろう。そう考えると、犯罪と自殺は同じものである。
いじめ自殺も、いじめる相手を殺すのも価値は等価である。自殺と犯罪者とどちらが正しい?善悪の答えがでないなら、どちらを選択する?「犯罪者になるくらいなら自殺を選ぶ」、「自殺するくらいなら犯罪者を選ぶ」。人によって選択は異なるだろう。その前に、「自殺と犯罪者」についての善悪は分らない。宗教的、道徳的価値基準はあるが、それが真理か?
自分はある哲学者の、「真理などない。あるのは解釈のみ」を信じている。もし、「自分のやる事は絶対に正しい。何が善であり、何が悪なのかを決めるのはこの私なのだ」という考えを貫く者は、ルイ十四世のような絶対君主になるしかなかろう。そうなれない者は、自分の考えを撤回するしかない。「自分はお前に腹が立っている。お前を殺したいし、殺すのは善である」
そんなことを言い出す奴は狂気である。そう考えると、あのとき母を殺さなかったのは正しい。犯罪者のいう「善」は、独善的解釈でしかなく、怒りの対価としての殺人は正しい対価とはならない。人を殺すに価するような、「善」的な怒りがあるのかないのか、そのあたりも解釈であろう。独善解釈としてどうしても人を殺すのが善と信ずる者は、行為後に堂々「罪」に服せばいい。
クルマで追い抜かれた。すれ違いに肩があたった。ハゲ頭と罵られた。などなど、殺人事件の要因にはさまざま理由を、客観的に正当と言えるのか?「正当」とは何をもって正当なのか?一例をあげると、戦争や刑罰がある。が、本当にそれが正当といえるのか?原子爆弾は正当なのか?これらすべては解釈に過ぎない。刑法に「正当防衛」という項目がある。
【刑法第36条】…急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
法も人間の判断(解釈)であり真理ではない。ニーチェの言う、「真理などない、一切は解釈である」は正しい。と、いえどもこれすらニーチェの解釈であろう。「キリスト教の真理とは…」についていろいろ書かれている。どう見ても理屈であって、現実的でない。と、自分は解釈する。が、キリスト信者は、「聖書こそ真理」と言う。それもキリスト信者の解釈である。
自分は、「真理」を認めず、「解釈」という言葉を躊躇わず使うが、キリスト信者は聖書は「真理」そのもので、「解釈」などと言わない。ところが、同じキリスト教でも別の宗派の聖書の受け取り方の違いについて、「解釈の相違」という。「間違い」と言い切るものもある。何か一つだけ正しいと信じるものは危険と言わざるを得ない。つまり「真理」と信じることが怖ろしい。
なぜなら、キリスト教信仰の論理なら、仏教国家や儒教国家、その他異邦宗教を信じる国家はみな呪いを受けて失せるべきとなる。にもかかわらず、世界至る所に分布し、存在する異邦宗教等をどう説明する?仏教、儒教、ユダヤ教等の教理の中にも同様の真理がある。仏教の「慈悲」、儒教の「仁」は用語が違うだけで、キリスト教の「愛」に含まれる一つの部分。
仏教者にしろ、キリスト教者にしろ、最もらしいことをいうが、宗教は観念的であり、臭い物に蓋をしておけばいいが、現実はそうは行かない。観念の対語は現実であり、都合悪きことに蓋をしていては現実は見れない。同じ最もらしいことをいうなら、考えに考え抜かれた哲学者の言葉の方が現実的である。宗教的観念は主観的、哲学的概念は客観的に思える。
観念と概念は似ているようで非也。キリスト教が「真理」としてきたものは、神学的な視覚観念的アプローチに過ぎない。そういう物に囚われないのが、「自由」な人間であると以前は思ったが、宗教の律法や因習にとらわれないからといっても、人は自身の律法に従って生きている。それを果たして自由と言えるのか?何ものにも囚われない自由な人間と言えるのか?
人はみな自身の立法者であり、それぞれの中に自ら従うべき「掟」を持っている。「掟」の種類はさまざまアリ、どういう「掟」に従えばいいのか、も各自が決める。自分の従う「掟」を自由に選択し、自由に決定するなら、人は自らの律法に従うという点で自由である。「自分が立てた掟に従うことが、真の自由」とカントはいった。それをヘーゲルが受け継いだ。
ニーチェも受け継いでこのように述べている。「きみはきみ自身に、きみの悪ときみの善とを与えることができるか?きみはきみ自身に対して、きみの掟を執行する裁判官となり、処罰者となることができるか?」(『ツァラトゥストラはかく語りき』)。昔、『自由になりたい』という曲が好きだった。しかし、空を自由に飛ぶ鳥は、本当に自由なのだろうか?
I wanna be free 自由になりたい
Like the bluebirds flying by me 側を飛んでいく青い鳥のように
Like the waves out on the blue sea 青い海原に消えていく波のように
If your love has to tie me 君の愛が僕を締め付けるなら
Don’t try me 僕を苦しめないで
Say goodbye さよならを言って
さも分かったように持論をぶつける人もいれば、自らへの問いとして持論を述べる人もいる。違いは他人には分らないが、その人の基本的なスタンスがつかめれば、どちらに組する人かを知る。何事も分かったかの如く、軽々に口にする人は、大切なことを知らなかったり、本質的な知識が抜け落ちていたりで、そういう人の言葉は役に立たないものが多い。
知識が増え、物事の道理が分かれば、真理が遠のいていく。求めども、思索すれども、真理は遠のいていくばかりである。あげく、「真理」は存在しないことに気づく。言い換えれば、それが世の「真理」である。老子の言葉に、「為学日益、為道日損」とある。意味は、学問を修めれば日ごとに知識が増えていくが、道を修めれば日ごとその知識は減っていく。確かに…