池田小の宅間守、加藤智大の秋葉原事件、コロンバイン高校内銃乱射事件などが起こる度に、警察もマスコミも犯行の「意図」、「目的」、「動機」を問題にする。それが分かればそれらの犯行は我々に理解可能となり、受け入れやすいものになるからであろう。犯行の動機を知ることで安心し、分からなければ不安は収まらない。それでも解釈不能の犯罪なら?
「異常性格による犯行」、「精神錯乱による犯行」というお決まりの切り札があるが、それら一切は、検事や判事や学者が理解可能にするための解釈。当の本人でさえ、行為の真実を隠したり、嘘をこじつけて犯行を誤魔化す。あるいは自己正当化する。宅間の法廷での暴言は、耐え難い言葉ゆえに、彼の本心ではないかという気もするが、実際はどうなのか?
宅間は「これが本心だと」前置きしていろいろ述べてはいるが、彼が本心と言えば本当に真実なのか?そう思うのも、思わないのも我々の解釈(判断)となる。自分は宅間の法廷における言動は、バカ男の成れの果てによるいきがった強がり、もしくは目立たぬ男の目立ちたいが故の法廷におけるパフォーマンスと見るが、本人も含め本当のところは誰にも分らない。
言葉を持たぬ犬や猫の行動を分かった様に断定する飼い主や動物学者も、想像と解釈に過ぎない。「違う」と断定出来ない以上、何を言っても許されるが、確信的に言えるのは行為そのものが意思であろう。エイリアンも同様に、言葉を持たぬ生物ゆえに、行為は純粋な意思と見ることはできる。少なくとも「意図」、「目的」、「動機」を口にする人間よりは…
ドストエフスキーの『罪と罰』を現代風にアレンジする。主人公の青年Aは苦学生で家賃を払えない。それなのに「家賃を払え!」としつこい大家。他にもたくさんの借家を所有する資産家の老女であるが、「あたしは慈善事業をやってるんじゃないんだ」と、家賃遅延の催促は手厳しい。主人公でなくとも、「あんなクソババ早く死ねばいい」と思うだろ。
「金を持っているが他に取り得のない強欲で無慈悲な人間が、この世に存在する理由があるとすれば、それは一体何であろうか?自分は金はないが、大学で勉強もし、世のため、人のためにつくしたい」と、そういう自負心旺盛な若者が、そんなある日、「生きる価値すらない社会的害悪ババァを殺して金を奪ったところで、むしろ世のためになるのではないか?」
ラスコーリニコフを青年Aとし、Aが犯行に及んだ動機はAにとって、「社会悪を葬って世のため、人のためといった、価値ある有為の人物になること」となる。が、本当の動機を隠匿した解釈の操作である。「嘘も信じれば本当になる」というが、ニーチェの理論からすれば、犯罪に限らず我々の行動はそういうものだ。人は誰も自分の行為を正しいと信じる。
無意識の情動は意識されない。上記Aの犯行動機も、憎悪が社会正義にすり替わっている。今般、アスリートの賭博が問題になったが、どんだけ損害を被ってもギャンブルをやめられない人間は、自分をバカと思わず自己正当化をするからだろう。今日は100万負けたが、彼女と喧嘩したことも影響した。次は必ず今回の損も取り返せるし、取り返して見せる。
このように、後から付け加えた理由を"言い訳"という。言い訳の多い人間はギャンブルにはまる要素を持っている。100万負けたことを素直に、真摯に受け止め、「自分はなんてバカなんだ。二度とこんな事はしない!」、そういう人間はギャンブルに深く嵌まることはなかろう。パチンコに負けた人間は、「あの台が悪かった」。「いい台に当たれば必ず勝てる」など言うのが多い。
そうであってもなくても、常にいい台に当たるとは限らないし、反対に常に悪い台に当たるとも限らない。こういう可能性を追い求めることが、ギャンブルに嵌まる動機であろう。「大負けした。もう二度とパチンコはやらない」と数日間のみ宣言する者は多い。が、彼の頭には「大勝ちした」ときの快感が残っている。「勝ったら止める!」がギャンブルで損をしない鉄則。
ところが、「勝ったのだからもっと勝つかも知れん!」という欲が常習化の原因だ。宝くじ購入の常習者の言い分は、「大金を手にする夢」という。そういう人を非難はしないし、どぶに捨てようと人の金だ。好きに使えばいい。が、自分は「夢」などと綺麗ごとに蓋をし、少ない投資で大金を得ようという「欲」とする。リスクも「夢」というが、リスクは「現実」である。
酒を飲まない人間が飲む人を非難するのはよくあるが、飲めない(できない)と考えるなら飲める(できる)人間は天晴れだし、羨ましいとしか思わない。できないことを正当化するよりも、できるひとをリスペクトする方が心が健全である。宝くじを買わないからと、買う人を見下げたところで自分が賢いわけではない。買える気持ちに至れる人を尊敬すればいい。
「どうしたら宝くじを買える心境になれるのだろうか?自分にはとても至れない」と思う方が健全であろう。「しない」を主観的に見れば「しない」であるが、「しない」の本質は「できない」であると、そのように自身を客観的に見るほうがいい。そうすると、「自分は"しない"」という自負心から他人を見下げたりせずに、「できる」人は凄いということになる。
いかなることであれ、自分ができないことを「できる」人をリスペクトするべきと思うようになった。どうでもいいような些細なことでさえ、他人を見下し、差別化し、他人よりじぶんを「優」と思いたい人間は、根本的に自信のなさの現われとみる。他人を卑下することで持つ自信のくだらなさに気付き、向上心を持って生きた方が健全であろう。と「健全3発」を述べた。
WHO(世界保健機構)憲章に「健全な精神は健全な身体に宿る」とあるが、半世紀を生き、苦悩やストレスも経験し、それらから解放される術(方法)を模索するのも向上心なら、若い頃に比べて心の持ち方が変わったようだ。上に記したように、自分ではよく分らないが、おそらく何がしかの「自信」が身についたのだろう。行き着くところは、「金持ち喧嘩せず」である。
「金持ち喧嘩せず」は、いうまでもない比喩で、「金持ち」のことを現していない。中学生の頃に初めて目にした「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉について自分は、「健全な心を宿すには、体の具合の悪いところは治すべき」と、風邪や熱のあるときの荒んだ心を感じ取っていた。が、古代ローマ時代の風刺詩人ユウェナリスの詩の一節にある真の意味とは。
「金持ちになる、地位を得る、才能をのぞむ、栄光や、長生きや、美貌や、いずれも願うべきでない、なぜなら、これらはいずれ身の破滅をもたらすからだ。もし願うとしたら「心身ともに健康であること」ぐらいにしておきなさい。その程度を願うのなら不幸になることもない。決して大きなことを願うべきでない。」ということを詩にしたとのことだった。
紀元60年〜130年という昔に生きたユウェナリスの詩の一節が、現在のような意味で使われるようになったのは、近世以降である。当時、各地で世界規模の戦争が始まり、戦争に勝つには強い軍隊が必要で、強靭な身体をもった軍人が求められる。各国は軍人に身体を鍛えることを奨励しようと、そのスローガンとして、「健全なる精神は~」のフレーズを利用した。
ユウェナリスの長い詩の一部分だけを切り取り、本来、ユウェナリスが表現したかったこととは違う意味となる。「みんな身体を鍛えよう!そうしたら健全な精神をもてるぞ!」と号令をかけたが、本音は「強い軍人になれ!」であった。その後、戦争のためだけでなく、スポーツの世界でも若者の身体づくりを促すために、このスローガンが大いに使われるようになった。
ユウェナリスの願いや望みは、若き時代には至れない心境。若い人に上記の言葉をもとめるのは酷であり、自らを顧みても、野望あっての若さである。ただ、現実を直視しないであまりにロマニストであるなら、身の破滅もあり得る。要因としてもっとも大きなものがギャンブルであろう。少ない金額を張っての遊び主体ならまだしも、一攫千金は止めるべき。
アスリートが賭博をするのを、決して悪いとは思わない。競馬に100万かけようが、宝くじを100万円購入しようが、自身の懐具合を勘案してやるのは何ら問題ない。損額を人にいわず、黙っておくこともできる。が、ヤクザの資金源となるような違法賭博、これはマズイ。彼らに接してくる暴力団員は、ヤクザ映画にでるような強面(こわもて)にあらずの一般人風。そんな安心感もあったのではないか?
刺青やチンピラ風仕草や、いかにもヤクザと言わんばかりの人たちが、今は普通の一般市民と変わらない風貌だ。だから、罪悪感も湧かないのかも知れない。20代の中頃だったか、こういうことがあった。同じビルの階にサラ金があり、そこの店長や従業員と麻雀をやっていた。それを知ったビルの1階入居の銀行行員が、「ヤバイよ、止めた方がいい」と耳打ちくれた。
彼の言葉をすぐに聞き入れた自分で、無知な自分に知恵を授けてくれた行員には感謝している。特段問題はないとはいえ、よくないと知った事はすぐに止めるのも勇気である。バトミントン選手に裏社会とつながっている意識はあったとしても、馴れ合い高じて抜け出せなかったと察する。裏社会の連中は彼らにある意図を持ちながら、気づかれぬよう接する。
気づいたときはすでに遅し、などは多し。バドミントン選手も週刊誌にすっぱ抜かれなければ、「悪」から足を洗えなかったろう。「悪」に気づいたらすぐに止めるべきは簡単ではない。なぜなら、周囲は同じ穴のムジナばかりで、自身の享楽を制止したり、口うるさき人には内緒にする。週刊誌は下劣と批判するが、人の裏面を暴き、正すことに寄与しているのでは?
乙武氏やベッキーや国会議員など、不倫を週刊誌にすっぱ抜かれた人を可哀想と見るのも、自分を正す切っ掛けになった「天の声」と見るのも、それぞれ人の解釈だ。自分は後者である。週刊誌に嗅ぎつかれる前に止めるのが本当はいいが、それができない人間だ。誰もが一様にバレて謝罪をするが、そんな謝罪を自分は信じないし、笑うしかない。