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「目的なき犯罪」の目的とは

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「何であんなことをしたのかわからない」。犯行後の犯罪者の言葉を聞くが、これらを「目的なき犯罪」、「動機なき犯罪」と言う。「何の目的で?」、「どういう動機で?」などと問われるように、人がある行為をする場合にはそれなりの理由がある。無意識の行為というのもあるが、ふつうは何故その行為をしたか?行為を始めた原因は何?これが動機である。

目的とは、その行為によって何が得られ、何が期待できるか?に着目すること。つまり、動機は原因、目的は結果といえる。そこに「意図」を加えることができるが、「意図」と「目的」は意味が違いを説明するのは難しい。マラソンに置き換えて違いを考えてみる。マラソン初体験のランナーが、「とりあえず完走が目的です」というのは、正直な気持ちであろう。

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が、マラソン経験があり、常に入賞を目標とする熟達ランナーは、「完走が目的」などと言わない。彼はどうすれば優勝できるか、上位にいけるかをさまざまに考えるが、上位入賞を意図した思考から、それなりの作戦を立てることになる。最終目的はどちらもゴールとなり、「完走が目的」というランナーにも、完走するためのそれなりの考え(意図)はあるはずだ。

別のあるランナーは以下のように言ったとする。「自由な意志で走りたい。完走にも拘らない、入賞も考えない、無理なら途中棄権もいい」。と、自身の自由意志を述べているようだが、ニーチェは「(人が)自由意志をあると信じることは誤りだ」と言っている。人が自由と思えば自由であるはずだが、「意図」、「目的」、「動機」についてのニーチェの見解が興味深い。

「完走」も目的なら、「完走に拘らない」というも目的であり、そのために無理をしないという意図が、あるランナーにとってマラソンの動機であるとする。自由意志的行為といいながら、実はそこに「意図」、「目的」、「動機」があり、それを隠して「自由に」といっている。ニーチェはそういう形で我々の意識にのぼる表象(イメージ)についてこのように言う。

「すべての力の中でもっとも劣ったものであり、そういうものは行為を引き起こす本当に原因になり得ないものだ」。たとえば、「自分は一流大学に行き、一流企業に就職する目的を持つ。だから、それを妨げる恋愛はせず、遊ぶ暇があったら勉強し、脇目もふらず予備校に通う。彼女がいないのは別に恥ではなく、作ろうと思えば簡単だ。」

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彼にニーチェの言葉は理解できないだろうな。そもそも、「意識的な表象活動」とは、一種のシンボル化の働きで、自己の体験を、「複写ないし反芻する」に過ぎず、「意図」や「目的」や「動機」という形で意識にのぼる表象は、「複写された過去」以外の何ものでもない。自己の行為を自身が理解可能にするために必要上作り上げたフィクションという。

こういう難解な言質は脳に汗の思考が必要だが、この見解には、「意識」というものの成り立ちについての考えがある。「意識のうちに現れでるものは、すべて、ある一つの連鎖における最後の環であり、一つの結末にすぎない。ある思念が他の思念の原因であるようにみえても、それは見かけだけのことに過ぎない」との考えに基づいている。

我々は自身の思念について、そんな面倒くさいことを考えることもなく、分かったようなこと、いっちょ前のことを言いながら生きている。理屈や詭弁や言い訳を自己正当化しながら生きている。我々の意識は内的世界のほんの表面にすぎず、しかも単純化されたり、明瞭化という加工の操作を受けた表面にすぎないと、ニーチェは言う。

行為の真実は無意識の領野で生み出されているという。が、無意識は定義上、意識されず、そういうものがあるのかどうか、あるとしても、そこで何が起こっているのか、を我々は知るよしもない。最近とみに、「目的」や「動機」のハッキリしない犯罪や理解不能の凶悪事件が増加しているが、その背景にはどういった原因があるのだろうか。

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朝霞少女誘拐事件の寺内樺風容疑者は、大阪教育大学付属池田高校から千葉大に入学した。付属池田校といえば、2001年の「池田小事件」を思い出す。6月8日に大阪府池田市で起こった小学校無差別殺傷事件。犯人宅間守は、児童8人を死亡させ、教師を含む15人が重軽傷を負った。惨劇の詳細はネットに記されているが、何でこのようなことを…

誰もが思う動機の一端が、彼の法廷内の怒号で明らかになった。1963年11月23日、兵庫県伊丹市に生まれた宅間は物心がつかないうちから父親に叱責、殴打などの環境で育つ。家庭に安住はなく、蓄積したストレスは、学校や小動物に向けられていた。小・中学時代から強者に迎合し、自分より劣ると判断した同級生を「奴隷」と名指しした。

「宅間さま」とかしずかせ、「調子に乗るな」と因縁をつけては暴行する。前を横切る女生徒に唾を吐きかけたり、燃やしたドラム缶に生きたままの猫を入れたり、布団です巻きにして川に流すなどした。成長すると些細なことで母親を殴るなど家庭内暴力を繰り返した。宅間の法廷内の暴言に、怒りと悲しみのあまり退廷する遺族もあった。

宅間:「あははははははは!ほんまおもろい!ワシは死ぬことビビってないで。遺族にはなにもできへんし最高や!世の中どんなに金かけてもワシに一瞬にして殺されれば勝ちも負けもあらへん!世の中は公平やない!わしは世の中の不条理をあのくそガキにわからせてやったんや。ワシみたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかったんや、世の中勉強だけちゃうぞ!

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とあのくそガキに一撃を与えたんや、死ぬ前に世の中の厳しさが分かってよかったな、感謝せいよ。ワシはいままで散々不愉快な思いをさせられて生きてきた、でも、今日は、ほんまワシは気分がええわ。ワシを悩ませた糞親にも嫁の家族にも迷惑かれてな!親戚に守がいますなんて、千年たっても言えへんな!こんなケッタイなおっさんに一瞬や!ブスブス事件は、ほんま!おもろい!ほれでも、ワシはまだ満足はしてないで!」

二人兄弟の次男であった宅間は、小学校6年の時に、地元ではハイレベルな中学校である大阪教育大学付属池田中学校の受験を希望したが、宅間の成績ではとても無理ということで受験させてもらえず、結局地元の中学校に進学し、その後は工業高校へ進む。「自分をもっと頭の良い人間として産んでくれなかった親が悪い。」と親を恨むようになる。これが宅間と池田小の接点である。

寺内容疑者は教育ママの母にかなり勉強を強いられ、運よく附属池田中に入学し、高校から国立千葉大に入ったものの、そういう彼がなぜあのような事件を起こしたかも現時点では分らない。想像に及ぶに、彼にとっては池田校も千葉大も彼自身の人生における目的でも動機でもなく、中学の頃から少女を誘拐することを夢見ていたようだ。そこから考えられることとは…

彼にとって偏差値73の池田中は、彼の意図する人生ではなく、高校入学の手段であり、高校は大学に入学するための手段というような、機械的な日常を送っていたと考える。彼の情緒は少女を誘拐し、同居し、婚姻ゴッコに憧れていたのかもしれない。他人を略取誘拐し、監禁することが犯罪であろうがなかろうが、それが彼の意図する憧れなら、成功するかどうかである。

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有名中・高・大も、彼の人生のおいては何の満足とならず、彼が最高に満たされるものが少女誘拐であったなら、彼はそれを果たしたことになる。人が人を殺すときに、果たして罪の意識を感じるか?感じても感じなくても、行為をするなら意識などはその時点で問題でない。成功すればいいだけである。行為した以上は発覚は望まないし、あとは罪から逃れようとする。

秋葉原の無差別殺人も、罪とか罰とかよりも、思うことを行為するだけという、純粋な思いである。映画『エイリアン』で、アンドロイドのアッシュが、エイリアンを称賛するシーンが印象的だ。「アレは相手を殺すための完璧な生命体だ。自ら生きるためなら、良心や自責の念に邪魔をされない。モラルという妄想にも…。君らに生きるチャンスはない。同情するよ」

秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大、附属池田小事件の宅間守は言うに及ばず、寺内少女を略取誘拐するという行為も、人間として理解に及ばないが、彼はこれをしないではいられなかったというよりも、思春期に芽生えた彼の生きる目的であったのだろう。上記の三人は生きるためなら心や自責の念に囚われず、何だってやれるという彼らは、エイリアンと同様である。

宅間:「純粋のワシの心から出たほんまの気持ち。それは、わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。あのガキが8人死んでくれたから、俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!! でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!」

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エイリアンには無言の怖さがあるが、宅間は人間だから言葉を話す。エイリアンに罰の概念もない、宅間らにもない。人類はエイリアンを撲滅するしか生きる手立てはなかったが、どんなことをしても生き延びんとする、生物としての純粋さに比べ、宅間は生物としての完全性はないただのへタレ男である。死ぬ価値すらない人間だが生きている価値すらもない。


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