「ザ・ヤンチャーズ」というバンドがある。正式名は「加山雄三とザ・ヤンチャーズ」で、ロックバンドというよりエレキバンド。といえど、8人のメンバーでエレキをもっているのは加山と高見沢俊彦、エレキベースの桜井賢(2人はTHE ALFEE)で、あとの5人はアコギ。が、近年アコギはエレアコ(エレクトリックアコースティックギター)なので、エレキバンドになる。
メンバーは加山雄三、谷村新司、南こうせつ、さだまさし、紅一点森山良子とアルフィーの桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦となっている。親しき仲間同士の寄せ集め話題先行バンドというコンセプトだろうが、いわゆるフォーク系の7人と、元エレキの若大将で、どういうサウンドを目指しているのやら。存在すらも知らず早速YouTubeで聴いてみたが…
色物バンドは商業的成功より、楽しくやるならそれで十分。ところでザ・ヤンチャーズがさだまさしの命名という。2010年にデビュー50周年を迎える加山雄三が、彼を慕う友人と結成したバンドで、同年6月4日の日本武道館公演を皮切りに、6月12日には名古屋の日本ガイシホール、6月20日大阪城ホールの三公演を行った。現在の活動はないようだ。
これに先立つ4月7日には、加山雄三デビュー50周年記念シングル『座・ロンリーハーツ親父バンド』をリリースした。加山は1938年4月11日生まれだから、あと3日後には79歳になる。永遠の若大将を自負するだけに、若いといえば若いが、多少の世辞も入っている。どのアーチストにも旬があるように、男優加山の全盛期、ミュージシャン加山の全盛期を素晴らしかった。
そういった往年のファンが日本武道館や大阪城ホールに駆けつけ、会場内はシワ顔、白髪にハゲ頭で埋め尽くされている。自分たちの世代にあって、加山といえば日活若大将シリーズの映画俳優であったが、1965年『君といつまでも』という楽曲で、突如歌手としてデビューしたのには驚いた。俳優よろしく楽曲中のセリフ「幸せだなあ」は、後に流行語となる。
もとはセリフはなかったが、本曲のレコーディングが行われた毎日放送千里丘放送センターにおいて、あまりの編曲の素晴らしさに感動した加山が、「いやあ、幸せだなぁ」と呟いた。それをセリフとして入れようとなったらしい。つまり、俳優としての加山の部分をプラスアイデアにしたのだろう。300万枚を超える大ヒットになり、翌年第8回日本レコード大賞特別賞を受賞。
加山の音楽的才能は、実は映画俳優デビュー以前の慶応大学生時代に始まっており、全篇英語のバラード「DEDICATED」を作詞作曲している。それが映画若大将シリーズ第4作「ハワイの若大将」で主題歌として採用され、更に第5作「海の若大将」でも使われている。が、当時東宝の製作責任者藤本真澄氏が、今回は「英語の歌詞は駄目だ」と注文をつけてきた。
加山も「日本語では締まらない」と譲らなかった。結局、歌い出しの I love you…、Yes I do…だけ認めてもらい、あとは岩谷時子が日本語の歌詞をつけることで双方が納まった。こうして出来上がったのが、『恋は紅いバラ』である。この曲はシングル盤として発売され、25万枚のヒットとなる。英語のままだったらこういう結果になっていなかったろう。
加山のレコード・ヒットとともに、早速、渡辺プロダクション社長でミュージシャンでもあった渡邊晋から、自作自演による作品依頼が舞い込む。加山は当時渡邊プロに在籍していた。「あの曲より、もっと良いのを書いてくれ。同じコード進行でもいい。1週間後に頼む」と、晋社長は加山に申し渡した。締め切りの前日、ピアノに向い、1時間半で捻り出した。
その曲が『君といつまでも』である。聴けば分かるし、弾いて見ればさらにわかる『恋は紅いバラ』と『君といつまでも』はまったく同じコード進行である。三連音符のシャッフルその他も同じで、作曲というより、『恋は紅いバラ』をモチーフに少し変えただけのものだ。そしてレコーディングとなったが、当日のことを加山は後にこのように述べている。
「岩谷さんがロマンチックな歌詞をつけ、豪華なオーケストラと合唱を入れた森岡賢一郎さんの編曲も実に素晴らしい。スタジオのマイクの前で、僕は感極まっていた。『しあわせだなあ』」。間奏でふとつぶやいた一言を、ディレクターが逃さずキャッチし、即座にそれを曲中に入れようということになった。「間奏にセリフを言うのはエルビスの真似もあった」と加山。
学生時代にバンドをやっていた加山は、当時全盛のエルヴィス・プレスリーの楽曲は研究し尽くしていたろうし、そういった肥やしが、録音時に生きたのかも知れない。数々の映画の出演し、数々の名セリフも吐いた加山は、『僕は君といる時が一番しあわせなんだ』というアドリブを披露した。『君といつまでも』は、映画「エレキの若大将」のなかでも歌われた。
当時の加山の楽曲はロッカバラード風で循環コードの単調なものであったが、そんな加山の曲にスピリットを与えたのが岩谷時子であろう。岩谷の詞がなければ加山の曲はそれほど見映えするものではなかったろう。貿易商社勤務の父の関係で朝鮮・京城府に生を受けた岩谷は5歳のころに兵庫県西宮に移り住む。西宮の小中高を経て神戸女学院大英文科に進学。
卒業後、宝塚歌劇団出版部に就職。歌劇団の機関誌『歌劇』の編集長を務めた岩谷の作詞の素養は宝塚歌劇団の影響もあろう。そうした中、偶然宝塚歌劇団編集部にやってきた8歳下の当時タカラジェンヌで15歳の越路吹雪と出会う。2人は気が合い、岩谷は越路の良き相談相手となる。越路が宝塚歌劇団を退団して歌手になりたいと相談を受け、岩谷も退職を決意する。
以後岩谷は越路のマネージャーとなった。そのかたわら岩谷は越路の『愛の賛歌』を初めとする訳詞、作詞を多く手がけていく。モダニズム作詞家である岩谷は、ヨーロッパに行ったことがなかった。海外体験はハワイに一度行ったきり。「現地を体験していないからこそリアル、というパラドクスがここにある。しかし、それが『文学」の力だともいえる」。
まったく対照的なのが作詞家の安井かずみである。海外旅行がめずらしかった当時にあって、世界中を旅をして貴族や有名人と優雅な生活を送った。1967年、ローマにて青年実業家と結婚するも、翌年ニューヨークにて離婚。1969年からパリに暮らし、1971年に帰国。1977年にはミュージシャン加藤和彦と再婚。優雅なライフスタイルで憧れの夫婦として支持された。
安井は55歳の若さで病没したが、2013年に死去した岩谷は97歳の大往生であった。安井は4000曲もの楽曲の作詞をしたが、伊東ゆかり「恋のしずく」、沢田研二「危険なふたり」、小柳ルミ子「わたしの城下町」、アグネス・チャン「草原の輝き」、郷ひろみ「よろしく哀愁」、竹内まりや「不思議なピーチパイ」、槇みちる「若いってすばらしい」などが印象的。
「若いってすばらしい」は数あるJ-POPSのスタンダードと言っていい曲だが、作曲の宮川泰は、「あの曲は歌詞が素晴らしく、だからあっというまにできちゃった」と述べていた。歌った槇みちるもこう述べている。「当時わたしは『スターかくし芸大会』の収録中ですごく忙しかったんです。そこへ宮川先生とかずみさんが来られ、稽古場でその曲を作ったんです。
その時かずみさんは、『まり太郎(当時のわたしのニックネーム)のまんまのイメージで詞を書くね"といわれ、わたしの雰囲気を感じ取りながら詞を書き上げられたんです。あっという間でした。で、わたしがサビの部分がちょっとちがうかな~、か思いながら口ずさむとかずみさんは、『そういうふうにしたい?じゃ、そうするね」と言われたのを覚えています。」
いずれにしてもこんないい曲って、あっという間にできるんだなと。「あれはホントにいい詞だから」と、まさに宮川曰くである。作詞家は歌い手の個性に影響され、作曲家は詞に触発されるようだ。ピンク・レディを手掛けた都倉俊一と阿久悠、宇崎竜童と阿木燿子、来生たかおと来生えつこも互いを影響し合った。作詞家のなかにし礼もこんなことを言っていた。
TOKIOの『AMBITIOUS JAPAN!』は、JR東海とのタイアップにより制作されたシングルだが、当時JR東海の葛西敬之社長がなかにし礼に「新しい鉄道唱歌を作って欲しい」と依頼したという。なかにしが書いた詞を作曲家の筒見京平はこう表現した。「あの詞をもらったとき、なんだか人に会えたという気がした。その世代の人の気持ち、倫理観、そんなようなものです。
久々にそんな気になりました」。なかにしは、「今まで生きてきて、何が今まで自分の生を支えてきたのかな?そういうものを若者に残してみたいなと、そういう気持ちで書いたものです」。筒見はこう続けた。「これまでも、今後も、もうないんじゃないか、そういう迷いの無さのようなものを、礼さんの詞から感じ、後は完成品に曲をつけるしかないと…」
「詞について二人が何も言い合ったことはないですが、完成された曲を聴いて、さすが京平!そう思いました」。作詞家と作曲家のまさに良い関係の一例であろう。もちろん、逆の場合も多い。「こんなにいい詞なのに、なんてつまらないメロディーか!」もあれば、こんなに素敵な曲を、(後につけられた詞で)台無しにされた感じ!」は、往々にしてあるという。
ならばと、書いて作って歌うという一人三役のシンガーソングライターも生まれた。二十世紀を代表する職業作曲家の筒見京平は、どんな作曲家もライバルとして感じたことはなく、脅威と思ったこともなかったが、吉田拓郎の出現には脅威を感じたという。新しい時代の流れは、少なくとも自分たちの時代の終焉という、そんな脅威であったのかも知れない。
作曲家は曲だけでなく、詞の事まで考えなければいい曲は書けない。自分で作詞をすればいいわけだが、作曲家の多くは、作詞家に歌詞を書いてもらう。ニワトリかタマゴかではないが、ヒット曲業界は、圧倒的に「作曲が先」の場合が多い。作曲家はメロディーとサウンドだけに集中してデモテープを作るが、メロディーにどんな詞が乗るかの想像はつかない。
したがって、作詞家の力量が大きく問われる。メロディーのリズムや高低に合わせ、アクセントなどの違和感なきように、言葉をメロディーにはめ込まなければならない。先に詞ができている場合、作曲家は言葉が違和感なく聞き手に届くメロディーを考える。言葉の句切り、アクセント、ニュアンスなどに気をつけながら、美しく自然なメロディーを作る。
歌詞の意味やテーマやメッセージも読み取り、メロディーの世界感や雰囲気をそれに合わせための熟練したテクニックと感性が必要となる。洋楽にも作詞家と作曲家のよい関係が、いい楽曲も沢山生んだ。エルトン・ジョン&バーニー・トーピン、ポール・マッカートニー&ジョン・レノン、ブライアン・ウィルソン&ヴァン・ダイク・パークスなどが浮かぶ。