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「やんちゃ」考

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「○○考」という表題は、○○について思索・思考をめぐらすときに使う。選ぶ対象はなんでもいい、自分もいろいろな「○○考」をここに書いたが、記憶にあるのは、「高野悦子考」、「『混血児』 改め 『ハーフ』考」、「努力・考」、「ホンネ考」、「『「強者・弱者』考」くらい。文学・エッセー、時事評論に「○○考」をみる。「楢山節考」、「蝸牛考」、「同和はこわい考」…


「日本春歌考」という隠れた名著もある。芥川龍之介に「西郷隆盛考」、坂口安吾に「太宰治情死考」がある。「コウ」が3つで「高校考」になる。とにかく人の名でも商品名でもオナラでも屁でもすべて「○○考」になる。論文形式にして「○○論」もあるが、「考」の方が軽い。「おなら考」あらば「放屁論」もある。hanshirouは、『「屁」vs「おなら」』を書いた。

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「屁」と「おなら」は同じ意味で言葉の違いのようだ(屁の丁寧語をおならとすることも多い)が、記事に書いたがごとく、屁はすかしっ屁というくらいだから、音も立てずの無音の風であるが、おならの語源は、「鳴らす」という連用形が名詞に転じたもので、「鳴らし」の頭に「お」をつけた女言葉である。だから屁よりおならの方が気の毒ということになった。

これはあくまで日本文化の習わしであって、外国では音を立てるほうが下品とされるようで、すかしっ屁のほうが尊ばれる。ある映画のワンシーンで、数人の仲間内で臭いが漂ってきたので、「誰か屁をこいたか?」と発すると、こともなげにさっと手を上げる。誰も笑うでなく、責めるでなく、だからさっと手が上がるのだろう。清々しいいい場面を見た気になったが日本では…

あちらではすかしっ屁よりも、音のでるゲップをしたとき、睨まれると聞いた事がある。臭さでいえば断然音のない奴であるが、あちらでは臭さより「音」なのかも知れん。「誰だこのくっさい臭いは?死にそうだ!」などと責められて自殺した女性がいたと聞いたが見つからない。日本昔ばなしの「屁ひり嫁」は、屁を出すときの専用室(屁屋)が現在の部屋の語源という。

「屁ひり嫁」もオモシロイ話だが、あくまで児童向けである。大人向けのオモシロイ屁話にこういうのがある。「ある学者先生の書斎に掃除に来た若いお女中が、一発「ブゥ!」とやらかした。「お許しください」と謝ったが、先生は許してくれそうもない。「罰を与えるからお尻を出しなさい!」といわれ、お女中は仕方なくかわいいお尻をぺろんと差し出した。

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先生は鞭でお尻を叩くところ、アワビを目につい気が変わったようだ、叩くかわりにかわいがった。お女中は苦痛に慄くと同じに顔をゆがめ、苦痛に似た声を塀の外にまで張り上げた。お仕置きが終ると、お女中は何事もなかったように部屋を出る。そして翌日、書斎をノックする者がいる。「誰だ?」の声におずおず入ってくるお女中に、先生は「何の用だ?」と問うた。

お女中は顔を赤らめて言った。「先生、あの~、わたすまたおならをいたしました」。女性には口実がいるものだというのを知る殿方は、よいめぐり合わせに合う機会も多かろう。あくまで古(いにしえ)の女性であって、現代の女性に口実は無用だ。むしろ、男の方にこそ口実は必要かと。「主客転倒」とおぼしきご時世。女は緩めるととめどない。絞めて丁度よい。

その筋の達人おぼしき男のエッセー「まんこ考」というのもある。男なら秘境について書きたいのだろう。躊躇いがないなら書けばよい。自分には躊躇いがあるから書けないが、「女性考」なら書いてもいいと言わずもがな、表題を記さずとも、女性の考察には折りに触れて書いている。漢文を教えるある講師が、「ときどき生徒の読み間違いに苦笑することがある」。と言う。

「万戸侯(ばんここう)」を生徒が大きな声で、「まんここう」と読んだりもある。「万」は「まん」、「戸」は「こ」であるから、そのように読めないこともないが、間違いの対象がそれだけにオカシイ。大阪の学校であるのが幸いしてか、私の生徒たちにとってその言葉の響き自体、あまりインパクトがない。ただ、今や全国区となっており、地方独自の表現も翳んでいる。

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漢詩に「沈沈」とあれば「ちんちん」と読むしかない。蘇軾の七言絶句「春宵一刻値千金」の一節に現れる。別に気にせず普通に、「ちんちん」と読めばいいのだが、男女共学校で、女子生徒がこの漢詩を読むことになれば、女子は皆の前で大きな声で、「ちんちん」と言わなければならない。そこは教師も女子を避けるくらいの配慮はあってしかるべきかと。

  蘇軾の七言絶句 「春夜」

    春宵一刻値千金  
    花有香月有陰  
    歌管樓臺聲細細  
    鞦韆院落夜沈沈 

地理の女性教師が沖縄県にある「漫湖」という湖を説明するとき、おそらく恥ずかしいであろう。ところが、沖縄ローカルの女子アナウンサーは、ニュースで、それも大声で、何ひとつ表情を変えず、ふつうに、さりげなく言っている。まあ、地名だからそれでいいのだが、このような類の言葉をワザと女性芸能人に呼ばせたりと、尖んがった時代になったものだ。 


さて、「ばんちゃも出ばな」は女性に向いた言葉。「やんちゃ」は男専用と思いきや、「やんちゃくれ」というNHKの朝ドラがあった。活発な女性が主人公で、関西ではお転婆女性を「やんちゃくれ」というらしい。もっとも「やんちゃ」の語源は、子どもが言うことを聞かない時に発する、「嫌じゃ((いやじゃ)」が訛って、「やんちゃ」になったとする説がある。

もう一つ、「脂(やに)」は粘って扱いにくいことから、子どもの腕白さをたとえる時に使われた「脂茶(やにちゃ)」が訛って「やんちゃ」となった説があるが未詳。朝どら「やんちゃくれ」は知らなかったし、当然にして観ていないが1998年の作品だ。やんちゃくれな高校三年生女子が主人公。ヒロイン小西美帆は始めて聞く名、始めてみる顔。現在は家族でドイツに居住。 

さて、やんちゃについての考察だが、やんちゃとは、① 子どもがだだをこねたりいたずらしたりすること。また、そのさまやそのような子ども。② 俗に、若者の素行がよくないこと。不良青少年であること、の意。「若い頃はやんちゃしてまして…」というおっさんは多い。が、自分も振り返ればそうであったがそのようには言えない。「言わない」の方が正しいか?

なぜなら今、現在もやんちゃ盛りであるからだ。「盛り」はオーバーかも知れぬが、衰えぬ「やんちゃ」ぶりである。年をとっておとなしくなるのは、「老骨」という言葉があるくらいで、それはそれは気力・体力も衰えよう。が、自分の場合、気力・体力の衰えは微塵もない。ということは、バイアグラいらず?ネコイラズではないんだし、そんなものは無用である。

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無用の理由は女体無用ということ。食べ過ぎたのか無用になった。食べ物にもそういう面がある。何が食べたい(ご馳走の類)というのがまったくなくなった。今、一番のご馳走は、昆布の佃煮、あるいは、野沢菜、白菜やナスの一夜漬けか。はたまた鮭のフレークか。ステーキもトロにぎりも、エビチリも、天婦羅も食べたくないのは、やはり飽きたのだろう。

これを寄る年波というが、そういう意識はない。年齢的にシルバーだから「ジジイ」の呼称はあるにせよ、近年流行の「やんちゃジジイ」である。何をもって「やんちゃジジイ」かといわれれば、ガキ時代のやんちゃがこの年まで続いている、そういう意味のやんちゃである。芸能人にもやんちゃと目される男は多いが、68歳にしてなお体を張る男、高田純次がいい。

彼はニヤケた顔をせず、普通にしていればダンディであるが、不真面目やんちゃキャラの方がお好きなようで、ついつい地を出してしまう。テキトー男の異名があり、何も考えてないようにみせて、その実、何も考えてない素振りが上手いということになる。テイクワン・オフィスという芸能事務所の社長さんでもあり、相手をシビアに観察する有能な経営者タイプであろう。

「思っていないことをいっちゃった」などの言葉を、強調して出すのは、思っていることを言ったということで、後でやんわりと許しを乞う悪気のなさ、人当たりのよさが憎めない性格を現している。その場の空気、雰囲気を敏感に察知する天性の能力を持ち、それに合わせたトークで場を和ませる芸は、芸というより90%は地ではないかと。意外と気遣いのできる男。

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やんちゃの代名詞と言うのは、「イタズラ好き」ではないかと。他人にちょっとしたイタズラをするのが三度の飯より好きな自分は、その時に見せる相手の偶発的本心が、一切の衣を取った真実の人間に見えるからだ。後からカンチョーしたときの反応はこの上ない。多少気心が知れた女性に(「カンチョー」と言いながら、場所を間違えたと少し下を)やるのもこの上ない!

少々の発言、少々の行為ていどなら許されるような、屈託のない、それでいて悪気のない人間を目指したいとある時期思ったことがある。そのためには心を開いて相手を受け入れ、自分も物怖じせずに相手に飛び込む。ギクシャクした人間関係ほど疲弊するものだ。「清濁、硬軟併せ持つ」人間をやる側も楽しい。高田は他人にイタズラよりも、突飛なイタズラを自分にする。

とんでもない恰好をしたりと、それを自らが楽しんでいるのが伝わって来るし、彼のダンディな雰囲気や真面目な顔と、顔の皮が弛み、伸び切ったときのギャップとのあまりの差である。人を楽しませる極意は、自分が徹底的に楽しむことであるのを彼から得る。何事も他人あっての自分だが、自分あっての他人であり、そのバランスが偏らないことであろう。

昨今は地バカ芸人は多いが、バカを演じる知性を持った芸人といえば、高田純次くらいしか思い出せない。明石家さんまは、その境界が不明瞭であり、ビートたけしは北野武という人格が邪魔をして、彼のお笑いはもはや峠を越えてしまった。二足の草鞋を履けているようで、なかなか履くのが難しいと彼を見て思う。そのまんま東も、彼に芸人の看板はあげられない。

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