昨年12月に政界を引退した前大阪市長の橋下徹氏(46)が23日、テレビ朝日系の特別番組「橋下×羽鳥の新番組始めます!」の中で、参院選の立候補の可能性について「それやったら人間として駄目」と出馬を否定した。羽鳥アナから「町内会長とか。立候補しないですよね」と聞かれた橋下は苦笑いし、「これはない。ちゃんと約束していますから」と明言した。
「(参議院出馬をするようでは)人間として駄目」は、いかにも橋下らしい驕り高ぶらない言葉である。橋下に批判的な一部の人が、「橋下は傲慢」、「上から目線」、「驕り高ぶったものの言い方をする」などというが、それらは橋下の真意を分かってない「坊主にくけりゃ」的見方であろう。彼が弁を最強の武器にするのは、政治に身を置くものとして当然の事。
彼は府知事や市長を歴任したが、決して地位としてではなく、役目として精力的に働いた。政治に携わる人間としてその辺りに彼のが純粋さを見る。地位に連綿とすることなく役目に徹し、偏ったマスコミや、彼を良く思わぬ造反分子などと正面から挑み、戦った。それを傲慢、上目線というなら、批判を怖れて周囲に媚びる政治家たちの腹の色を見ればいい。
橋下に"腹黒"は似合わない。彼の天をも怖れぬ言葉が人を選ばないのは、心から湧き出るからだろう。人に嫌われることを怖れない人間なのがわかる。腹黒人間を分かりやすくいえば、人に嫌われないように自らを操り、自らを偽る人間のことだ。弁の立つ人間を嫌う人間の多くは、弁の苦手な人間である。橋下は決して「弁舌爽やか」タイプではない。
比喩の多様でトーンを和らげ、主旨を反らす物言いはせず、直球一辺倒である。論を操り論で誤魔化すという腹黒政治家とは似ても似つかぬ男であろう。それを自分は「純」と解釈するが、それは大人の狡猾さと一線を置く、子どもの喧嘩にみる「純」に似て非也かと。橋下は、ズルく、汚い、そんな大人になりきれない少年の心を持った大人と感じる。
だから「やんちゃ」。理論武装を施さない子どもの正直な姿こそが、「やんちゃ」。自分は「やんちゃジジィ」を自負する。人の長所・短所は見方によっても違うし、心の大きさによっても変わってくる。本人が長所と思えば長所、短所と思えば短所でいいし、他人の視点と違っても自分の生き方である。人間は長所を伸ばせばいいのだから、短所はあまり気にしないことだ。
他人に心を支配されないためにも短所は武器にもなる。人に合わせない人間は傲慢で自己中に思われがちだが、自分をしっかり持っている人間は、自分を殺してまで(あるいは偽ってまで)人に合わせない。自分を持っている人間か、単にわがままかの違いは、その人間が相手を説得しようという姿勢があるかどうか、そこは重要なポイントではないかと。
わがままで頑固な人間にありがちなパターンは、他人の考えに、「それは違うな」というが、「どう違う?だったらお前の意見は?」と水を向けてもいわない。「別に…?違うと思うから言っただけ」などの言い方で持論を説明もせず、堂々意見を主張し、戦わせて相手を説得しようなどまるではない。自らの殻に籠もるが、プライドだけはいっちょ前である。
斯くの人間は、自分と異なる考えが気に食わないだけの器小さき人間である。人に合わせないで文句ばかり言う人間と、他人の意見と戦わせて、正しいものを模索する人間はまるで違う。後者は「人に合わせない人間」というより、「人を引っ張って行く(姿勢の見える)人間」であろう。安易に他人に迎合する人間は、それが他人に受け入れられると錯覚する。
他人に受けいれられたい気持ちの強い人間は、人を説得しようとの発想がない。説得をを面倒と拒む。世に要領のいい人間はいてもいいが、橋下は要領悪き人間の典型であろう。橋下の言動をみながら自分と彼を重ねていたが、「要領が悪い」というより、そもそも「要領」なるが彼にとって嫌悪されている。そこが自分と合い通じる。要領よりも自信が優先だ。
「(あいつは)要領がいい」と、決して褒め言葉ではないが、「要領」という語句の意味は、物事の要点をつかんだ、うまい処理の仕方であって、むしろ評価すべきことだ。なのになぜ「要領がいい」は悪い意味になったのか。想像するに、要領がいい=頭のいいとなり、嫉妬心から悪い意味に言われるようになったのでは?頭のいい人間に対する誤解であろう。
頭のいい人間は無益なことを避ける。争いも無益として避ける。何が必要で、何が不要かを自身の行動規範とする。それが頭の良さであろう。ところが、橋下や自分にはそういう考えがまるでない。なぜないか?頭が悪いからであろう。何が有用で何が無用という合理思考がない。何事も決めてかからず、戦って有用を勝ち取ろうとする。確かに合理的ではないな。
合理的でなく、回り道であれ、だからこそ得るものがあり、地力もつく。議論や話し合いを必要とし、求める傾向がある。自分の「有用」と他人の「有用」はぶつかり、戦いに必要なのはロジカルである。頭のいい人間は負けることもある戦は避け、他人の「有用」はハナから見下げて無視し、自身の「有用」のみを姑息に袂に隠している。頭がいい=ズルいとも言う。
敵対相手に"手のうち"を見せないのは有用な戦略だが、橋下にそれがない。何でもカンでも包み隠さずオープンにする。脇が甘いといえばそうだが、刃物を袂に隠し持つニヒル性は、橋下の嫌うタイプであろう。自分も腹を割らないタイプを信用しないし、だから生き方的にはその種の対極である。一寸の虫にも五分の魂があるように、バカにも一分の理がある。
参院選立候補問題について問われ、「それやったら人間として駄目」と、トーンを抑えた。彼は「バカ」という言葉をよく使う。いろんな意味があるから「バカ」を適切な表現として使っているのだろう。自分も好きな言葉だが、他人に対してだけはなく、自分に対して当てはめ、使う。上記はおそらく、「それやったらバカでしょう」と言いたかったハズ。
彼が一面バカでありながら、反面バカでないのはその点で、「(立候補しないのは)約束だから」というのは絵に書いた社交辞令、本心は有名人票を目論む参院候補者など、猿回しの猿が如き恥知らずバカと思っている。選挙は票であり、だから人気がものを言うが、誰でも政治家に向いているのか?橋下はそんなピエロ如き政治家になどなる気がないのだろう。
そういう橋下気質。利用できるものは一本の藁でも…、彼はそんなケツの穴の小さい男ではない。人気があるのを知りつつ、それに乗じない男の気概か。確かに彼はタレント人気で大阪府知事に立候補したが、なったらなったで、それとは無縁に心血を注いだ。長期政権を睨んでの事なかれ主義を避け、議会と対立覚悟で自らの政治能力を試し、量りもした。
身分に連綿とする府議会議員や、市議会議員との軋轢は起こるが、橋下はそういう連中を腹で見下げていたはずだ。「おまえら、どこを向いて政治をやってるんだ?」と。確かに選挙の洗礼を受けるものの身として、府民、市民の一票は飯の種。タレント人気がバックの橋下に対し、そういうやっかみもないではない。が、彼は行動する政治家を目指した。
タレントに決別し、「力」を人気の土台にしたかった。「力」とはなりふり構わぬ政治的行動力である。そういう橋下の心意気が、市長になって観光の目玉としてぶち上げた「道頓堀プール」や「ATC移転」などの政策だったが思うに捗らず、虎の子「大阪都構想」の住民投票に討ってでた。「大阪都で何がよくなんねん?」の府民の賛同は得れなかった。
他県から大阪を眺めた場合に大阪の人間は、「真面目にコツコツやっている人間」を馬鹿にする、見くびる、下に見る、などの気質があるという。真面目に勉強、仕事をしたりは、「要領悪し」となる。適当に手を抜いて仕事をしないと、"真面目でつまらん奴"、"融通が利かない奴"などのレッテルが貼られ、"都合よく利用する対象"と認定され利用される。
どこにもあることだが大阪は特に顕著かも知れない。とかくこの世は「要領」がものを言う。橋下自身、直球しか投げられない「要領の悪さ」を知りつつ、隠そうなどしない。人間が自らの弱点や短所を隠そうとするのは自然なことであり、偽りの人間を演じても他人によく思われたい、評価されたいのは、誰にでもある心理。政治かも人気稼業ならなおさらだ。
それができない人間を実直という。参院選挙出馬を目される橋下の今だ衰えぬ人気から当選は確実であろうが、そうした人気に甘んじない橋下は、自意識過剰を自ら戒めているのだろう。政治家からいきなりテレビのバラエティ路線への鞍替えに多少なりギクシャク感もあったが、目立つことは嫌いでない彼が、スーツを捨てて以前のヒッピーに戻れるか?
長かった首長経験からそうそう変わるのも難しいが、主観をいえば彼はバラエティーには向かない。『たかじんのそこまで言って委員会』のような、自己主張番組が彼の個性に合致する。必要以上に自分を殺し、おどけた受け狙いの橋下より、彼の一家言は魅力だった。それらは首長で使い果たし、今後はおどけキャラで行くのだろうか?(本記事は先月の書き溜めである)