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Channel: 死ぬまで生きよう!
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事実はない。解釈のみがある

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   1日 24255歩 16493m 86/分
   2日 24099歩 16387m 86
  4日 17334歩 11787m 89
  5日 12883歩   8760m 83
  7日 24849歩   16897m 86
  9日   5377歩   3656m 87 
  11日 24582歩 16715m 87
  12日 11940歩   8119m 89
   13日  9990歩     6793m  82
  15日 22815歩 15514m 82
  16日  5316歩   3614m 88
  17日 30811歩 20951m 85
  19日 13637歩   9237m 85
  20日 18120歩 12321m 91
  21日 23832歩 16205m 89
   22日 21347歩  14577m   81
  23日 12016歩   8170m   85
  24日   7732歩  5257m  89
   25日 29265歩  19900m   91
  26日 13727歩   9334m   83
  27日   3262歩  2218m  82
  28日 19830歩  13484m   88
  29日 15983歩  10868m   89
  30日   9388歩  6383m  86
   31日 38905歩 26455m   89

    total  441295歩 300095m 


歩きながら何を考えるのだろうか?哲学者のように一つのある命題について考えることもあるが、考えて考え抜いて答えを出せるような優れた哲学者ならまだしも、凡人になかなか答えを見出せない。自ら考えて自らの答えを出すのは簡単なようで、石のように硬く強固なものである答えを導くのは至難である。人間というのは深く洞察すれば苦しむことになる。

が、真の思索家はその苦悩さえも洞察するのだ。将棋に置き換えてみても、別に考えないでも指せるし、考えないで指す人も多い。同じように人生に置き換えても、別に考えなくても生きて行けるし、考えないで生きる人も多い。将棋の場合、考えないより考えればよい手(手段)が見つかることが多い。もっとも、よい手を見つけたいから考えるわけだ。

同じく人の生活においても、考えないより考えた方がよい手段を見つけられる。誰でも困ったときには思考をするはずだ。不思議なものでよい手段や、考えても出ないよいアイデアというのは、ある日、どこかで突如出てきたりする。トイレでアイデアが浮かぶというのはよく聞くが、ウォーキングを始めてみて思うのは、歩いてるときにそれが顕著であるのが分かる。

アイデアといっても、何かを発明して儲けようというようなことではなく、「何故だ?」、「どうして?」そういう疑問に対して、マンガ的表現でいえば、頭の中に電球がパッとともるような、一週間前、昨日まではまとまらなかったことが、答えとなって収束する。やはり、ウォーキングによって脳に新鮮な血液がめぐるからか?歩いてるときは非常に脳の状態がいい。

人を説得したり口説いたりするときも自然と頭が活性化することが多い。終った後で我ながら感心するような口説き文句、殺し文句が出たりする。が、それらは考えて出るものではないし、あれは何なのだろう。女性同士の会話にみる、速射砲のような言葉のやり取りと同じものかも知れない。コミュニケーションというのは思考というより、条件反射のようなもの。

女性がよく喋るのは、脳をスキャンすると分かるが、男の脳に比べて話す事や言語に関する部分が、非常に活発に働いている。この違いは、すでに幼児期からハッキリと現れている。子を持った親なら誰でも感じるのは、女の子は男の子より言葉が早く、2~3歳にして大人顔負けのおしゃべり能力を発揮する子もいる。大人になっても女性の単語数は男より多い。

また、女性は話ながら仕事をこなせる点で男と違う。電話をしながら料理したりは普通で、「セックスの最中に電話するか~?」とブチギレした知人がいた。よく言えば達人、悪く言えば集中力がない。電話しながら何かできることって、ウンコくらいしかないな。「朴訥」という言葉は女性にはなく、男の集中力の度合いは女の非ではないであろう。

何かに集中して黙り込んでいる男に対し、「何をそんなに真面目くさってやってんの?」、「もっとリラックスしたらいいのに?」などの言葉を女性から浴びることになる。さまざまな世界においても男に達人が多いのは、「凝り性」という男の性分に合致する。料理の世界でも女の料理は家庭料理、男の料理は極めであるのは、テレビの料理番組を見てもわかる。

女性と楽しく会話しながらウォーキングはできないし、一人で黙々と様々なことを考えながら歩くほうがいい。だからしないし、たまにしても黙して勝手に歩くので女性は迷惑この上ない。「何で私のスピードに合わせてくれないの?」これが女性流のわがままである。様々なことに、自分勝手は多いくせに、相手にそれをやられると面白くないようだ。

女性の散歩は山間であっても、街中と同じショッピング気分でゆったり歩きたい傾向にある。基本的に歩く目的が違うのだろう。散歩に行けば何か楽しいことがある、そう思って出かけるものかも知れん。つまり、「○○したら○○の得がある」などの成果主義は男よりも女にその志向は強いかも知れん。目をくばせて思考すれば男と女の様々な違いに気づく。

「女はかくありき」という事を知っている方がいいかも知れない。女も男を色々知れば、いちいち腹も立てずに済むことになる。昔、結婚相手にもっとも相応しいのは、「水商売の女」といわれたものだ。つまり、男の生態を知り、男を手の平にて転がす術を知っている。言葉を変えると「上手くてなづける」もしくは「男の扱いに長けている」ということ。

世間や親族は、「水商売の女なんかと結婚なんてとんでもない」というが、そのよさは資産家のわがまま娘などとは比較にならない。ミヤコ蝶々の若き日の想い出に悲恋がある。10代の頃から旅回り一座の座長として、田舎廻りをしていた彼女は長くで2、3日の公演で次の興行地に旅立つ。一人娘であり忙しくもあり、定住できないことで恋もできない生活だった。

男と少し話すだけで父親に大目玉を食う、そんな時代でもあった。そんな彼女を見初めた青年がいた。彼は和歌山のとある劇場主のぼんぼんで、蝶々追っかけとして巡業先をコッソリと訪ねてくれていた。彼女は監視のキツイ父母の目を盗んでは逢瀬のひとときを楽しんでいた。「どんなことがあっても必ず結婚しよう」、二人は堅い契りを結んでいた。

それから数カ月後、和歌山の彼の劇場に予定が組まれた。蝶々は劇場で彼の親に承諾を得、自分の親にも一切を話して一緒になるその喜びに胸が奮えていた。ところが、「旅役者の娘などと結婚させるわけには遺憾!」ということで、ぼんぼんは親の目に叶う女性を嫁に決めていたという。親にも一座の誰にもみせられない涙を、芝居小屋の布団の中で流したという。

以後、彼女は親の盲目的愛にから強く反抗し、あて付けもあって、一座のある男と駆け落ちを失踪したのだった。親は警察にも出向き、血まなこになって娘の行方を捜した。そして連れ戻されたという。むろん蝶々さんは16歳乙女と決別の春であった。親はげっそりやつれ、一気に年老いた風となり、厳しかった父もそれ以降は人が変わったようになったという。

着せ替え人形の如く、親に押さえつけられた子どもというのは、反抗や行動で訴えることで自我を獲得する。子どもの反抗を親はどういう風に受け取るべきかだが、そのことで自己断罪するしかない。殺されてみて初めて気づく親も多いが、殺されなければ分らない、気づかないなら、殺されるしかあるまい。当たり前だが殺されて気づいた親など一人もいない。

「中学のころから誘拐を考えていた」と供述した埼玉少女誘拐の寺内容疑者は、特定の難しい複雑な家庭環境であのようになったのだろうが、一つだけハッキリいえることは、道徳という視点は強く責められても、鬼畜という事ではないかも知れない。性欲むき出しの大人の歯牙にかかった8歳、10歳の幼女もいるし、監禁とうえ何時でも逃げ出せる状況といえよう。

少女の父親は、「娘の大事な2年間を台無しにした犯人を許すことはできない」と言ったが、酷な言い方かも知れぬが、2年間の長期に及んだのは逃げ出さなかった少女にも責任があろう。食料のほとんどはネットで購入しており、宅配業者が届ける。その宅配業者が「妹かと思っていた」ことからして、監禁という犯罪を微塵も感じない異常(?)な状況である。

これを果たして恐怖心を植えつけられたことに起因する心身拘束と言えるのかどうか、逃げたい一心なら、目の前にいる民間人に助けを求めないものなのか?色々なことが言われたり、分析もされているが、物理的に少女がそこを脱出できた可能性はいくらでもある。それが怖くてできない程に洗脳されていたといえるのか、できる事をしなかった彼女の責はどうなのか?

誘拐で監禁がいかに難しいかは、その物理的な状況を考えても分かろう。監禁者は留めようとし、被監禁者は隙あれば逃げようとする対立関係にある。逃げないようにするためには一寸の隙も油断もできないが、寺内の容疑者のケースは誰が見ても軟禁というよりもさらに隙があり過ぎである。こういう状態にして逃げないように精神を拘束できるものなのか?

物理的には宅配業者や外部の人に助けを求める手立てはあったはずだが、いかなる理由であれ、それをしなかった(できなかった)というには、精神的恐怖だけではない、居心地の良さがあったと見るのが自然である。勉強も塾も習い事もしなくていい、行かなくていい、一日中遊んで暮らして行ける、それを実現するのに然したる苦悩も困難もない状況といえないのか?

再度いうが、子どもにとって、「勉強も習い事もしなくていい世界に行きたい」は、子どもの憧れである。これは、今回の犯罪とは関係なしに考えた場合においての、子どもの純粋な願いではないだろうか?「ああ、勉強のない国へいきたい」、「勉強なんかなくていい」、そんなことを多くの子どもが願っているように思う。かつて自分も子どもであったから…

少女がそうであったかどうかは分らない。犯罪は著しくも犯罪であるが、犯罪を犯している容疑者の論理と、犯罪を犯されている少女の論理とは、同じ犯罪でもまるで違うだろう。我々社会全般は、犯罪を行為する論理だけしか思考しない。が、果たして少女の気持ちになれるかといえば、彼女の気持ちはこの世の誰にも分らないし、分らないから想像する。

犯罪は想像や動機だけで構成はできないが、物事は解明しなければならない事は多い。自供の得られない犯罪も、状況証拠として扱われる。状況証拠といえども、「状況」なんてものは裁判官の胸算様でしかない。人間の考えることは人間なら理解できるといいつつ、それでも少女の心を分かる大人はいない。少女にかぎらない、成人女性でも同じ事はいえる。

小保方晴子の本当の心の中を誰が分かろうか?彼女の心は彼女しか分らないし、彼女自身でさえ、分かっているであろう心を無意識に偽っているかも知れないだけに厄介となる。人間は自分のやったことを良いと思う努力をするもの。よって、真相なんてのは、本人も含め誰にも分らない。「事実はない。解釈のみがある」と言ったニーチェである。


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