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スニーカーって…?④

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1962年、オレゴン大学の伝説の陸上コーチ、ビル・バウワーマンと、オレゴン大学でビジネスを専攻し、バウワーマンの元で中距離ランナーだったフィル・ナイトの2人より創設されたブルー・リボン・スポーツ(BRS)社。これがナイキの前身である。同社は日本からオニツカタイガー(現アシックス)のランニングシューズを輸入、アメリカ国内で販売した。初年度の売り上げ合計はたったの8000ドル。

オニツカタイガーと提携の経緯は、1963年に大学の卒業旅行で日本に立ち寄ったフィル・ナイトは、オニツカシューズの品質の高さと価格の安さに感銘を受けた。ナイトはすぐさまオニツカ社を訪ね、アメリカでのオニツカシューズの販売をやらせてほしいと依頼。大学の陸上コーチだったビル・バウワーマンと共同でブルーリボンスポーツ(BRS)を設立し、オニツカの輸入販売代理業務を開始した。

初年度こそ8000ドルの売り上げだが、アメリカ西海岸地域を中心に販売好調となり、彼らはより高い利益を求めて1971年に社名をBRSからナイキと変更する。これはギリシャ神話の勝利の女神NIKE(ニケ)にちなんだもの。1977年、オニツカタイガーの競合社である福岡のアサヒコーポレーションとプロアスレティックシューズの国内生産・販売に関する独占契約を締結する。

「NIKE」ブランドのトレーニングシューズの生産を開始したが、その前にはオニツカタイガーの技術者引き抜きなどを行っていたし、義理人情や道義のへったくれもないビジネスライクという考え方は、日本人と比べて希薄である。つまり、初期のナイキシューズのほとんどが日本製で、アサヒコーポレーションで生産されていた。現在もナイキシューズは、中国製、ベトナム製が多い。

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オニツカ⇒アサヒへの切り替えは、まさにライバルメーカーへの鞍替えであったが、そんなことはバウワーマンたちには関係ない。ライバルとなり得るほどのよいパートナーを選んだに過ぎない。その後、オニツカ側がバウワーマンが考案したデザインやモデル名をそのまま使用し続けたために、BRS社から訴訟を提起され、タイガーオニツカ側が和解金1億数千万円を支払った。

アサヒシューズで馴染みのアサヒコーポレーションは当時、ブリヂストン、月星化成(現ムーンスター)と並ぶゴム製品メーカーで、1892年(明治25年)、創業者先代石橋徳次郎が久留米市で前身となる仕立物業「志まや」を創業した。1918年(大正7年)、個人商店組織を改めて社名を、「日本足袋株式会社」とした。1922年(大正11年)、履物史上の革命といわれる貼付式地下足袋を発明した。

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『誰もがみんなアスリートだ。アスリートが存在する限り、ナイキも存在する。』というビル・バウワーマンの言葉をもとに成長し、それから30年後のいま、ナイキは世界最大のスポーツ&フィットネス会社となっている。 が、ナイキの原点はフィル・ナイトであり、彼はオレゴン大学時代に将来を嘱望されたランナーだったが、スポーツの素質をビジネスの世界に活かして成功を収めた。

1959年、オレゴン大学で経営学の学位を取得後、スタンフォード大学のビジネススクールに進学、MBAを学ぶ。スタンフォード大学でマーケティングについての修士論文で、フィル・ナイトは低賃金の労働者を使って効率的な生産を行えば、競技用シューズのマーケットでアディダスやプーマといった、ドイツの大手企業がいる市場に参入できるのではないかという論文を発表した。

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スタンフォード大学を卒業した後の1962年、フィルは修士論文の内容を実際に行動に移した。日本のオニツカタイガーを探し出しシューズの発注を行った。1964年、日本からアメリカに帰国したフィルは、大学時代のコーチのビル・バウワーマンに力を貸してくれるよう要請した。ビルはフィルとチームを組むことを決め、二人で500ドルずつ出資しあい、ブルーリボンスポーツ社を設立する。

会社を始めた頃はフィルは、自分の車にシューズを詰め込み、各競技会場に販売しに行ったが、生活を支えるための収入も得れなかった。彼は食うために仕方なくポートランド州立大学で会計学を教える仕事に就く。社名をナイキに変更した1971年、いっそうシューズの開発に励んだビルは、ソール(靴底)のワッフルアイロンにゴムを注入するという画期的なアイデアを編み出した。

これはそれまでのシューズとは全く違うもので、現在のスポーツシューズの原型となった。翌1972年、フィルはナイキをブランドとして売り込むためにロゴマークを、勤め先の大学のグラフィック・デザイン科の学生キャロライン・デビッドソンにデザインを依頼した。出来上がったロゴマークは、ニケの彫像の翼をモチーフにしたデザインで、疾走、勢いよく動くという意味の「スウッシュ」と名付けられた。

スピードと躍動感を感じさせるものだ。キャロライン・デビッドソンが請求したロゴデザイン料はわずか35ドルだった。このロゴマークが後に莫大な価値を生むことになる。キャロラインはしばらくの間、ナイキ製品のデザインも手がける。この年にフィルは更にマーケティングの才を発揮する。スポーツの一流プレーヤーに報酬を出し、自社のシューズを履いてプレーしてもらうという販売拡大戦略である。

イメージ 5最初に契約した選手は陸上中距離のスティーブ・プリフォンテーンだった。スティーブは同年1972年のオリンピックで、メダルにもう一息の活躍をみせた。この頃からナイキは徐々に認知され、ブランドイメージも出来上がってきた。1978年の売上高は7100万ドルとなり、1980年に株式を公開する。1982年、ソール部分にエアクッションを入れたバスケットシューズ第一号となるエア・フォース1を発売する。
1983年、売上高が1億4900万ドルに到達。ナイキはNBAのヒーロー、マイケル・ジョーダンと契約、"エアジョーダン"は異常な人気を獲得し、世界的なムーブメントが起きるまでになったが、発売当初は全く売れず、在庫の山だったという。ジョーダンは新人離れした驚異的なプレイでオールスター選出、新人王を獲得するなどでスターの仲間入りをしたが、スニーカーの人気は一向に上がらなかった。

当時、ナイキのバスケットシューズの評価は低く、NBAで履く者はほとんどなく、ナイキと契約した選手は皆無だった。ジョーダン自身も希望するメーカーはアディダスだったし、そうはいっても、当時の常識では実績のない新人にシグネチャーモデルを用意するはずもなく、ジョーダンは仕方なしにナイキと契約したという、後ろ向きなタイアップだったこともナイキ不人気の原因だったようだ。

売れないながらも、"何か"を信じ続け、あくなきモデルチェンジをし続けたエアジョーダン。そのころNBAのルールは、「選手の履くシューズは80パーセント以上が白を基調としていなくてはならない」との規定があり、ルールからはずれるエアジョーダンにNBAは罰金を命じた。しかし、ナイキはこの罰金を肩代わりしてまでエアジョーダンを履かせ続けたという、ナイキの執念恐るべし。

ジョーダンの人気上昇とともに売れ始め、1986年には売上高10億ドルを達成、アディダスを抜く。1989年発売のエアジョーダンIVは大ブレイク、ナイキのシューズは若者の間で流行のファッションになっていった。スニーカーを巡って殺人事件が起きるほど社会現象となったエアジョーダン人気も、ジョーダン引退後は一時のブームはおさまったが、今もエアジョーダンは売れ続けている。

1990年代に入るとゴルフ、テニス、サッカー、フットボールなどさまざまな競技へと対象を広げ、タイガー・ウッズ、アンドレ・アガシ、ロナウジーニョなど多くのスター選手とのスポンサー契約を交わした。1993年、アメリカのスポーツ誌『スポーティング・ニュース』が選んだ「スポーツ界で最も権威のある人物」は、スポーツ選手でも、監督でもチームのオーナーでもなかった。

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選出されたのはナイキの創業家であり経営者であるフィル・ナイトである。一方で、この頃ナイキは問題にも直面した。ナイキは自社工場を持たず、製品デザインだけ自社で行った後、海外の工場に発注をかけるという方法をとっていたが、これが児童労働、低賃金、強制的残業などの批判を浴びるようになった。1999年、フィル・ナイトは「グローバル・アライアンス」を設立する。

グローバル=全世界的な、アライアンス=提携(関係)だから、合わせて「世界規模の提携」。ナイキは世界各国の多国籍企業の労働環境の調査を行い、労働環境の改善に取り組むようになる。幼い頃からスポーツマンで、特に陸上に力を入れていたフィルはオレゴン大学に進学し、コーチのビル・バウワーマンと運命的な出会いをする。バウワーマンはすぐれたトレーナーであった。

指導はもちろん、道具の開発なども手がけていた。「教え子たちに、ライバルより速く走れるシューズを…」、そんなシンプルな情熱がシューズ開発を行わせ、フィルは彼から多くを学んだ。彼がいなければNIKEも存在していない。1999年に引退するまで、ワッフルソウルをはじめ、数々の革新的なテクノロジーを次々に開発し、ランニングシューズの新しいスタンダードを作りつづけた。

フィル・ナイト会長も2016年に退任の意向を示している。彼も様々な名言を残しているが、「消費者がなぜ『ナイキ』の商品を買うのか、契約選手がなぜ『ナイキ』を愛用するのか。それは理屈の問題ではない。なぜか『ナイキ』を好きになる、な ぜか『ナイキ』を買いたくなる、なぜか『ナイキ』を履きたくなる。すべては感情の問題、すなわち「エモーショナル・タイ(Emotional Tie)」である。

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この言葉の裏には、1986~1987年の売り上げ18%ダウンの苦悩があった。ナイキの技術が産み出す機能に対するプロのアスリートからの支持は相変わらず続いていた。しかし、消費者は機能性よりもデザイン製を求めるようになっていた。消費者の要求に応えるため、ナイトは変革をアピールしたのだ。これにより売り上げは再び上昇、リーボックを抜いて再び首位に返り咲いた。


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