「秋葉原は児童ポルノと児童買春に溢れている街。東京、そして日本の警察機関は女子児童が性的コンテンツ、サービスにかかわることに対して甘すぎる」――こうした内容の報道は米国を中心にかなり頻繁に出回っている。援助交際という名の売春が、なぜ取り締まれないのか?そもそも、売春防止法第3条で、「何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」と定めている。
なのになぜ違法なことが放置されているのか?あるいはまったく取締りをしていないような報道が広がっているのはなぜなのか。一言でいえば、売春禁止法第3条に罰則規定が設けられていないからで、罪の認識はあれども、罰がないから横行する。ではなぜ、罰則規定がないのか?、「立証が極度に困難、かつ、徹底的な立証をしようとすれば人権侵害の非難さえ生じ得る」からだ。
確かに売春の定義は難しい部分がある。不特定多数の相手と片っ端から性行為をしたところで、そういう性向(いわゆる好色)の女が罪になるはずがない。愛を大事にしなさいと、セックスに愛を持ち込むような古い考えには抑止力がない。それだけ、婦女子の性の解放と主体性を社会が煽っている現状にあって、男はよくて、女はダメという論理に説得力がなくなったのは事実である。
やってる側にすれば「不特定」の対象であれ、やっているときには不特定であるという意味もなく、意識もなく、不特定の人間の中の任意の一人という意味なのだ。したがって、売春が何かを大ざっぱにいえば、対償さえ受ければ、不特定な範囲の中から相手を選ばないで性交する(つまり誰とでもやる)のが売春であるということになる。これを法解釈論にすればこういうことが成り立つ。
「自分が特定した相手と性交することは、売春の中には含まれない」。特定とは何か?「好きな人」、「カッコイイ人」、「性交してもいいと感じた人」、「自分の欲求が強くて我慢できなかったから…」などと、何とでも言えてしまう。お腹がすいて我慢できなかったから、カツ丼を三杯食っている女性を警察に通報する店主はいない。靴や洋服をいくつも買っている女性のどこが罪?それと同じ事。
性行為は相手がなければ敵わないし、これをどういう理由で取り締まれというのだ。売春の主体は女性に限らず、男性であっても差しつかえない。ホストクラブのホストが、金ピカババアと売春しているのは明らかである。売春が禁止されているなら、なぜソープランドが違法とならないのと同じ理屈である。あそこでの行為は自由恋愛である。というより、自由恋愛とみなすのが法解釈である。
つまり、恋愛感情における性行為を取り締まる理由がない。取締りの対象になるのは売春婦その者ではなく、売春をしようとする者が自らその相手方を勧誘する行為等のうちで、社会の風紀を害し、一般市民に迷惑を及ぼすものということになる。一般的には、言葉によって勧誘するのが普通であるが、身ぶり、動作によって行う場合もある。「公衆の目にふれるような方法」も対象となる。
公衆の目に触れる場所とは、「道路その他公共の場所」というより、やや広い概念でいえばたとえば、室内出てきてから路上の人を勧誘するような、いわゆる呼び込みも含まれる。法理論、法解釈によれば、売春行為そのものを規定するのは、逃げ道がたくさん用意されていて至難といわねばならない。成人女性でもお斯様であるなら、将来ある10代の女子を捕らえるのはなお難しい。
それをいいことに彼女らが立ち回っていたとしても、モラルはモラル、法は法である。妻がいるのに愛人がいる。愛人とは援助関係で成り立ってはいるが、「愛してます」と言うに決まっている。女子高生の援助交際を捕らえるなら、愛人関係もダメということだ。法は社会を律し、整備するためにあるが、適用不可能なものもあるということ。例えば金銭の貸し借りにおいて警察は無力である。
「1万円貸したのに返さないんです。すぐに逮捕して下さい」とは誰もいわないし、いえない。借りた金を返さないのは刑罰の対象にならないからだ。言い換えると、借りた金は返さなくても罪ならないなら、ほっといた方が得という人間もいるかも知れない。もちろん、民事訴訟の対象になり、損害賠償請求は可能。娘を殺されて民事提訴し、損害賠償判決が出ても支払われるのはマレだ。
さて、のっけの"秋葉原は児童買春に溢れた街"という海外報道や諸外国のイメージのような、日本の闇との捉え方対し、さらに注目が集まったのが2015年10月、国連人権理事会で「児童の人身売買・児童売春・児童ポルノ」に関する特別報告者をつとめるマオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏が、外国人記者クラブでの会見で、「日本の女子学生の13%が援助交際を行っている」と発言した。
実際この数字に根拠はなく、外務省の抗議により、ブキッキオ氏が発言を撤回する書簡を日本政府に送付するに至るが、問題なのは、「なぜこのような根拠のない数字が、積極的に海外発信されるのか」であろう。秋葉原で様々なJKコンテンツが生まれたことは否めない。”着エロ”と呼ばれる、着衣を着たままエロティックな撮影をするのが流行し、”着エロ”写真集やDVDも販売された。
”着エロ”ブームは現在は下火となったが、「着衣を着せたまま撮影できる」ことをヒントに、17歳以下の児童を使った着エロ写真・DVDが増え始める。これらは児童ポルノであるからして脱法行為であり、その後、着衣を着ていてもポルノに準ずるコンテンツに対し、規制がかけられている。以来、着エロ系コンテンツは年齢確認書類(免許証など)とともに撮影するなどの確認が取られるようになる。
秋葉原には駅周辺の目立つ場所にも大人のオモチャやDVD、ブルーレイ販売店があり、"清らか"とは言えない状況だが、かつては違法コンテンツを扱っていたショップも、現在は合法物しか販売していない。"児童買春の街"と指摘される事実においてはどうか?これは、、「JK散歩」、「JKリフレ」、「JK撮影会」が、いずれも風営法による届け出が不要な業態ということから急増した。
JKビジネスは、労働基準法違反、児童福祉法違反、児童ポルノ禁止法違反、興行場法違反など、現行法の範囲内で繰り返しの摘発が行われてきたが、2014年に17歳未満の女性従業員(現役女子高生は18歳も対象)の補導強化を警察が行ったことで、いわゆる"女子児童"を使った密室でのサービス店は衰退したが、上記のJKビジネスが児童買春の一役を買ったのは事実である。
それ以前のメイドカフェブームが一段落した2006年頃から雨後の竹の子のように乱立した。秋葉原は海外からの観光客も目立つエリアだが、なぜこの街でJKビジネスが発展し、未成年を使った性風俗などに発展したのかについて、ある業者は以下のように説明した。「性風俗店は新宿・池袋など、以前から業者の多い地域があるが、歴史的な背景もあって取り締まりが厳しかった。
また暴力団が支配する地域もあるため関係者からの"カスリ(売上げ搾取)"で利益を挙げにくいし、街が大きく中心部以外も家賃が高い。一方、秋葉原は暴力団にカスリを取られない上、中心街を除けば家賃が安く、独身男性客を集めやすい。実店舗を構える場合も、秋葉原の中心から離れて神田須田町や末広町ならば取り締まりも比較的緩くなり、風俗営業許可も取りやすいのが実情。」
"秋葉原"のブランドを使って外郭地域でビジネスをしやすいのが理由のようだ。AKBシアターがあり、メイドカフェが軒を並べる秋葉原周辺に、「JK」をイメージさせる風俗が集まってくることは否定できない。思慮未熟な少女たちが、お金欲しさに密着サービスに走らないよう監視し、警察に自ら情報を出して取り締まり強化、といった自主規制連動があれば、街のイメージは損なわない。
未成年の少女が風俗産業へと足を踏み入れていく、カラダを売って合理的にお金を得るというのは、深い理由あってのことではない。あまりの造作無い動機であって、かつての売春婦とはまるで違う。なぜ、このような時代になったのか?カラダを売って生きていくのは、底辺の女として見られた時代であるが、今では底辺も上辺もないのだろうか?どうにも女子の自尊心の欠落に思えてならない。
もう一つ、彼女たちのアイデンティティのなさと、付和雷同主義に陥る民族性もある。みんながやるからやる、例え罪悪感があっても、自分だけじゃない普通の子もやっている、進学校の子もいる。それが罪の意識を薄めてしまう。人は人、自分は自分というより、人は自分、自分も人(の範疇)と、多勢に自分を押し込め、「個の尊厳」をないがしろにする。この点、自己に生きる欧米人の方が勝る。
かわいい格好で接客や散歩をするだけ、うたい文句の誘い水に簡単に自身のハードルが下げる日本の女子高生のモラルを高揚させる教育はないのか?いや、大人のモラル、親のモラルの低下にあって、女子教育だけを掲げてみるのもおかしなこと。かつては不良、今は「普通の子」が被害者となる。売春は罰なき犯罪だが、児童買春は思春期の不安定な心のスキをつく犯罪だ。