長谷川豊元アナが、7日の『そこまで言って委員会』に登場、ベッキー問題に持論を説いたが、あまりのこじつけ発言、独善的妄想発言に論客が一笑。得意の「煽り」も「斜め読み」も、こわもておっさんには相手にされず見るも無残。ネットでは「バカかコイツは」などといわれても顔の陰影は見えないが、テレビでの醜態に対する嘲笑は無様さ丸出しである。
小泉県議事件というのがあった。医者で名前で呼ばれず、番号で呼ばれたと立腹した県議が、一部始終をブログに書き、そのあまりのバカさがネットいなごの標的にされた。自分は彼に対する批判より、56歳にもなってこういう無知な人間もいることに驚いたが、他人の言動の不備を、恰好のターゲットと待ち構えるネットいなごどもは、容赦はしない。
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小泉県議は炎上ブロを閉鎖、17日に謝罪会見したが、25日早朝、岩手県一戸町の大志田ダム付近で車の中にいるところを通行人が発見した。概に死亡し、目立った外傷はなく、体内からかなりの量のアルコールが検出された。遺書もなく死因は特定できないが、急性アルコール中毒や低体温症などによる事故死の可能性も含め、詳しく調べることになるも、状況からして自殺であろう。 人の自殺の要因はなかなか特定はできないし、推察するしかないが、ブログで非難・罵倒されたうえ、フジテレビの「特ダネ!」がしつこく追いまわしたこともないとはいえない。自殺の報を受けた小倉キャスターは、「こういう結果になって大変残念です」とだけコメントした。罵倒したネット住人どもは、潮が引くように去っていった。エサあるところに集り、食い尽くして飛び去るイナゴのように…
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「レジェント」なる言葉がある。各界にその名を留め「レジェント」がいる。現在テニス界でレジェンドとされるロジャー・フェデラーだが、「フェデラーはテニス界の老害」という記事があった。フェデラーのような実績もあり、美しいプレーと定評のある現役テニスプレーヤーを「老害」とする偏執者に誘発されて反論する者もいる。このような批判待ちを意図する突飛な発言には反応すべきではない。
匿名で秘匿性をいいことに何でも言えてしまう「2ちゃんねる」のような文化を生んだのも、人は孤独にいたたまれないからであろう。まさにネットは独善的な「虚構新聞」であり、誘い水をかけて人が集まれば「虚構広場」となる。他人を平気で傷つけようとの悪意の声が無数に集まれば、さぞかし苦悩に至るであろう。2年前だったかある岩手県議が病院で自分を番号で呼ばれて腹を立てた。
「俺は客だぞふざけるな」と恫喝、会計をすっぽかして帰る。収まらぬ怒りを自身のブログに書き殴ったのはいいが、それに非難の書き込みが轟々と寄せられた。ブログに設けたコメントなので、本人も当初は、「会計をすっぽかして帰ったものの、まだ腹の虫が収まりません。」、 「このブログをご覧の皆さん私が間違っていますか。」などと応対していたが、あまりの非難の多さに閉口する。
・キチガイですわ
・ばっかじゃねーの?
・何様のつもり?公僕のくせに
・金を払わず帰った? 犯罪者じゃんw
・こういう世間知らずな奴が県民の目線で政治ができるのか?
・駄目だこいつ、岩手の恥
・こういうゴミこそ地震で死ね、小泉みつお
・市役所や銀行行ったことないのかよw
・ケツの穴の小さいおっさんだな。死ねばいいよ。
・ホームラン級のクズ、マジで死ねば良い
・客じゃねぇよ患者だよ死ね
・老害すぎる……死ねよもう
・俺はこいつに面と向かって「死ね」と言えるよ。
・ばっかじゃねーの?
・何様のつもり?公僕のくせに
・金を払わず帰った? 犯罪者じゃんw
・こういう世間知らずな奴が県民の目線で政治ができるのか?
・駄目だこいつ、岩手の恥
・こういうゴミこそ地震で死ね、小泉みつお
・市役所や銀行行ったことないのかよw
・ケツの穴の小さいおっさんだな。死ねばいいよ。
・ホームラン級のクズ、マジで死ねば良い
・客じゃねぇよ患者だよ死ね
・老害すぎる……死ねよもう
・俺はこいつに面と向かって「死ね」と言えるよ。
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コメントも最初の方は、県議の無知をあざ笑うものだったが、ひとたび「死ね」が現れると、どうにもならないくらいの罵詈雑言と化して行く。「死ね」以上の罵倒はないのか、そうと言わんばかりの「死ね」、「死ね」、「死ね」のオンパレード。この県議は、自分の無知を詫び、病院に対しても謝罪の文を寄せたが、一向に「死ね」攻撃は収まらない。他県から「出稼ぎ」ならぬ、「出罵倒」者も増すばかり。
誰かが「死ね」といえば、同じように「死ね」と言い、それを見た人がまた「死ね」とつぶやく。みんなが言うから、自分も言っていいとなる。自分もみんなの一員で、こうして「死ね」が連呼される。まさに呪詛の大合唱の連鎖である。呪詛とは、神仏や悪霊 などに祈願して相手に災いが及ぶようにすることだが、見ず知らずの人の発言なり言動について、呪詛の合唱連呼をし、何が満たされるのだろう。
秘匿を拠り所にした覚悟のない連中、一対一で対峙できない気弱な連中が、集団に埋もれ、屏風に隠れて自己主張をするのでは?他人のブログに「通りすがり」というお決まりのハンネ、あるいは匿名、偽名で好き勝手をいう輩の通例だ。斯くの輩は自己のブログで主張はしない。まあ、「死ね」を暴言とも思わない、罪の意識もないのだろうが、姿形を現した人間にその罪を追求するなら、このようにいうだろう。
「そんなつもりで言ったんではありません。みんなが言ってるんで、自分も気軽につぶやいてしまいました。すいません、反省しています」。何事も後々謝罪する人間というのは、謝罪と言う嘘を弄する事が多い。ベッキーがいい例だ。理性が欠けている輩は、失敗する前に学べないのだろう。だから謝罪のフリをして誤魔化すしかない。日本人は何だカンだといいながら、腰を折った謝罪が好きな人種である。
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子どもの犯した罪を責め、謝罪を要求する親は、子どもが嘘つきになるのを助長しているようなもの。「○○してはいけません」が口癖の親も、子どもを嘘つきにする。何かを失敗するたびに、「だからいったでしょう?二度と○○してはいけません」などと言われ続けると、子どもは失敗した理由より、失敗そのものがいけなかったと感じる。あげく、できることでも、「できない」と嘘をつくようになる。
どんなことにも興味をもってやる子は、上手く行く、行かないなどの結果はどうでもいいこと。「やってみる」、「やりたい」の実証主義を大事にするし、子どもの本質を見抜く親なら失敗を咎めたりしない。いいかえれば、失敗を叱り、咎めたりすると、子どもは萎縮して何もしなくなる。嘘をついて自分や周囲を誤魔化すよりも、嘘をつかない勇気を子どもに与える親が、真に優れた親であろう。
子どもの本心を大切にすべきか、親の理想を子どもにかぶせるか、どちらであるべきか?については親の意見も分かれるところ。で、多くの親が子どもをブランド浸けにする、あるいはブランド浸けに失敗する。反対に多くの子どもの本心は無視されるのが、一般家庭のようだ。「本心」といっても、ない子もいれば、ある子もいる。その前に「本心」とはなんであろうか?それが本当にあるのか?
そう問われれば、これの存在を証明し、その内容を明確に説明できるものではない。大人でも難しいなら、子どもはなおさらだ。「自分の本心に問うてみろ」、「それがお前の本心か?」、「本心からいうけど、君が好きだ!」などと我々はいい、すべての日本人は当然のごとく、「本心」の存在を信じている。上司が部下に「本心に問うてみろ」といい、「本心なんて、そんなものないっす」と言えばどうなる?
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おそらく上司はその部下を信用しなくなる。いい加減な奴だと思うであろう。「本心」がないならすべては嘘の心、「邪心」と捉えられるからだ。そこでまた、「本心」とは何?「邪心」とは何?ということになる。「本心」を強調するのは、人間は自らの心に忠実に、正直にいきていないのだろう。自分の「生」なのに、なぜ自分に正直に生きないのか?それは、正直に生きることに「得」を見出さないと思うからだ。
人が「嘘」をつくのは、「本当」をいうより「嘘」の方が自分に「利」があるからで、ならば「本当」をいう場合は、「本当」に「利」を感じたときか?人は自分の生に無意識に「利害」を重ねているのでは?それほどに人は「利害優先」に立ち回る?おそらく自分は、思うところを正直にいいたい人間である。利害に蹂躙されているとは思わないが、無意識の部分はどうか?
ここは嘘を言おう。ここでは本当を言おう。ではなく、人は嘘も無意識についているのでは?無意識に利害を判断し、無意識に嘘をついている。人は「本心」に対して正直である方がいいが、自尊心が邪魔をする。「邪心」とは自尊心が「本心」を邪魔した形。人間は、人間対人間の関係において、十分な精神武装をして付き合っているはずだ。人間関係も無意識の部分が多い。
どうしても相手を自分の思う方向に向かわせるように、首を絞めてでも持って行かなければならない。であるにも関われず、人は、誰かは、「本心に戻れ」というのである。自らが「本心に戻れ」と内なる叫び声を上げる人もいる。自己を規定できずに鎧をかぶるのが日本人的ではないか、そんな気がする。人が人の悪口を言う場合は、単に悪口であり、他人への誹謗中傷も愉快でたまらないようだ。
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人がいうから面白いのか、個人的に愉快だからか、人それぞれだが、他人を蔑み、ボロクソをいう人間の多くは自身の「内なる基準」は何ら明示しない。「バカ」といえば、言われた側より、言った側が上位にあるというバカが多いのかも。子どもの喧嘩にこういうのがある。「バカ」といわれた子が、「バカっていうものがバカ」と言い返す。それが「バカ」と言われた防護策。
言い返されて困り、「なんだと~!もう一辺言ってみろ!」となる。つまり、「バカというものがバカ」は効果があったことになる。大人は少し違えていう。「お前バカか?」に対し、「自分のことを棚にあげて、よく人をバカっていえますね?」みたいに…。以下は自分のブログの実例。「○○さん、正直にいうと書いてることがあまりにバカなのでとりあえず指摘しておきます。」
に対し、「一体ご自身をどの立場に置いて物を言ってるんでしょうか? 尊敬を買う人徳と品格に満ち溢れた非の打ち所がないと勘違いされているのでは?」。どこから引用したのか、まったく「場」にそぐわない。まあ、過剰に反論し、よい言葉で相手をとっちめようとの思いが見える。それにしても、「尊敬を買う人徳と品格に満ちた非の打ち所がない」は、笑止文例也。
「虚々実々」には様々な意味がある。策謀を尽くして腹を探りあうの意味もあるが、虚実を強めた言葉として、何が本当で、何が嘘なのかわからない様子にも用いられる。世の中にあっては、何が本当で、何が嘘かハッキリ分かるより、虚々実々を良しとし、面白さを感じる昨今である。