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煽る人・煽られる人

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昨日記事にした長谷川豊という元アナには、煽り癖があるようだ。で、今後彼には一切反応しないを決めた。彼はベッキーが自筆のメッセージを3日に出す予定と公言していたらしい。それがなくなったことで、「正直言って…ちょっと信じられない展開ですし、色々と言いたいこともあります。情けないやら呆れるやら…」などと、自ら被害者を装い批判を交わす。

今さらベッキーの言葉になんの興味も関心もないから、彼の戯言を攻める気もないが、結婚して間もない夫の女性関係で愚弄された妻の心情は理解できる。「女グセの悪い男と判っていて、結婚したお前が悪い」という言い方を長谷川はするが、それでも自分を選んでくれたという喜び、幸せ感を抱いた女の心情である。男で一番タチの悪いのは、そこを利用する奴。

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川谷を支えた妻のように、男にぞっこん惚れた盲目的な女であるなら、何をやったところで文句は言わない、じっと我慢をするだろう、そういう驕った考えになり男はいる。もちろん、女にもいる。「結婚してあげるから、何でもわたしの好きにさせて、自由にさせて」に対して、「ハイ」という男も世の中にはいる。川谷妻も好きな男であったなら、近い心情であったろう。

だからといって、そういう事をじっと我慢しなければいけない理由はない。「飼い犬に手を噛まれる」という比喩があるように、人も生き物も生身である。どこまで我慢をするかは分らない。結婚直後に、「大切な人がいる。別れて欲しい」と言われて、「はい。判りました」という女だと思ったのだろうか?でなければ、あり得ない結婚、あり得ない非道な行為である。

罪が罪を呼ぶ。川谷の妻が愚弄されたことで起こした怒りの行為を罪というのは、そこの浅い人間である。彼女と同じ境遇でない他人が彼女を理解するためには、自分が同じ立場ならどうするも含めて考えること。自分を相手に置き換えて思考してこそ、正しい考えに至れる。それがなされないから傲慢になる。すき放題にいえるし、いじめもやる側だけの論理だ。

いたずらっ子だった自分は、他愛もない言動をよくした(いじめの認識はなかったが)。ある女の子がクラスにいた。親が便所の汲み取り業であることから、皆が「衛生車」というあだ名でからかっていたものだから、自分もつい本名を呼ばず、「衛生車」と呼んでいた。席替えでその子の前の席になったある日、急に後を振り返って、「おい、衛生車!」と言った。

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何の用事も理由もなしに、その言葉だけを彼女に向けた。その時の彼女の顔は今でも忘れることができない。彼女には何の罪もなく、いわれもない親の職業である。当時は水洗トイレはなく、どこの家庭も汲み取り式であったし、必要不可欠な職業であった。なのに「衛生車」と見下げる子ども。彼女を「衛生車」でなく、初めて姓で呼んだとき、どう感じたのだろう。


自分が衛生車を言わなくなると、周囲も言わなくなった。当時は思わなかったが、そういう影響力が自分にあったようだ。「だったら、よい影響力になりたい」と、ガキはそんな殊勝なことなど思うはずもなく、。良くないことを、良くないと感じて止めただけ。それができる素直さ、柔軟性がまだ自分にあった。無言の彼女から、とてつもない大きなもの、大事なことを教わった気がする。

生き方や人生の転機になるようなことは、自然ここに綴られ、書き留めて置きたくもなる。自分の知識や理屈をひけらかすために、本や文を書く人はいる。「どうだ、俺は賢いだろう?」と言わんばかりに…。そうではなく、読み手のひとりひとりが、自分の考えを練っていくための支えになればいいと、控え目に思う気持ちを差し出す人に、人間として好感をいだく。

「○○だ!」、「○○である」などの断定口調は、日本人の好まぬところで、「○○のように言われております」などの言い方が日本人に受け入れられるという。後者の言い方を、『村落共同体用語』といい、これを多用した海部俊樹元首相がリーダーたる資質を問われた。「尖ったこと、目だったことをいえば嫌われる」、そういう村落共同体の一員の論理であろう。

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そういう気づかいばかりしていると、自分自身も曖昧になりかねない。批判は是であり、批判は恐れてはいけないが、必ず批判の理由や代替案を添えるようにしている。感情的、恣意的な批判に説得力はなく、自分自身さえ納得させられない。たがするためだけの批判は、有吉やマツコなど、見る側には面白く、いっときの気晴らしにはなれど、何ら腹の足しにはならない。

自己顕示欲の権化の如きパフォーマンスを旨とする批判を長谷川豊にみた。捨てる神あれば拾う神もある。彼のファンもいるようで、それはそれで結構なこと。知識を振り回さず、何よりも知恵を提供することに意味を感じる。大きな声(大文字、赤文字)を出して、何かを強調するよりも、穏やかに、静に、いくぶん低い声で、私情に流されず、客観的に諸事を見つめたい。

そういう理想はあるが、未だ遠い道だ。優越感に端を発する文は、スパイスの如く効用はあるだろうが、あまり栄養にならない。読者を驚かせようばかりに躍起になるとついつい無理をして嘘を必要とする。長谷川の書き込みにそれを感じた。同時に小学生の頃にあったある事を思い出した。ガマの油売りならぬ、切り傷がピタリととまる軟膏を路上で実演販売するおっさん。

大勢の子どもや周辺の大人たちが囲んでいた。自分の腕に切り傷をつくって、そこに軟膏を塗りたくる。と、あれよ、みるまに血が止る。おそらくワセリンのような物だったろうか。そのおっさんが、店じまいするとき、「明日ここで、コブラを笛で踊らせるから見に来てや」といい、楽しみにしていた。次の日、友達数人を誘ってそこに行ったが、待てどもおっさんは現れなかった。

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友だちには悪かったが、あのときほど大人の嘘を罪だと思ったことはない。おっさんの嘘(罪)を父に言ったが笑うだけだった。単なる「子ども騙し」と思ったのだろう。「子ども騙し」とは、子どもだから簡単に騙せる嘘の類をいうが、子どもを騙していいという訳ではない。成熟した大人を騙すより、年端もいかない子どもを騙す方が、罪深いと思うのだが…。

次の日に来ないのなら、来るつもりもないのなら、そんな嘘を言う必要はなかったはずだ。来ない場所に子どもを集める必要はなく、なんであんな嘘を言う必要があったのだろう。おそらくおっさんは、その日子どもにいい人ぶりたかったのでは?明日のことなど頭になく、考えもせず、その日、その場において、"いい人"ぶりたかったのだ。そう考えないとつじつまが合わない。

世の中には"いい人"ぶりたいが元の嘘はある。また、自分はいろんな情報を持っているんだと、ひけらかせたいから嘘をつく者もいる。そういう人間はよく嘘をつくが、「すいません、予定が変わったみたい」と詫びをいれればシンパは許す。故意、作意の嘘とは思わず、アクシデントを理由にするからだが、そんな事が続くと、「なんだ、こいつは嘘つきか」という風になる。

自分の知識や信じるところ、言いたいところを申し立てる人はいる。が、それらは単に御高説拝聴に終る。その場合、読者は受動的にならざるを得ないからだ。同じ受動的であって、自分の見たもの、感じたことを議論としてではなく、観察的に読者に指し示し、注意を促すことが望ましい。さすれば、指摘する方向に視線を向け、「なるほど」と、同感も得られる。

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ま、中には「そんな事はないだろ」の批判もあるが、それは世の常である。が、最初からあきらかに批判や非難を狙った書き物は、ある意図が見え隠れするし、サーカスの空中ブランコの曲乗りのようでもあり、新興宗教の教祖の歪んだ言霊の様でもある。「観察」という視点が大事と思うが、観察とはアサガオの観察、チョウの羽化の観察といいかえればわかろう。

ありのままに見たものをありのままになぞる…、これが難しい。特に子どもよりも大人の方が難しい。なぜなら、子どもは見たものだけを書くことしかできないが、大人は見えないものを想像し、推察し、仮説構築力なども必要となる。さっぱり想定できない事象を、単に自己満足的決め付けで、「やった!」といってみても、自己満足以外の何であろうか。

知らないことは調べるしかなく、調べること=考える要素となる。また、嘘を読み解く素養も必要だ。最近はこれをリテラシーと和製英語で使っている。嘘を見破る方法としては、最初から「疑いの目で見る」のは正しい理解とならず、対処さえも誤ってしまう。嘘かどうかを判断する場合に大事なのは、その事と現実とのギャップであろう。そこを考えれば嘘を盲信ないで済む。

また、嘘を見抜くためには知識・教養もいるだろう。一口に知識・教養といっても質もあるし、嘘の種類もさまざまで、見抜けない嘘もある。もう一つ大事なのは、危機を煽る人に嘘が多いということ。これを理解し、心しておくほうが術中にはまらない。危機を煽って不安にさせれば、嘘も信じやすい。マスメディアにも嘘が充満している。それで放送休止になった番組もある。

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マスメディア従事者には、世に警鐘を鳴らすのは自分たちという使命感に似た驕りがある。それが常に絶対的な「善」になれるとの思考停止に及ぶ。何かを煽る長谷川豊の書き込みにはその傾向が強い。つまり、彼は嘘を嘘と思わずにいうクセが沁み付いている。言った事がハズれればスルーし、当たれば「ほら、ボクの言ったとおりでしょう」と言えるわけだ。

テレビなどに健康や食品の害を煽る番組が多いのは、とりあえず「危険だ!」と煽っていれば、リスクは少ないうえに、職業的倫理を問われることもない。自分の発言に責任を取ろうと言う覚悟などは絶対になく、危機は煽っておけば安全だという構造が根底にある。


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