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『歩くことについて語るときに僕の語ること』

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     1日  16752歩   11391m  93/分
   2日  50733歩    34498m  91
    3日  24744歩    16825m   90
   4日   8300歩      5644m    73
   5日   5523歩    3755m  89
   6日  24105歩  16391m  91
   7日  11994歩      8155m  94
   8日  17575歩  11951m  91
   11日  21112歩   14356m   96
    12日  34993歩    23795m  91
    14日  17676歩    12019m  94
   15日  22929歩    15591m  94
   16日  23364歩  15887m    83
   18日  20669歩  14054m    94
   20日  17656歩  12006m    95
   21日  17466歩   11876m   96
   22日  39348歩   26756m  92 
   25日  13266歩      9020m   92
   26日  17104歩   11630m   93
   27日  22650歩   15402m  93

    Total  427959歩   295002m

イメージ 1

福島駅から295km地点は、岩手県二戸市金田一温泉駅辺りとなる。金田一温泉は、岩手県二戸市、馬淵川のほとりにあり、観光宣伝では温泉郷を名乗っている。ちなみに金田一といえば、横溝正史で馴染みの私立探偵金田一耕助、言語学者の金田一京助等、金田一を姓とする金田一氏は、南部氏の祖南部光行の第4子の四戸氏の出とされる。

金田一という馴染みの薄い苗字は、国語辞典に初めて金田一京助の名を見たときは、金田(かねだ)一京助(いちきょうすけ)と勝手に誤読していたのも無理からぬこと。生まれて年を重ねるにつれて、周囲のいろいろなものが目に入る。耳に入る。さまざまな言葉、それらからなる知識、雑学。いろいろな人との出会い、人から耳にすること、おりなす出来事。

一切を体験という。成長とも言う。いつまで成長するのかわからないが、成長が終ると退行していくのだろう。一切が体験ならそれも体験だ。走ったり、ゆっくり歩いたり、あわてたり、のんびりだったり…、すべてが体験だ。成長は止っても体験は永遠に重ねる。歩くというのは進むための動作で、わざわざ体験という言い方をしないが、長い距離を日課とするば立派な体験だ。

村上春樹に、『走ることについて語るときに僕の語ること』というタイトルのエッセイ集がある。ジョギングもウォーキングも趣味の領域である。それらは、釣りやゴルフやテニスとちがって釣果があるわけでなく、ゴルフや釣り船も接待として利用もされるが、ジョギング、ウォーキングそれはない。遊びというほどに気楽に楽しめるものでもない。いささかハードな運動となる。

イメージ 2

続けることは、「克己心」としかいえないものであろう。マラソンランナーしかり、素人ランナーしかり。春樹のエッセイにはこのようなセンテンスがある。「もし、忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。

僕らにできるのは、その『ほんの少しの理由』をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。」というが、「走る」を別の何かに変えてみると、多くが当てはまるだろう。春樹は「継続」の奥儀をうまく言葉にして伝えているようだ。瀬古利彦といえば、かつて日本を代表する偉大なマラソンランナーである。そんな彼に春樹が問う。

「瀬古さんくらいのレベルのランナーでも、今日はなんか走りたくないな、いやだなあ、家でこのまま寝てたいなあ、と思うようなことってあるんですか?」。「(なんちゅう馬鹿な質問をするんだという声で)当たり前じゃないですか。そんなのしょっちゅうですよ!」と瀬古は答えている。偉大なマラソンランナーはそのように言うけれど、春樹はこのように汲み取っている。

「マラソンは万人に向いたスポーツではない。小説家が万人に向いた職業でないのとおなじように。」たしかに、マラソンランナーは特別な職業であり、市民ランナーとの区分けは当然である。が、マラソンは無理でもジョギングはできる。ジョギングが無理ならウォーキングがある。そのウォーキングが無理というなら、コタツでテレビを観ることができる。

イメージ 3しない選択はあるが、何事も始める前と始めてみた後では違う。やってみないと、自分に合っているかどうか、考えて見たところでわかるものではない。ジョギングを始めて、体調がいい、肩こり・腰痛がなくなったという人はいる。なるほど、健康はタダで買えるようだ。心身両面で苦しい部分もあろうが、お金を出してジムに行ったところで楽をさせてくれるのではない。

タダでできることをわざわざお金を出したい人も、それはそれだが、克己心で続けるならそれもそれだ。春樹はまたこのように書いている。「サマセット・モームは、『どんな髭剃りにも哲学がある』と書いている。どんなつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい。」

「つまらないこと」、「くだらないこと」、というのは、その人が「つまらない」、「くだらない」と思ったものである。あまりそのようなことを思ったことはないし、いかなるものの中に何かの価値を見つけると、つまらなくなくなる。くだらなくもなくなる。何事もやらぬよりはやる方が価値は高い。やる価値があって、どうせやるなら、熱心にやるだけの価値と捉えて良さそうだ。

「たかが○○、されど○○」という言葉も、多くのものに言い換えができる。「そんなことをやる時間も暇もない」という人はいる。その人にとってはそうであっても、もっともっと忙しい人は、「時間や暇は作るもの」といってちゃんとやってのける。できない人は時間を作らないだけで、イコールやる気がないことになる。自分は横着で怠け者でグータラな性格である。

言葉を変えると怠情という。怠情だから続けられるし、熱中できると思っている。つまり、自分を怠情と認識するからこそ、自分の意志力だけで何とかしようとするのではなく、自分の性質と様々な環境をうまく利用し、「続けざるを得ない仕組み」を作ってしまう。その方が俄然、効率がよい。しかも楽にやれる。努力は現状の自分に満足できないからするのである。

だから、とりあえず現状の自分に満足している自分は、本質的に努力のしようがないし、する必要性を感じない。そういう場合は、自分に対してのマイナス評価を与えてみる。自身という総体の座標軸に現在の自分をマッピングしたとき、「もう少し上にいける」という評価を自身に感じた場合、努力することに意味がでてくる。まあ、それも一努力である。

イメージ 4自己評価を高く、もしくは、客観的な自己評価を持たぬ場合、努力など始まらない。「自分はバカだから」といいつつ何もしない、「自分は横着だから」といいつつ横着のまま。そういう人は「バカでいい」、「横着でいい」などといわなくてもそうでしかいれないんだから、黙っていればバカでいれる、横着でいれる。自己評価もそうなら他人の評価もそれで済む。

自己評価も他人の評価も、それでは嫌だから変革を望む。そのための努力である。「自分は○○だから…」という固定的な自己批判は、決して批判ではなく安易な自己肯定であるから、「だから何なんだ?」と、他人の目にはそしかならない。甘美な自己批判に甘える人間は、他者の辛辣な批判に晒され、自尊心を破壊されて変革するなら救いようもある。

子どものころからのクセなのか、すぐに自分を責めてしまう人間がいる。責めるのは責めるが、責めるだけでそれで終る。こういう人間はウソにウソを重ねているだけだろう。自己嫌悪とは、自分を嫌うこと。自分を大切にしないこと。つまり自分自身に自信がもてないことである。だからウソをつく。自信をもてないからウソをつき、さらに自信をなくしていく。

ひいては、「自分はウソつくなんだ」という自己肯定感に陥り、ウソつきらしく徹底的にウソをついて生きて行く。かつてこういう女性がいた。最初は気づかなかったが、あることから不信感を抱き、すると相手は開き直って次のように言った。「自分はウソつきだから、ずっとそれで生きてきたし、これからもそうしか生きていけない」。この言葉に人間の怖ろしさを見た。

「自分はウソつき」と人に言える人の多くは、自分は誰からも好かれていないと思っているようだが、なぜそのように思うのか?つまり、「自分は誰からも好かれていない」の裏にあるものは、自分が自分を嫌っているからである。他人から好かれない自分をどうして好きになれるだろう?あるいは、自分を好きになれなくて、なぜ他人に好かれよう?

後先は関係なくそういう人。「どうせ、自分なんか」の言い方は卑屈であり、卑屈の根源は向上心のなさであり、向上心は横着な人間に根づかない。自分を嘘で固め、偽りの自分を演じて他人に好かれようとする。多少は誰にもあるが、バカげたことと思えたとき、自分に正直に生きて行こうとする。いい人ぶるより、地で生きる方が楽である事に気づくからか。

イメージ 5

「ベッキーってあんな人間だったの?」、と前言を訂正する芸人仲間も出てきたようだ。なぜ「いい子」に見えたかは、自分への彼女の接し方が好意的だからであろう。「いい子」というのは様々な人間に対し、様々に好意をもたれるよう接する才能がある。「いい子」、「いい人」を額面どおり受け取る前に、あまりに好意的なのは嘘もあろうと距離をとって見るべし。


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