ソクラテスの弟子がプラトン、プラトンの弟子がアリストテレス、アリストテレスの弟子テオプラストスを知らぬ人は多い。そのテオプラストスの名言に、「時は人間が消費しうるもっとも価値のあるものなり」というのがある。好きな言葉だ。"時間を消費する"の言い方は普段なにげに使うが、ドラッカーも、「人は時間の浪費家」、「時間は経営者にとって最も重要な資源である」と言った。
時に、「人生は不公平」と思うが、公平であるはずはないと思えば、不公平も不満とならない。「恵まれた家庭に生を受けた人」はいるが、羨ましいとため息をついても仕方がない。自分に与えられた境遇で満足を得れるよう生きたらいい。不公平は数多存在しても、誰にも公平に与えられたものが時間である。時間が資源なら、なんとも平等な資源を人は有している。
どれほどの億万長者であっても1日は24時間。どんな有能な科学者であっても1日は24時間。分刻みのスケジュールを忙しく立ち回る首相や大統領であれ、1日は24時間である。お金は使わないで節約できるが、時間の長さは変えられない。「時間がない、もっと欲しい」と思うことはあろう。逆に、「長くてイライラする。もっと早く時間が進んでくれないか」と思うこともある。
が、24時間は変わらない。秒に換算すると86,400秒だ。1、2、3、4と、86,400回数えると1日が終る。待ってはくれない、止ってもくれない。時計が止まるのは電池切れ…。大切な時間と思うか、時間は有り余ると思うか、いずれにせよ、我々は時間を浪費している。テオプラストスもドラッカーも人は時間の浪費家といった。浪費がいけないというなら何をすればいい?
24時間は86400秒。過ぎれば早いが、数えると長い。1日の長さは公平でも人の一生は不公平。一生が80年なら29,200日。90年なら32,850日となる。70年なら25,550日。どれを選びたいと問うなら、誰もが32,850日という。いや、自分は30,000日程度でいいという人もいるか。が、20,000日では嫌だろう。20,000日は54年と290日。確かに短い、嫌がるのも無理はない。
なぜ、長く生きたいのか?答えはいろいろだ。「1回きりの人生だから」が標準的な思いか?せっかく与えられた生なら、長くこの世に留まっていたいというのは素朴な理由。「やりたい事があるから」という人もいよう。何をやりたいかは人それぞれだが、長く生きていたい十分な理由となる。世紀の大天才スティーブ・ジョブズは、わずか20,718日の人生だった。
彼は生前こんな風に言っていた。「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やる予定を本当にやりたいだろうか?」。これは、スタンフォード大学の卒業祝賀スピーチのなかの言葉だが、ジョブズは毎朝鏡を見て、自分にこう問い掛けるのを日課としてきたという。常に自分が死と隣りあわせである事を忘れるなと、いつか自分は死ぬと思えば、屈辱や挫折や失敗の恐怖なんか回避できるだろうと…
彼は「死」を最大の恐怖とし、それを思えば他の一切は取るに足りないことと自己啓発をしたようだ。ジョブズはそれを、「自分自身の知る限りにおいて最善の防御策」とした。スタンフォード大のスピーチは2005年6月12日である。彼が膵臓癌を診断されたのは2003年で、幸い治療可能な症例だったが、東洋医学を尊重する彼は、西洋的な医術を頑なに拒否した事が寿命を縮めたようだ。
人はいつか死ぬ、自分も同じと言い聞かせ、その事を常に頭に浮かべた理由は、自身がネガティブな考えに囚われないための最善とした。「だから、やりたいことをやらない理由はどこにもない」との信条にあった。「やりたいことはあるけどできない」という人がいる。なぜできないと自分に問い詰めた時、「いつかは死ぬんだから、やりたいことをやらなきゃ損だろ」というのがジョブズ的思考である。
ジョブズの言葉は名言というより、論理的思考から自然に導き出されたもの。考え方の基盤が自分と似ている。あるとき、こう問われたことがある。「自分は何をやっても続かない。属にいう3日坊主です。どうすれば続けられるようになりますか?」これに対して自分はこう言った。「3日坊主を打破したいなら4日やればいい」。と、これは冗談で、自分なりの自己啓発法は一貫している。
要は自分の忌まわしい部分を徹底的に嫌いになること。自分は欲な人間か?そんな問い掛けより人間は誰しも欲だ。欲を批判したいなら、自身の欲を嫌うこと。3日坊主についてもだ。自分は3日坊主的性格である。自分のことだからよく分かる。欲であるし、3日坊主でもある。だから、そんな自分を嫌悪する。「お前は3日坊主のアホ人間か、みっともない」と見下す。
誰だって自分を好きでいたい、自分が自分を嫌って何のための存在理由か?だから嫌な自分を嫌でなくす必要がある。欲なところ、飽きっぽいところ、根性がないところ、そういう自分を徹底して嫌えばいたたまれないし、改めようとする。それだけのこと。自分にとって自分は嫌な人間でうたくない気持ちは誰にもあろう。向上心ともいうが、綺麗な言葉でなくともよい。
実践できれば簡単な方法だ。今日はブログを書くのがかったるい、歩くのがしんどい、と思ったなら、内側から激が飛んで来る。いつも激とは限らない。諭すような言葉の時もある。自分の中に自分の管理者兼指導者がいる。いろいろ教えを乞う、サポートしてくれる。それらは誰にもあるのでは?一般的に人の心の中には、善と悪が住み着いていると言う。
楽をしたい自分、楽を咎める自分、サボりたい自分と、励ます自分。相反する自分によって人は生きている。悪の誘惑に対する善の諭しを葛藤と呼ぶ。葛藤と言う意味の語源を調べた事がある。葛藤とは字の如く、葛 (かずら) や藤 (ふじ) のこと。これらの木の枝がもつれ絡むところから、「葛藤」が生まれた。誰が考えたのだろうか、上手い言葉を作ったものだ。
『法句教』なる原始仏教経典には、「愛結(煩悩)は葛藤の如し」と書かれてある。漱石は『草枕』の中で、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と書いている。心の中で異なる思いが衝突し、悶着を生じ、いずれを選ぶべきかに迷うのが人間であると…。人は貪欲や愚痴、妬みなどの煩悩を容易に断ち切れない。
断ち切りたいなら、断ち切る方法はいろいろある。上記した自分流は、貪欲、愚痴、妬みを徹底嫌うこと。傾向性の強い人間も嫌う。嫌うといってもあくまで罪に限定する。数年前だか、「『罪を憎んで人を憎まず』って、そんなことできると思うか?」と問われた。確かに難しいが、出来ないことはないと考える。例えば貪欲な人間がいたとする。「あいつは貪欲だ」と人は言う。
貪欲はその人の性向の一部に過ぎないが、人はレッテルを貼る。何事も、「一事が万事」と、一つのことですべてを推し量るの安易だし間違いである。貪欲さはその人の性格の一部分であり、人はさまざまな性格で成り立っている。つまり、「彼はいい奴だし、自分はすきであるが、貪欲なところは嫌いだ」という風に大きく捉えるのがいい。他のいい面を見つけることだ。
女性同士の会話を聞いて思うのは、「一事が万事」が多い。たった一つのことを極度にコキおろし、批判や非難の会話を聞く。例えば鼻毛。「○○さん、鼻毛でてるよね。キモチわる~、鼻毛でてるひとダメ」、「うちもぜったいムリ」などと、暗黙の同調圧力を互いが懐に秘め、会話を弾ませる。たかだか鼻毛が原子爆弾級に貶められる。多少のホンネはあれど、ボキャを楽しんでいると察する。
男同士の会話には否定が多が、女同士の会話の同調は、彼女たちのエッセンスと大目に見るのがいい。まともに受け取れば女がみんなバカに見える。明石家さんまの『恋のから騒ぎ』のような番組を、男はこぞって「バッカ丸出し女!」などという。小さなことを大きく、誇張し、それがオモシロイと狙った番組だ。何にしても、バラエティーに真面目ではつまらない。
「罪を憎んで人を憎まず」の論理でいえば、ベッキーの不倫は批判すれど、彼女の人間性否定はよくないとなる。『にじいろジーン』を続投と言った関西テレビの福井澄郎社長は、「プライベートの問題とテレビの出演は切り離して考えている」と理由を述べたが、これはミス発言。なぜなら、不倫に刑事罰はないが、被害者が存在する民法上の不法行為である。
既婚者が『不貞な行為』(民法770条)を行なったり、夫婦間に『婚姻を継続し難い重大な事由』(同法同条)が生じれば、離婚や慰謝料の支払いといった法律的リスクにつながる。『不貞行為』とは、配偶者のある者が自由な意思に基づき、配偶者以外の者と『性的関係』を結ぶことで、注意すべきは、『性的関係』という表現。つまり、「セックス」に限定していない。
判例がいう「性的関係」とは、具体的にどんな関係か?『性的関係』をめぐっては、広めに捉える見解が支持される。キスだけの関係でセックスはないといえど、日外国人と異なり、日本人男女のキス、あるいは同性同士のキスも「性的関係」とみなされる。「不貞行為」となる。仮に不貞行為と認められなくとも、損害賠償や離婚の根拠になり得る。
なぜなら、キスや抱擁は配偶者以外の者との親密な交際であり、夫婦関係が破綻する原因となり、被害者にすれば、『婚姻を継続し難い重大な事由』にあたるからだ。「セックスはない。キスだけ」と突っぱねても、離婚を突きつけられる可能性は十分にある。関テレのおバカ社長の、「(不倫は)プライベート」発言は、不倫を是認したことになる。
不倫は奨励できない以上、当事者にお咎めなしはマズイ。視聴者からは同局宛にメール電話が数百件、「子どもと楽しく観てますが、不倫で騒がれているタレントを、子どもの手前出演を止めさせて欲しい」なその意見・要望に対し、「プライベートな問題だは出演と関係ない」といえるのか?フジテレビ系は下品極まりない番組と批判も多く、視聴者離れは当然か。
関西テレビは社長自ら、「ベッキーは続投」と会見で言っておきながら、あまりの批判の大きさに戸惑ったのだろう。後日、「サンミュージック側から申し出があり…」などと責任逃れで体裁を繕う。親会社の下請けイジメと同じ論理で、これならトップのバカ発言の影響も翳む。メディアは権威ゆえにいくらでも誤魔化しはできようが、もっとマシな社長はいないんかい?