Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

大事なのは、知ることより意見がいえること。

$
0
0
「泣いて馬謖を切る」場面は、人間の私情を越えた公益性の正しさを教わった。後にニーチェの同様な言葉にも触発された。同情は人を甘やかせるという彼は、「病める人には柔らかいベッドを与えず、堅いベッドを与えるべき」といった。自然界の摂理は弱肉強食で、同情は本来なら自ら立つべく弱者を甘やかせる。と、これは宗教の対極にある思想だ。

宗教とは何ぞ?といえば、宗教は弱者の不満を屁理屈で我慢させる事に本質が見える。そういう弱者を主人公にしたてるキリスト教的価値観の底に潜む偽善性と、弱者をその状態のまま留めようとする自己保存的退廃をニーチェは批判した。神が慈悲深いのではない、人が人に慈悲を感じて自己満足に浸っている。人間は誰も優越感を持ちたい小人である。

イメージ 1

不細工を不細工と同情する優越感である。不細工同士は共感すれど同情しない。ニーチェは同情を優越感からくるものと嫌悪した。同情と共感は似て非なり、共感は単に相手の悩みを理解すること。本人が向上するため、自ら立ち生きていくための協力はいいが、同情は自ら立とうとする者を甘やかす。不細工を安易に正当化せず、自己を超克する意志を持つ。

戦後日本はその反省もあって、韓国や中国などに対し、いかなる先進国よりも弱者としてのアジアを救済してきた。なぜ日本人は同情の好きな民族であろうか?日本人から同情を取ったら日本人ではないと思えるくらいに同情好き。手を貸し、足を貸し、金を貸すのはいいことかも知れぬが、そのくせ日本人は独立自尊の聖徳太子や福澤諭吉が好きなのだ。

ニーチェの考えが全てとは思わないし、同情が完全悪とも思わない。ただし、浅薄な同情は不要であって、個人的には他者と共鳴する精神自体は、人間が他の動物よりも高次に位置することの証の一つと考える。日本が独立国としての自負を持てないのは、自国を自力で守れないからでもあって、そういう国を一般的に独立国と呼ばないが、敗戦国の悲しい性。

同じ敗戦国でもドイツのように自らの足で立ち上がれなかったのも、米国の恩義を考えすぎて、そこは韓国や中国のようになれなかったからであろう。相手にいい顔する性癖が止められない日本国、そして日本人。同情も突きつめると、相手にいい顔したい心情の現われであろう。嫌な人間と道であっても微笑む日本人は、敵ですら同情するお国のようだ。

イメージ 2

善意も必要だが、悪意を善意に思わせるのも外交手腕である。何でもカンでも正直に心の内を晒せば、相手も呼応してくれるというところが子どもである。腹が黒くて普通の大人という言い方ができるなら、女性の腹黒さは大人、男は童のようなオコチャマである。そんな女に男が戦略的に敵うわけがなかろう。終ぞ男は女の魅力にしてやられてしまうのだ。

女の世界はいろいろあるといわれる。一見、和やかに見える、ママ友の井戸端会議だが、その実態は、陰謀と探りあい渦巻くカオスな世界…といえば大げさだが、腹の探り合い的な面があるのも事実。男は腹を出し合って融和するために話し合おうとするが、女性は違うようだ。女の世界の深謀遠慮は何も今に始まったことではない、平安時代の絵巻物にも見れる。

「自慢3割、愚痴5割」それに悪口が続いて女の会話である。おそらく、自慢も愚痴も悪口も悪いと思わないからいう、そこが男と違う。男は自分が嫌なコトにはハッキリと言葉にして遮断させる。「自慢すな!」、「愚痴なんか言うな、みっともない」、「人の悪口は壁に向かって言え」などの体験を方々ですると、自慢、愚痴、悪口は暗黙の箝口令として身につく。

「あの人は自慢話が多い」、「愚痴が多い」、「悪口好き」というタイプは女性社会の中で特別"浮く"こともないが、こういう札のついた男は、男社会では極度に敬遠され、誰も近寄らなくなる。自慢や愚痴が多い友達に悩むという相談は結構受けたが、「嫌なら何で『止めてよ!』って言わない?」と言うしかない。こっちが嫌がってるなどお構いナシという。

イメージ 3

ついつい捕まって、自慢や愚痴を聞かされるという。「No!」がいえない女性は多い。言えば妬まれるからだという。男にも妬む奴もいるにはいるが、地位とか、能力とか、学歴とか、富裕とかが顕著で、容姿や、お肌や、性格や、彼氏のいるいない、などに及ぶ女の妬みの範囲は、聞いて呆れるくらいにある。聞くに及んで、何とキツイ世界であろう。

「止めてよ」と断れない人間が利用されるのが女社会。「止めてよ」と釘を刺せる人間は被害にあわないが、それで仕打ちにあったり、無視されたりと、怖ろしい世界である。相手に止めてといわれ、「自慢や愚痴は言わないのがいい」とハタと気づけばいいが、また別の相手探しが始まるなど、愚痴や自慢、ノロケを言わなきゃ気が済まない人種。

同じ愚痴好き、自慢好き、ノロケ好きタイプでも、「あの子は悪意がないよね」、「テンネンだよね」と、好印象女性もいる。確かにヒトのよさを感じる。いろいろ情報成りを見聞きすると、今回のベッキーがそういうタイプだったらしい。叩く人、庇う人、口を閉ざす人、それぞれの利害があるのだろうが、上沼恵美子がベッキーを「したたか」と言ったのも分かる。

したたかで怖いもんナシの上沼が人をしたたかというのも笑えるが、「わたしよりしたたか!」とまでは言っていない。男に「したたか」は使わない女性専用用語である。粘り強く、他からの圧力に屈しない。しぶといさま。の意味がある。弱い女もいるが、したたか=女と、自分は見ている。生物的に裏づけられた女の強さ、一方、男は非弱ゆえに大きな体と力を備わった。

イメージ 4

小林よしのりの、"腹黒ベッキー、それを知ってガッカリ"発言ではないが、あれは彼が安易に勝手にベッキーの表面(おもてづら)を信じた悔いであるべきで、ベッキーの人格批判というなら大人気ない。「それを知ってガッカリ」という言葉は、己の慧眼のなさ、至らなさを責めるべきだし、それが責任転嫁しない男の自負であり、小林を裏切ったベッキーに罪はない。

彼女がいい人ぶった人間であったとしても、間に受けた小林の責任であろう。まあ、厳しい言い方かもしれないが、騙された側に責任の大半があると考える自分だからで、騙した側が悪いと言ってしまえば自分の責任はないではないか。自己を批判するより、他人のせいにするのが楽だろうが、勝手に信じてナニを言ってる?といわれて言葉は出るのか?

あまたの自己責任論は、なかなか人に受け入れられなかったが、自分が範とするから構わない。ベッキーを信頼して損害を被った当事者といえば、CMに起用したスポンサーと言いたいが、その前に彼女を売り込んだ広告代理店、それに彼女を管理する事務所にも当然にして責任がある。この中で誰がベッキーに文句を言いたいのだろうか?

代理店もスポンサーも芸能事務所も、全員騙された側であるが、そこのところは契約事だから、"品行方正を旨とし、自制心を持ってスキャンダルは起こさぬ事"くらいは条項にあるはずだ。実害者が、彼女にぺナルティーを求めるのは当然だが、外野のベッキー批判はただの野次馬。デビ夫人のようなエールも自身の影響力を自負するあまりの口出し。

イメージ 5確かにデビ夫人の擁護の中身は呆れるが、「開いた口が塞がらない」、「言葉はない」と外野も反応し、「開いた口が~」と言いながら口を閉じない。デビ夫人の善悪基準は、相手の好き嫌いが根底にあるようだ。以前、麻木久仁子の不倫騒動のときは批判をしたが、個人的交流のあるベッキーは擁護に回る。それより、なぜメディアはベッキーの所属事務所を叩かない?
ベッキーは所属事務所の方針にのっとって対処するただの人形であって、事務所の対処法がオカシイとしても、なぜかメディアはそこを書かない。ベッキー自身、彼女の意思では何もできず、一言一句は事務所の用意されたものである事は分かっていても、書かない。芸能人が不意な質問に対し、「事務所を通して下さい」と言うのは逃げとしては便利。

デビ夫人の独善的擁護はさておき、ベッキーと同じ事務所のフィフィは理知的である。まるでデビ夫人の無思慮発言に反論するかのように、ベッキーを、「祝福できないから勝手にすれば…」と辛辣に言う。身内であれ、妻の存在を無視した結婚をフィフィは批判した。奥さんが無名の一私人であるからか、あまり話題にならないが、被害者に有名も無名もない。

LINEの第二段が出た時もしかるべき対応を弁護士に相談し、さらなるベッキーの商品価値が下がらない方策を事務所は考えての黙認であったと考える。針のムシロに立たせるより、「沈黙は金」。ベッキーが操り人形なら、操る側を叩けばいいのはメディアも分かっている。メディアと芸能事務所の馴れ合いと利害関係が、こうした沈黙を生んでいる。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>