昨日のSMAPを見て、やはり「覆水盆に返らず」を実感する。木村ひとりがヒーローになったことで、中居を含む他の4人は、言い知れぬ重い荷物を背負って今後生きることになる。SMAPはもはや水平の関係ではなく、名実共に、"木村拓哉とTHE・SMAP"ではないか。まあ、それも仕方がない。行き場のない中居らに残された道で、今後は針のむしろであろう。
木村だけが事務所に信頼されて、グループやっていけハズがない。グループは、木村&メリー同盟 vs 中居&離脱組という、対立の図式が続くのは目に見えている。中居たちは、事務所と内通する木村に今後心を許せるはずもなく、早晩そのギクシャク感に耐え切れず、中居の先導で4人の落ち着き先を探すことになる。事務所べったりの木村とは相許せない。
木村もそれを感じて疎遠になって行く。さて、ベッキー問題に変わる。「不倫」という言葉は昔なかったが、不倫は卑弥呼の時代からあった。言葉がないなら何と言っていたのか?例えば、ベッキーと川谷についてなら、妻ある川谷は「浮気」、ベッキーは「禁断の恋」などと言った。不倫という言葉は、1983年のTBSのテレビドラマ、「金曜日の妻たちへ」で使われて有名になった。
不倫と言う言葉はあるにはあったが、以前の不倫は、「不倫理」=倫理の無い行為、非道徳的な行為を指す形容動詞で、人の行動や様子を批判する時などに使われていた。それがドラマの影響で現在の意味になった。よって、「ベッキー不倫」を昔は、「ベッキー奥さんいる人とデキた」などと言った。妻がいても他の女性を好きになり、独身男より妻ある男を好きになる。それが問題か?
「好き」は問題とならない。問題なのはSEXをしたかどうかで、それが昨今の不倫となる。「好き」だけについていえば、妻がいて1000人の女性を好きになってもかまわない。奥さんの心境を別にすれば…。ジャニーズ追っかけ妻、韓流追っかけ妻は今直いる。「好き」であるのは法的に何の問題ない。要は、一線を越えたかどうか?世俗的にいえば「やった」か、どうか。
あらためて言うまでもないが、不倫は違法だ。違法であっても犯罪ではない。疑問を持つ人もいるだろうが、違法と犯罪は別である。違法とは、法律や規定・理念に背くことをさす。違法行為の中には、未成年の飲酒や路上喫煙など、禁止であるが罰則がない。罰則がないことも違法と犯罪を区分する要素。犯罪とは罪を犯す行為や、犯した罪そのもののこと。
狭義では刑罰に科せられるべき行為となる。不倫は賠償責任を負う場合もあるが、傷害事件や速度違反とはまるで別物だ。が、かつて不倫は犯罪だった。「不義密通」と呼ばれ、社会風紀を乱す犯罪行為(姦通罪)として罰せられた。現在は民法第770条の離婚事由に相当するものとして、家庭の崩壊を招いた著しく身勝手な行為として裁かれるものとなっている。
この事が裁判で証明されると、慰謝料・損害賠償などの民事責任を負う。ただ、姦通罪は主に不倫をした既婚女性とその相手に課せられ、既婚男性が独身女性と不義密通が罪に問われる事は殆どなかった。現在は姦通罪そのものがなく、法律上不倫は、「不貞行為」(貞操義務の不履行)となる。これは夫婦がお互いに他の異性と性的交渉を持たない義務に反すこと。
一度きりの性的交渉も不貞行為とされているが、離婚理由になるには反復的不貞行為を行っていることが必要とされている。さて、ベッキーが騒がれている。相手の川谷もベッキーほどではないが話題になっている。この違いはメディア露出度、人気度の差であろう。ベッキーは好感度ナンバーワンということもあって、10本のCMに出演している。
その二人が「不倫だ、不倫」と騒がれているのは、様々な状況的証拠からの邪推である。が、男女の関係は邪推するしか仕様がない。誰も性行為の場面を目撃したものはいず、これまで多くの不倫裁判でも、状況証拠だけで争うしかない。殺人だって同じ事。人を殺す場面を目撃するなどない。そこに死人が横たわり、凶器がそばに置いてある状況だ。
そこから犯人を類推していくが、もちろん、容疑者は「やっていない」という者が多い。これまでに不倫で話題になった有名人や芸能人は多いが、あっさり認める者、ただの友達と逃げる者、いろいろだ。ベッキーは「ただの友達」としたが、もし、不倫が濡れ衣で本当にただの友達なら、「何でも聞いて下さい」と疑いを晴らすことに必死になるはずだ。
会見は開くが質問は受けないとして、5分程度の釈明を誰が間に受けるものがいよう。真っ白なら何だって話せようし、それこそCMのスポンサーへの誤解を解くのに躍起になるはずだ。あれでは小学生だって誤魔化せない。いい人、いい人ぶった人は往生際が悪いと相場は決まっている。スポンサーなどから好感度を得ている芸能人は、それを守ることしかない。
彼女らは公人と言うよりも、スポンサーを欺いてまでいい子ぶってはいけないと思う。好感度が、自身の脇の甘さで一気に落ちるのは自業自得ではないかと。それだけ自制心もないままに振る舞い、見っかったら誤魔化すでは人間として甘いね。彼女の今後はスポンサーが決めるだろうが、そのスポンサーも世間の動向と成り行きを見て判断するしかない。
彼女は1月4日に川谷の実家を訪れ、出てきたところを週刊文春の記者に直撃され、「軽はずみなことをしてしまった」と言った。バレなければ言わない取り繕った言葉である。だから人間は表裏が違うし、言行不一致なズルい生き物である。あの日来、食事も喉に通らない、10日で4キロ痩せたなどと報じるが、罪悪感ではなく、バレたことでの心労だ。
人は陰でコソコソやるものだから、それ自体は人間的だし、責めるものではないが、バレてなお偽善をやるような人間は信用できない。バレて潔くできない人間もいるが、嘘で自分をくるめる人間を信頼するスポンサーがいたら、それはオメデタイ。彼女への処罰はメディアでもなければ、ファンでも一般人でもない。彼女を信頼し、登用したスポンサーが行うべきこと。
日本社会の特異性というのか、他人のちょっとしたことに対して、急に自分が100%善人であるかのように、また相手が100%の悪人であるかのように、寄って集ってとっちめる。いわゆる「村八分」の論理であり、性善説の影響もあってか、悪人の善人気取りが許せない。人間の本質は「悪」という西洋的性悪説では、人が何をしようが、「だから何?」である。
メディアの論調なども同一の歩調をとるのも付和雷同日本的だ。実際に不倫経験があるものでさえ、自分の事とは関係ないと言わんばかりに、他人の不倫を糾弾する。誰も知らないのをいいことに人間はどこまでも善人になれる。これは欲求不満のヒューマニズム的嵐とでもいった方が説明がつく。他人の悪を、罪を、徹底的に攻撃する近年の風潮である。
ネットの発信が凄い。ネットは書き手の素性が分からないという秘匿性をいいことに、誰もが善人となり、寄って集って「炎上」させる。発信者の問題行動や問題発言の場合もあるが、そうではなくて、何が問題なのか分らないものまで炎上というのは、付和雷同を超えた、集団ヒステリーのようだ。ちょっとした事が気に食わないという小中学生ならまだしも。
大人でも精神年齢非弱な者は、些細な事に噛み付く。ちょっとした事が本人には大きな事だろうから、相手の身になって考えるしかない。「うるさいガキだな、まったく!」などと思ってはダメだし、オトナはコドモをあやせてこそ真のオトナ足り得る。「無知でバカなガキ!」と、見下し、蔑むより、相手目線に飛び込んで説得するのが、オトナの自負というもの。
親も子をガキと見下げるだけでは解決しない。子どもと同レベルに自分を落とし、同じ気持ちに立って話し合うのがいい。上から下だけでは反発するが、水平の関係、水平の目線で、頭脳だけは子どもの数倍の質なら説得できよう。それがダメならバカと諦めた方がいい。バカは最初からバカでは決して無い。話す姿勢を見せて、それでも伝わらないのがバカ。
最初から見下すのは、バカを諭す自信がない点において、親の方が無能であろう。「何事も事実なるものは存在しない。存在するのは解釈のみ」とニーチェはいった。例えば、ある事を失敗したという人。が、別のある人は同じ失敗でも、それを失敗と思わず、これは次のステップへの糧と考える。つまり、失敗という事実はなく、解釈だけが存在する。
一切の事は解釈の仕方で変わる。人間はどんな邪悪なことだってできるという事によって、人間はどれだけ救われているかを考えるべき。人間には昼だけではなく、夜も必要なのだ。単眼になれが思考の惰性になりやすいなら、複眼的思想を持った方がいい。近視眼で恥知らずとなるなら、遠視眼を持つべきだ。持つ、持たないの前にこういう考えを先ず持つ。
現代社会の特異性は、ネットとマスが共振し、それが個人を「私刑化」する。その中にインテリ負け組が参加し、他人をボロくそにこき下ろす。そういったこともストレス発散なのだろう。「屁をこいたのはお前だな」、「お前だ、お前!」と連呼し、指を差し合う社会って、やはり歪であろう。つまり、誰もが正義の側につきたがる。昔流行った「勧善懲悪」マンガのように…。
正義は一人、一人いればそれでよかったし、それなら収拾もつけられた。こんにち、悪を私刑化する正義面がこんなに蔓延っていいのか。素性が分らない、自分の情報は誰も知らない、分らない、そんなネットであることが人を簡単に正義人とする。学校でも会社でも家庭にあっても、うだつのあがらぬ人たちかも知れぬ。それがネットでは判事となり、正義をかざす。
これが我々が望んだウェブ社会なのか。頭から袋をかぶせた人間は心まで変わってしまう。大衆迎合社会にあっては、好感度という数字が大事なのだろうし、それによって企業の利益も増減する。我々が好感度なる人間をスポンサーに差し出したようなものだ。実社会のヒーローに我々は裏切られたもので、その時は、「へ~、あの人が?」で済ませるしかない。
月光仮面やアトムは、永遠に我々を裏切らないヒーローだ。子ども時代に尊敬した松下幸之助、成人になって仰いだ田中角栄にも裏切られた。麻原彰晃をヒーローと仰いだ者もいた。東芝元社長・会長西田厚聰の名言に心揺さぶられたが、彼も晩節を汚した。現実のヒーローはなぜ、こうも裏切るのか。今回、木村拓哉のヒーロー的振る舞いは、いいことではないな。
彼はSMAP分裂を回避する巧を担ったが、だからと言ってメリー氏の憎悪心を払拭できたわけではなかろう。こういう場合、女の底恨みはなかなか消えるものではないし、木村一人がジャニーズ側というのがよくない。全員退社という形の方が公平感という点でまだよかった。今後、形の上ではSMAPだが、木村と他のメンバーは重役と平くらいの差になった。