こうして毎日書いていると駄文も多い中で、駄文がさらに駄文になる。良いセンテンスもあるのかどうか、文の良し悪しは文体にある。他人の文がなんとも素敵に見える。あんなにはとても書けない文も目にするが、自分の文をして、「とてもこのようには書けない」という文はない。なぜなら、実際に書いている訳だ。玄人の物書きが、ある日突然書けなくなるという。
手と筆があれば書ける文章が突如書けなくなるのは、創造力・文章の自己否定ではないのか?アイドルといってもプロが下手な歌を歌っている。あれでよく人前で歌えるものかと思うが、アイドルは聴くものでなく観るものなのだろう。三女の結婚式で友人のボイストレーナーが、美声を披露するというので楽しみにしていたが、それはそれはヒドイ歌だった。
彼女はボイストレーナーとして、自身の教室で多くの生徒を獲得しているという。それでつい、歌も上手いと思ったが、披露された歌は音程は不安定、不自然な抑揚ばかりが目立ち、聴くに耐えなかった。これでも生徒が多くて盛況というなら、歌の上手さは関係ないのだろう。ボイストレーナーとは、その人にあったボイストレーニングを指導する仕事。
発声の基本練習の指導であって、歌が上手くなければの理由はない。まあ、それを肴に家族が三女にむちゃくちゃ言って楽しめたことはいいが、「是非、歌わせて!」という彼女を無碍に断れなかったというのが真相のようだ。カラオケなどで、歌が上手くないのは三女も知っていたという。披露された歌は始めて耳にし、曲名も誰の曲かも分からなかった。
が、長男らがいうには、「何であんな曲を結婚式に歌うのか、絶対オカシイ、どうかしている。自分の歌を披露したいためとしか思えんよ!」と手厳しい。自分はただ、あまりの下手くそに抑揚を込めた歌い方にうんざり、早く終ってくれと思いながら聴いていた。いや、聴こえていた。が、結婚式に相応しくない選曲といわれれば、そのようにも感じた。
結婚式でこういう話がある。友人が歌を披露すると新郎に伝えたところ、是非ともこの曲をと、新郎にリクエストされた曲は、当時流行っていた井上陽水の、『傘がない』であった。つまり、そういう時代の頃の話である。新郎が好きな曲であり、「俺のために是非この曲で頼む」といわれ、一つ返事でO.Kしたと言う。今に思えば、こんな曲を結婚式に?
誰もが思う選曲だ。今ならぜったいに新郎も頼まないし、仮に頼まれても避ける曲であろう。が、あれはダメ、これはダメということもなく、そういった何のてらいの無い良き時代の一面が偲ばれるエピソードである。ちなみに『傘がない』の出だしは、♪都会では自殺する若者が増えている…。「てらいが無い」とは、自分を相当な者らしく見せかけるの意味。
ところで、自分の記事を見たある者が、「てらいを感じる」と言った。なるほど…、つまり自分を相当な者らしくみせようとしているということだが、そういう見方もあろう。思うまま、感じるまま、気の向くままに書いたものだが、人は中身で判断する。思ってないこと、感じてないこと、下書き・清書し、構成を考えて書いたと思ってもそれは人の思い。
本当はバカなのに賢く見せようとして書いているとの見方もあろう。本当は才人であるが、ワザと下手に書いているとは思わないだろう。そんなことをする必要はないが、あえて分かり易く書くことはある。そういえば、モーツァルトは音楽的才を持ちながら、平易で素人受けするやさしい曲を書いたといわれている。自身の内的欲求から書かれた楽曲はまるで違っている。
日本の文豪10人を上げるとなると、意見は割れるだろう。夏目漱石、森鷗外、志賀直哉、泉鏡花、島崎藤村、谷崎潤一郎、 川端康成、三島由紀夫、井伏鱒二、井上靖、幸田露伴、芥川龍之介、太宰治、 大岡昇平、永井荷風、与謝野晶子、正宗白鳥、山本周五郎、横光利一、齋藤茂吉らは外せないが、吉川英二、山岡荘八、司馬遼太郎、大江健三郎は入らないか。
菊池寛、安部公房、安岡章太郎、吉行淳之介、有島武郎も部外者か。文豪とはその名の通り、文章の豪傑の意味であるなら、傑作とは別物だ。よって、川端康成や大江健三郎には傑作が無い。傑作とは傑出して優れた作品、秀作と同じ意味だ。また、名作とは"万人の共感を呼ぶ傑作"とある。いずれも主観的な表現で、秀才と天才ほどの意味の違いはないだろ。
菊池寛、安部公房、安岡章太郎、吉行淳之介、有島武郎も部外者か。文豪とはその名の通り、文章の豪傑の意味であるなら、傑作とは別物だ。よって、川端康成や大江健三郎には傑作が無い。傑作とは傑出して優れた作品、秀作と同じ意味だ。また、名作とは"万人の共感を呼ぶ傑作"とある。いずれも主観的な表現で、秀才と天才ほどの意味の違いはないだろ。
同じような意味で、名曲、名品、名人、名将、名匠、名園、名所、名山、名店…いくらでもある。普通のものに「名」をつけるだけで格があがるからと、いい加減につける「名」もあるから、間に受けない方がいい。自分の文は駄文といったが、人によってはユニークと映ることもあろう。面白いかどうかは自分では分らないが、それが落語家や漫才師の苦悩であろう。
自分は面白いと思っても受けない、逆に面白いと思わないものが受ける。よくある話しだが、だから文章も面白く書こうと思っても結果は人に委ねられる。美味しい料理も人が感じるもののように。だが、極意はあるのだろう。だから、○○のラーメンは美味しい、中華は美味しいとなる。名文の極意もないわけではないが、料理と同じで知識と素養がいる。
名文は書きたい、面白い文も書きたいが、その前に自分が納得する文が書けるかどうかである。他人が晒した文は、秀逸で納得できるが、本人が納得できるかどうかは分らない。「朝起きて、夜寝た」のような短文に納得もへちまもないが、数千字も書くと、様々な要素が必要となる。時に頭の回転が悪いときもあり、そういう場合は普段にも増して駄文となる。
斯くの場合は、書かないのが方策であろう。が、自分はそれを横着と、自身を鼓舞するところがある。今日は、なんとなくだるい、気が進まない、かったるい、などを自己の怠慢とするのが、沁み付いている。日・祭日は筆を置き、それ以外は書くように努める。励むというほどではない、所詮は駄文という気楽さもある。駄文も少しづつは良くなるであろう。
上手い文章を目指す前に、下手に見えない努力も必要だ。「下手の横好き」というし、「好きこそ物の上手なれ」という慣用句もある。これらから学ぶのは、上手くなるという理想は持っても、それは付加価値とし、まずは好きなこと=楽しいが優先されることだ。書くにあたって、調べることも楽しい。これが面倒というなら、調べる必要ある事は書かないだろう。
調べる必要は必然であり、裏を返せば知らないことに遭遇したということ。知らないことに遭遇するなら、知りたいと思うの当然であるが、当然でない人もいる。当然に思うから、面倒とならない。これを知識欲といえばそうであろう。知らないことを知りたいと思うのは、人間として自然なことだと思っている。あまりにも膨大であるから、ちまちまやっている。
解らぬことを調べるのは、自分が知るという目的と、人にも知らせたいという共感が絡む。自分だけ知るなら読めばいい。が、読んでもすぐに忘れるなら書くほうが勝る。折角調べたものだから、その手間を考えると書いておきたい気にはなる。そういうことを、ある奴は「てらいがある」と読んだのだろう。勘違いであれ弁解無用。人は自由に思えばいい。
仮に間違っていても、弁解は自分のためにならない。相手のためにもならない。人は人なのだ。人に自分をかぶせることは、以前に比べてしなくなった。相手はそういう味方をするのだなと、その事が分かればそれでいい。分らないなら、分らないままだから、分かる方がいい。人は、自分とはまるで違った考えをする。そのことは、それは多く体験した。
驚くこともあったが、驚くことも多く体験すると驚かなくなる。若い頃は、自分とあまりの違いに驚くばかりであった。今は、何も驚かない。どんな風に人が思っていたとしても、人は人なのよ。自分には窺い知れぬ部分がある。「どうしてそういう考えをするのだろうか?」と、人の分からなさに苦しんだ時期もあるが、今は単純に「人は人」と理解する。
それ以上の突っ込んだ理解は不要となった。人をそこまで突きつめて理解するのは、面白いこともあるが、学者の領域だ。人間関係であまりに突っ込み過ぎるのはよくないと気づいた。ある程度の距離感を保つのが、人間関係の奥儀と捉えている。自己満足で突っ込み、相手を裸にするのは非礼である。人と人は知らない部分があってこその良好関係である。
悟りと言うのは、とらわれない心、欲望や雑念を捨て去った心であろう。凡人の誰にもこのような境地はある。瞬間、瞬間にであるか、それを連続的にし、心の平安を得るのが座禅などの修養である。欲望は誰にもあるが、それなくして進歩も発展もない。が、今のような物質至上主義社会にあっては、「欲望を捨て去れ」で、丁度いいのではないかと…。
頭の回転を良くしたい、創造力を磨きたい、いい文を書きたい、なども欲望だ。そのように思わなければ進歩もないし、発展もない。持っていい欲望、持つべき欲望はある。努力で叶う欲望もあれば、罪を犯して叶える欲望もある。願望だけで何もしない欲望もある。人には人の、盗っ人には盗っ人なりの一分の理がある。人は、自分にあった方法をやればいい。
欲があるから盗っ人をするのではない。盗っ人には欠けたものがあるからだ。行動しない人に欲がないのではなく、失敗を怖がる面が見える。行動する人は失敗を恐れないのではなく、成功を願う気持ちが強い。失敗はすぐに忘れた方がいい。同じように成功もすぐに忘れて、新たな気持ちになるのがいい。いつまでも酔うのは過去に生きることになる。