貸したものは必ず返させる自分は、請求を躊躇ったことはない。ここに幾度か書いたが、少年期のある事柄がトラウマとなり、そのトラウマから逃れるため、人にいい顔するのは止めにした。トラウマというのは、脱すればむしろよい体験となる。脱すればトラウマとは言わないにしろ、一時期トラウマであったのは事実であり、頑張って脱したまでだ。
Oクンの存在がなかったら、あのままの弱ったれの自分であったろう。貸したものを返せといえるだけで、「強いね~、自分は言えないな」といわれたりする。強いかどうかはさて、心を強くする努力はした。心を鬼にし、言いづらいことも言うように自らを叱咤し、鼓舞した。今までの自分でない自分に挑戦することは難義であり、勇気のいることだった。
弱い者が強くなった暁には、強さというより当たり前になっている。未だ弱いままの者が、「強いね~」と言う。言うのはいいが、言うだけでやらずは弱いままだ。映画『アメリカン・スナイパー』に印象的なセリフがある。二人の息子を持つ父親だが、ある日、顔にあざを作って帰って来た次男を前に言う。「いいか、世の中には3つのタイプの人間がいる。
羊と狼と羊の番犬だ。世の中に悪などないと信じたがる奴もいる。だが、それだと悪に出会ったときに自分を守れない。そいつらは羊だ。弱い者を見つけて襲い掛かる者もいる。そいつらは狼。だが、闘う力と勇気ある者は、羊の群れを守らずにはいられず狼に立ち向かう。それが羊の番犬だ。この家で羊など育てていない。が、狼になったらケツを引っ叩く。
もし、喧嘩を仕掛けられたら、もし、弟をいじめる奴に出会ったら…、徹底的にやって構わん。愛する者を守れ。」と、長男に言う。「愛する者を守れ」はいい言葉だ。実話を元にした『アメリカン・スナイパー』の主人公クリス・カイルは、このような父を持った家庭に育ち、愛国者となり、狙撃兵としてイラク戦争に四度従軍した彼の自伝である。
いかなる理由か、借りたものを返さぬ人間は多い。「こちらから言わないから返してくれない」と諦める人間は羊である。性格はそう簡単に変えられないが、だったら道理として考えてみたらどうか?貸したものを返す、返さないは、借りた側に決定権があるのではない。貸した側に債権が発生し、借りた側には債務が発生する。これが当たり前の世の道理。
これが正常になされない原因は、債務者に理由がある。それでどうするか?債権と債務の関係が分かったら、義務を全うしない人間に対し、権利を主張すべきではないのか?行使といってもいいが、「返せ」という言葉だけだ。なぜそれが言えない?言えなかった自分の経験からすると、幼かったからである。小学3年生はあまりに幼いし、子どもであった。
貸した自分より、借りた友人の方が何故か大きく見えた。日が経って返さないとさらに大きさが増し、いえる雰囲気でなくなる。なぜ彼が大きく、自分は小さいのか?そういう疑問は持たなかったが、持てばよかった。借りた側より、貸した側が気まずくなるのはなぜ?子どもばかりではない、大人でもそのようになるはず。なぜだ?なぜ、借りた側の態度がデカイ?
実際はそうではなうし、決して借りた側の態度がデカイのではない。貸した側がそういう倒錯心理に陥っているだけ。借りた側も実は気まずい思いをしている。よほど図々しい奴以外は…。返そうと思いながらも、相手も返却を要求しないし、だからか、ズルズルと日が経てば、借りた側、貸した側もいい難くなる。借りたことをすっかり忘れているなどはマレ。
こういう連鎖を起こさないためにあらかじめ返却日を決め、履行されないなら請求する。以前、路上で金を貸すことになった女が居た。病院に行くのに財布を忘れて家を出たという。彼女は心療内科に通院するメンタル持ち女性である。ホテルのロビーで自身の過去を話していた最中、大声張り上げて泣き出したりと…。それで5000円を貸すことにした。
むやみに人を信じない自分が、初対面の人間に金を貸すなどあり得ない。その女が病院に行くのは本当に思えた。明日返すからというので連絡先電話番号を伝えたが、翌日連絡はなかった。ところがその日、自分はその女の後をつけ、○○診療内科に入ったのを見届けていた。翌々日、その医院に電話して事情を話し、伝言を頼むと女から電話があった。
指定した場所に女は来た。どういう顔をし、どういう言葉を吐くのかに興味があった。その時の会話は忘れたが、案の定、跡をつけたことに苦情をいったが、これはもう自身の非を軽減する女の常套手段である。「知らない人間に金を貸すようなバカにみえるか?君が病院に行くのは信じたが、金を返すかどうか、信じなかったよ。当たったろう?」
人の善意を利用する不埒者はいる。そんな人間に善行を施し、いい気になるのはどうだろう。真の善意とは、貸したお金が返らなくても文句もいわず、恵んでやったと思える人である。自分はそんな立派な人間ではないし、相手を信用することはあれど、相手が信頼を裏切る可能性も考慮する。裏切られて恨むより、跡をつけたのは裏切られない方策である。
貸さない方法もあったが、それはそれで無慈悲と感じ、善意に呼応するかを試してみた。相手を試すのは、自分を試すことである。つまり、自分が人を見る目の甘さを試すことであって、信用とは違う。見ず知らずの人間を信用するのはバカだが、試すことはあってもいい。だから跡をつけた。人を信じたあげく、裏切られたと嘆くバカではいたくない。
跡をつけたことになぜ相手が文句をいうか?おそらく信用されないことへの憤慨であろう。この結末を知人に言うと、「俺は貸す以上は信用する。信用しないなら貸さない」と、見栄を切ったのが滑稽に思えた。「信用するとか簡単にいうが何を根拠にだ?自分の眼力か?」、「そういう事」、「見ず知らずの相手に眼力などという思い上がりは自分にはないな」。
自分は信用しないが貸した。その代わり返却されないバカを見ないよう相手を試した。リスク回避の自己防衛と、親切をセットにしたまでで、その是非の答えは自分の中にある。人を信じるか、信じないか、という命題にあって、信じることは美しい。多くの人はその美学に酔い、墓穴を掘る。誰でも人は信じたいし、信じたいがゆえに疑うのは許されていい。
人を信じるか、信じないかの経験は誰にもあるし、そういった経験を積むのは大事である。ハナから信じないことで得るものは何もないが、信じることで得るものはある。裏切られたという事も、得るものの一つではないかと。そういうリスクをとることが人生勉強かも知れん。お金は貸す側も罪を作るというが、人の醜い面を見ることになるという意味においても罪なのか?
借りた金を返さなかったことを棚にあげて、相手を責める醜い面を晒した。人間が殻を脱ぎ捨て、醜悪な面を出すのを見るのも勉強だ。人が自身の殻を脱ぐ場面に触れてこそ、人間の真実を理解する。心理学に「ポジティブ・イリュージョン」という言葉があるが、人の自分についてのイメージを、実像より自分を良く見せようする人間心理の傾向を、このように呼んでいる。
アメリカの心理学者によると、人が元気よく生きられるのは楽観的な自己欺瞞のおかげらしい。人が前のめりに生きて行くには、事実通りの認識よりバラ色の幻想が役立つ。自身の伝記であれ、日記であれ、ブログの記事であれ、だから膨らましたりで丁度いいのだろう。日本人はポジティブ・イリュージョンに乏しく、自分に厳しいイメージを抱きがちだ。
「人間関係に角が立つ」ことを極度に恐れるのはどうかと思うが、多少の角は生まれも育ちも、あるいは性別も違う人間として当然である。「雨降って地固まる」ともいい、「和」であることだけが尊いのではない。喧嘩や言い合いをする前に、相手の考えや価値観を受け入れる許容量を持つ。「角」が立つのはヨロシクないが、○○が立つのはいかが?