世界のあちこちでテロが起き、多くの人命が奪われている。二大宗教対立が根深い要因だが、一神教国家に比べて八百万の神おわす日本国のなんとも曖昧な神である。テロの被害はないが、それでもちまちま殺人事件は絶えず発生し、金にまつわる問題で人を殺すなど、まさに命よりお金が大事のようだ。「愛」の終焉によるいざこざもあり、愛と憎悪はまさに表裏である。
「金の切れ目が縁の切れ目」の関係は、この世は金次第で、愛などどうでもよい。とりあえず「好きよ」、「愛してる」などという言葉で装いながらも本音は、「花より団子」である。愛か金か、終ってみなければわからないのは、人には思わせぶりという立ち回りがあるからで、だから、交際中は自分に気があると思ってしまう。実体験者の言葉を拾ってみる。
「一度気前よく食事をおごったら、その後もずっとたかられ、『今日からもうおごらないよ』と言ったその日から一度も会ってない」(30代男性)
「彼女の借金を肩代わりした後、あと間もなく他の男にとられてしまった」(60代男性)
「プレゼントの回数が減ると同時に、会う回数が少なくなった」(30代男性)
「恋人に、年収が下がったという話をしたら疎遠になった」(40代男性)
「彼女へのプレゼントの質を落とした途端、そっけない感じとなる」(20代女性)
「今まで誘えば何時でも来たのに、割り勘になると来なくなった」(40代女性)
「彼の会社が倒産して失職した時、急に彼への愛がなくなりました」(30代女性)
金に依存気質は心の卑しさの表れだが、なぜそのような性格になるのか、といっても幼児期からの積み重ねというしかない。誰だってお金は好きだし、お金は欲望を満たすものでもあるが、自分のお金を減らさないで済むならこれ幸いとばかりに他人にタカる。自分は人に金を出させるのが嫌いだが、その理由がなにかは自分のことゆえによく分かる。
他人にイイ顔したいというより、割り勘の面倒くさい。が、「驕るよ」といわれると、さっと自分の分を手渡したくなる。驕られるのが嫌な理由は、いい気分になれないし、他人の金だと食った物もマズくなる。驕る理由は上記の他に、相手が喜ぶという感じも伝わるからであろう。確かに喜ぶ奴は多い。「優しい」とか「思いやり」とか、食事を驕る場面にはない。
巷にいう、「優しさ」という言葉は何をもって「優しい」というのかは人によってちがうが、人生経験を積むと物事を、「あるがまま」に捉えてはならない場面が結構ある。斜め読みも必要ということだが、それからすると、「優しさ」の正体というのは、胡散臭い物であったりする。相手から供与される(一方的に自分が感じる)「優しさ」とはなんだろうか?
本当に優しい人間と優しい素振りをする人間がいる。熟年となると、この違いが分かるようになる。判別不能な人もいるが、その人と多くの時間を持つにつれて見えてくる。時間を持てない場合は、分からぬままで終る。本当の優しさを心に持つ人間を一言でいうと、自身の利害得失を考えていないように見え、その根底にあるものを「良心」というのか?
「良心」を言葉では上手く説明できかねるので、正確な意味を調べてみると、「自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識)に照らして、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのこと」とある。言葉の意味は分かるが、それが「良心」というものなのかは分かり難い。噛み砕いていうなら、「善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き」ということか。
であるなら、人間関係に「良心」を当て嵌めるときに、人の「善悪・正邪」を基準にしていることになるのか?それは違う。「良いか、悪いか」、「正しいか、正しくないか」とは別に、「共感」、「思いやり」からの行為もあろう。「善意」というのは、「善い行い」という意味だが、「善意の募金」の深い意味は「相手を思う心」で、募金の行為自体が善い行いとは言い難い。
あるところに私財1億円を寄付したところで、動機が純粋なものでなく、秘された自己顕示欲なら、それを善行と言わない。ニーチェは、「善とは善意思によってなされる行為」といった。不純な思惑を秘した善行は善にかこつけた「醜」ではないかと。まあ、1億円をもらう側は意図がどうあれありがたいだろうから、行為そのものは善という見方もできる。
「人間は、嘘と欲でできている」と、誰かいったか?今、自分がいった。聞いたことはないが、人間は言葉を持つ以上、誰でも嘘をつく。して、「嘘」が「悪」なら、この世は悪人だらけとなり、人間がいる以上、この世から「悪」が消えることはない。まあ、「善」も「悪」も、人間が人間の行為に対し、後から貼り付けたレッテルだ。テロリストも「善」の行為とやっている。
哲学は表層を論じることではない。が、世間は、人間は表層こそ大事なのかも知れない。本質ばかりに目を向けて世間を生きると、歪な人間と解される。よって、「信念の人」は変人とみなされる場合が多い。突きつめた考えも、時には、「ぞんざい」、「ぐーたら」であるのが世間人であろう。三島由紀夫は文学的に天才の資質を示したが、割腹自殺を遂げた。
彼の心がどうであったか、病んでいたのかどうかをめぐって、病跡学者の間で激しい論争がなされた。「病跡学」とは、作家の作品に精神医学的見地から作家の心の底を探り、創作の秘密を解明する。ある精神科医は、「三島氏は自決前から精神分裂病を病んでいた」と指摘し、その理由として三島の最高傑作『金閣寺』から、以下の段をあげる。
"総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のように一つの影像は無限の奥までつづいて、新たに会う事物にも過去に見た事物の影がはっきりと射し、こうした相似に導かれて知らず知らず廊下の奥、底知れぬ奥の間へ、踏み込んで行くような心地がしていた。"
かの精神科医はこのように指摘もする。「『金閣寺』全体が、こんな雰囲気に満ちています。多くの世間の人には、こういう表現が凡人の想像力を超えた三島文学の世界と映るかも知れません。が、精神科医の目からみれば、これは精神分裂病の発病初期に見られる心の世界なのです。しかも、共感とか理解とかいうにはあまりにも生々しく書かれている。
自ら体験するか、ごく親しい患者と接しなければ、書き得ない一種独特の雰囲気をもっている。精神医学の専門書を何回読んでも、あのように描き出すのはムリであろうし、もし、三島に診断をつけるとなれば…、妄想症(パラノイア)か、妄想型分裂病というべきでしょう」。勝手に人を精神病患者に仕立てているが、これが彼らの日常業務である。
妄想症患者はゆるぎない妄想の体系を、長い時間をかけてガッチリと組み立てて行く。その体系の内容は全体として、現実にはあり得ないものに近づいて行き、説得しても訂正は不可能であるが、この妄想を別にすれば、知能も行動もキチンとしていて、病的な印象をほとんど他人に与えない。上記の説と対立する別の精神科医は以下の見方をする。
三島は精神病者というより性格の偏った人物であり、低い背丈に虚弱なカラダのほかに、女の子として育てられた生い立ちが影響してか、男色という性癖を含む特異で強い劣等感を、彼の並外れた強い意識的自己統帥力で克服していく。その過程の中で作品が書き捨てられた。弱い自分を隠すために自己顕示的に振舞うのは、ヤクザと同様である。
三島もそのように振舞うことで、次第に現実離れした人間になって行った。また、仮に「妄想症」であるにしても、それは病気ではなく異常性格が発展したものであろう。どちらが正しいかは分らないが、精神病と関わりのある作家は三島に限らない。夏目漱石はまぎれもない精神病で、彼は探偵につけ狙われているという妄想をしばしば抱いた。
向かいの下宿の青年が本を読んでいれば、自分の陰口をいわれていると思い込む。手当たりしだい家人に物を投げたりした漱石は、精神分裂症とも鬱病とも診断されている。芥川龍之介は、「自分はあらゆる罪悪を犯している。それゆえに人は自分をあざける」などと思い込んだ。本屋に入ると、どの書物も自分を非難しているように思えた。
外出すれば誰かがつけ狙っていると恐れ、背を丸めて逃げ回った。これらから、「分裂病」と多くの病跡学者は診断している。宮沢賢治も約7年周期で廻ってくる躁鬱病であり、「躁」の時期に入る時、出る時、彼は正常な人間の見ることのできない世界を見た。それゆえ、『グスコーブドリの伝記』や、『銀河鉄道の夜』などの自伝的・幻想童話を書いた。
三島を分析した二人の精神科医はそれぞれ以下のように言う。「『金閣寺』を書いて、三島は発病からとりあえず逃れることができた」。「もし、三島が創作をしていなかったら、分裂病的発病をしたであろう」。多くの分裂気質の作家や芸術家にとって自ら生み出す作品は、精神の拠り所であり、それはまた、精神的疾病発病の抑止になっていたといえる。
精神病者は人口の6~8%あたりを推移するといわれるが、世界史にみる天才400人を選ぶなら、精神病者の割合は実に13~15%にのぼる。特に有名な天才78人に絞ると、その割合は40%近くに達する。さらに、ニュートンやドストエフスキーなど、超有名天才となると数字はさらに上がり、その中でも変人といわれる人は90%、正常者はわずか3人となる。
芸術や科学分野において無視できない部分が、狂気や純然たる精神病と深く関わりあって生み出された。もし、狂える人がいなかったなら、我々の心の文化は貧困であったろう。「自分は預言者」、「キリストの生まれ変わりである」などの発言者も、誇大妄想的精神異常者の部類である。「前世は仏陀である」、「天草四郎である」という有名人もいる。