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家族の消像

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ルキノ・ヴィスコンティに『家族の肖像』という作品がある。1974年公開のイタリア・フランス合作映画だが、日本での公開はなんと4年後の1978年である。しかも、ヴィスコンティはその2年前に69歳で亡くなっている。映画は大ヒットし、日本でヴィスコンティブームが起こる。それほど話題の映画とはいかなるものか?という動機で観たが、当時の自分はこの名作を理解する頭も感性もなかった。

若者から変わって、「老」の立場で観てみたい。撮影はルメットの『十二人の怒れる男』同様、大学教授のアパートの一室のみで行われた。英題の 「Conversation Piece」 とは、18世紀イギリスで流行した「家族の団欒を描いた絵画」のことで、それを『家族の肖像』という邦題とした。老教授と価値観を異にする若者が同居する話で、格闘の末に若者は自殺する。

両者の思想の違いが、口論からとっくみあいの喧嘩へと対立するが、教授は成すすべもなく、若者も立ち去るしかない。「家族ができたと思えばよかった」と、教授は今までの自分の態度を悔やんだ。教職者はどうにも教えたがり屋である。翌日、若者は教授に手紙を残し、上階で爆死した。教授はショックで寝込んでしまい、やがて息を引き取る。教授が若者を、若者はまた教授を死なせた。

家族とは、「近親者によって構成される人間の最小の居住集団」だが、さまざまな言い方がある。Wikipediaには、「居住を共にすることによってひとつのまとまりを形成した親族集団のこと。また、「産み、産まれる」かかわりの中から生じた親と子という絆、そうしたものによって繋がっている血縁集団を基礎とした小規模な共同体が家族である。」と記され、ブリタニカには以下の記述がある。

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「婚姻によって成立した夫婦を中核にしてその近親の血縁者が住居と家計をともにし、人格的結合と感情的融合のもとに生活している小集団。家族は原始的群居の状態から次第に血縁的秩序の分化を経て、今日の小家族へと段階的変化をとげてきた」。したがって、同じ家屋に居住する血縁集団に限定の場合もあり、現代においては、直系親族を中心とする単家族のことを指す場合もある。

戦前の日本の家族は「家制度」に基盤をおき、地域社会や国家とつながる「イエ」を形作っていた。「家制度」とは、1898年(明治31年)に制定された民法に規定された日本の家族制度で、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えた制度である。江戸時代の武士階級の家父長制的な家族制度を基にした。

「家」と「家父長制」の二つを大きな要素としていた「家制度」は、女性参政権の施行と日本国憲法の制定に合わせて、1947年(昭和22年)には民法が大規模に改正されたことで、親族編・相続編が根本的に変更された為に、家制度は廃止された。したがって「家族」の概念は、戦前、終戦、そして現代へと歴史的変容を見るが、フェミニズムは戦前の「家制度」的「家族」を批判している。

「家族は、家父長制と女性に対する抑圧を存続させる主要な制度である」と、『フェミニズム事典』(明石書店)に定義されている。よいものや、よい場合もあったが、それらを跳ね除け、女性に都合のいいことだけを主張する「フェミニズム」は、極端さから理解を得られない。なぜ日本人フェミニストは、「男だけが戦争に駆り出されるのは男女差別だ!」と言わない?可笑しいと思わないのか?

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イスラム社会といえば、一夫多妻制で女性がヴェールをかぶり、行動が制限され、学校にも行かせてもらえないなどのイメージだが、全てのイスラム社会がそうとはいえない。イスラム教の聖典『クルアーン』には、一人の男性は4人まで妻を持つことが許されている。しかし、現実にこの規定を適用し、制度として認めている国は少なく、現在大半のイスラム社会は一夫一婦制である。

そもそも一夫多妻制は、なぜ成立するのか? イスラムの社会だけでなく、日本においても男性が妾を持つことは、旧憲法下で認められていたし、旧刑法の「姦通罪」は、夫のいる女性がほかの男性と関係を持った場合に、相手の男性とともに適用されるもので、妻ある夫が、夫のいない女性と関係を持つのは「姦通罪」とならない。したがって、妾を持つことは事実上合法とされた。

論理として矛盾はないが、なぜそうした状況が成立するのか?一夫多妻制という明らかな性差別的な制度がなぜ成り立つのか? 理屈は単純である。①男性間に大きな階層間格差がある。②女性が自立して生きていくことが難しい。この2つの条件を満たしている社会では、法がそれを容認するかどうかとは別にして、一夫多妻制が成立する土壌にあり、女性から見た理由も明確である。

つまり、豊かな生活力のある男性の第二夫人になる方が、貧しい男性の唯一の妻となるよりもはるかによい生活ができるからである。依存型女性にすれば、第二夫人を選ぶことが、「合理的」となる。依存はいやだと独立自尊を標榜する女性であっても、それでは生きていけない社会形態がそれを阻む。「女衒」や、「唐ゆきさん」といった時代の女性哀史がそれをものがたっている。

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女性側にとって合理的であることが、一夫多妻を成立させててしまうということ。もちろん、社会の未整備という問題もあるが、それらはあくまで「力学」の問題で、決してよいこととはいえない。ところが、女性の合理的思考は現代にも強く現れている。簡単にカラダさえ与えれば、時給800円でちまちま働くなどバカらしい。そんな彼女らをみるまでもなく、女性は合理的思考が根底にある。

女性の物欲が、性欲が、簡単に己の自制心をなくさせるのは、女性が生きて行きにくい社会制度とは別の問題のようだ。安易に風俗に身を投じてしまう女性は、合理的な考えに自ら屈するようなもの。「もはや、そういう世界でしか生きていけない」などと、もっともらしいことをいうが、自尊感情を失わない女性は薄給で生計を立てている。金で身を売るのは何も女性ばかりではない。

金で心を売る男だっている。お金は人間の身や心を売ることもできる魔物である。だから、ゼニカネで身を売らない女、高禄で心を売らない男に価値があった。言い換えるなら、ゼニで身を売る女、カネで心を売る男は、人間の尊厳がゼニカネ以下となる。身や心はそれほどに軽いもののようだ。では、毅然とした人間の尊厳は、どのように身につけられる?といえば、何よりも教育であろう。

「万歳岬」というのは地名ではない。「バンザイクリフ」とも言い、「万歳岬の悲劇」として名を残す北マリアナ諸島、サイパン島最北端の岬の別名である。昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したところ。初めてこの実写フィルムを見たとき、いいようのない怖さを感じた。人がまさに自殺をする場面を目撃する怖さであった。


我々の同胞が、死というものを何ら恐れることなく、ためらうことなく、立ち止まることさえなく、絶壁から身を投げるという恐怖、人の最後を見せつけられる恐怖。人は命と言うのをこれほど簡単に捨てるものなのか?それが戦争なのか?「窮鼠猫を噛む」は、鼠さえ猫に刃向かう。なのに、なぜ人間は「万歳!」の名の元に簡単に命を捨てるのか?その事が理解できなかった。

それが教育なのだ。と、理解した。「鬼畜米英」という洗脳教育、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」という戦陣訓。1941年1月、当時陸軍大臣であった東条英機が、全軍に示達した戦陣訓の元に皇軍兵士たちは、捕虜となることは「非国民」の恥辱と考え、そうすることは残された家族も迫害される恐れを抱いた。事実はともかく、国家の無言の圧力である。

「戦陣訓」の解釈はさまざまいわれるが、サイパン島の悲劇の本質というのか、実態は田中徳祐著『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』のなかに、米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが、自殺の要因として生々しく綴られている。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。この著書はGHQにより発禁処分を受けた、幻の実録サイパン戦記である。

教育は人を作り、人を導くが、人の心も変える怖い面もある。どのように変わるかは人次第。「鬼畜米英」と教え込まれた日本人にとって、顔の赤い、図体のデカい米兵は、さながら鬼に見えたろう。手記にはこのようにある。「投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。

イメージ 5距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から、「殺して!」、「殺して!」と絶叫している。その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。 やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。 絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。……なんたることをするのだ!小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。

この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい…。あの投降勧告はー体なんだったのか」。戦争という狂気、人間の狂気がここにある。

家族が消えていく。肖像写真も家長が中央から端に移動だ。下重暁子の『家族という病』が売れている。他人の家族はよく分らないが、一声かかると必ず集まる我が家族。今年は4日にボーリング大会。老夫婦、長男夫婦、長女と孫、三女夫婦の4ペアで毎度の賞金争奪戦。1位8万、2位4万、3位2万の結果は、長男、三女、長女の順。老兵は去り行くのみだ。

終了後は長男の驕りにて御寿司屋さんに。長男は自分に似て太っ腹、気前がいい。2万5千円を支払う。事前に娘に問うた。「優勝したらみんなの食事代を出しなさい。それが家族愛というものだろ?」。長女も三女も口を揃えて、「冗談言わないでー、買いたいものあるんだから!」と、どうして女というのはこうもケチで欲なのか?親の顔が見てみたい…

英語で家族を意味する「Family」の語源があまりにも美しい。「」はfather、「」はand、「」はmother、「ily」はI Love Youの頭文字を とっているというもので、すべて繋げると、Father And Mother I Love Youと感動的なフレーズになるが、単なる言葉遊び、もしくはでき過ぎたこじつけであろう。本来は、ラテン語の「Familia」が語源という説が有力である。

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