「自分のすべてを終わらせる前に興味半分で殺した」。東京・江戸川区で17歳の女子高校生が殺害された事件で、逮捕された青木正裕容疑者(29)は、昨年11月12日午後2時すぎ、江戸川区の自宅アパートで高校3年の岩瀬加奈さんの首を絞めて殺害、現金7000円入りのバッグなどを奪った。司法解剖の結果、岩瀬さんは首を絞められたことによる窒息死だった。
青木容疑者は、同じコンビニ店のアルバイトとして岩瀬さんと知り合った。青木はこのコンビニ店を辞めていたが、バイト中の岩瀬さんを待ち伏せて、偶然、出会ったように装い、「新しい化粧品のサンプルをあげる」と誘い、自宅に連れ込んだ。「逃げられないよう岩瀬さんを先に部屋に入れ、手などで首を絞めた」との供述に、親の気持ちはいかばかりか。
「自分のすべてを終わらせる前に興味半分で殺した」との青木容疑者の供述が事実なら、動機なき殺人は本人の望みどおり死刑にすべきである。過去の判例の兼ね合いからして無期刑が妥当であろうが、そういう事より裁判員は本人の望みを叶えてやったらいい。「死にたい、その前に人を殺してみたい」というような人間が、更生するとは到底思えない。
動機なき殺人は一種の愉快犯の類であろう。このようなちゃらけた感性所有者は、重罪にすべきである。複雑多岐な人間関係の機微が、加害者と被害者の間に様々な問題や軋轢を生む。ゆえに些細なことも動機となる。しかし、今回のようなバイト先が同じという以外、まったく関わりのない、顔見知り程度の人間をまるで遊びがてらに殺すのは言語道断である。
青木は事件前日岩瀬さんに、「化粧品のサンプルをあげるとアパートに誘った」との供述だが、現場検証で同様の物は見つかっていない。「岩瀬さんなら自宅に来てくれると思った」、「首を絞めることに興味があった」ともいい、「収入は月15万円ほどで、生活が苦しかった。借金が100万円くらいあった」とも供述している。同署はさらに動機を追及する。
「人の首を絞めてみたい」、「人を殺してみたかった」などから起こった殺人は過去にいくつかある。これらを「動機なき殺人」、「理由なき犯行」というが、「人の首を絞めてみたい」、「人を殺してみたい」などは、こんにち立派な殺人の動機である。「動機なき」、「理由なき」などの曖昧表言は止めるべき。1967年のアメリカ映画『冷血』は、動機なき殺人の典型といわれる。
事件は、1959年11月14日深夜、カンサス州西部の名士・クラッター家の4人が惨殺されたところから始まる。映画の原作はトルーマン・カポーティの同名小説で、彼は『ティファニーで朝食を』などを書いた天才作家。『冷血』は、実話を6年の歳月を費やし、調べ上げたノンフィクション・ノベルの金字塔で、それをリチャード・ブルックスが脚色・監督した。
『夜の大捜査線』のスコット・ウィルソン、『雨のニューオーリンズ』のロバート・ブレイクらが主演した。そのブレイクは02年、妻の殺害容疑で逮捕されている。それを頭に置いて観ると別の怖さがある。ブレイクの妻殺害事件は興味深い。00年11月、24歳年下で被害者となるボニー・ベイクリーが、ロバート・ブレイクとの間の子どもを出産し結婚した。
事件は結婚半年後に起こる。01年5月4日にロサンゼルスのレストランに、妻ベイクリーとブレイクは食事に出かけた。食事後、車に先に乗って待っていた妻ベイクリーが何者かに射殺されるが、この時ブレイクはレストラン内にいた。ところが、1年後の02年4月18日、長年連れ添ったボディーガードとともに殺害を企てたとしてブレイクは逮捕されるのである。
ロス市警は、元スタントマンのロナウド・ハンブルトンが、「ロバートから妻を殺害する仕事を請け負わないか」と誘われたと証言し、ブレイクと元ボディーガード訴追の重要証拠となった。03年、1年間の拘留期間経て、約1.5億円の保釈金でブレイクの保釈が許された。05年3月16日、米カリフォルニア州ロサンゼルス地裁大陪審はブレイクに「無罪」を言い渡す。
「無罪」の理由として、物的証拠に乏しいこと、スタントマンによる2人への証言に不審な点がみられたこと、スタントマンには過去、ドラッグなどの犯罪歴があったことなどから、彼の証言は信用するに不十分とされ、陪審員12人中11人が無罪評決を支持した。殺害された妻のベイクリーは、金銭目当てにハリウッドの有名人に近づいていたと報じられた。
それが殺害動機になったとの見方が強い。ベイクリーという女性はかなりの曲者で、身分証明書やクレジットカード偽造などの犯罪歴や売春歴などもあった。しかもブレイクと結婚するまでに9回の結婚歴があり、それについて結婚詐欺を行っていたとの噂もあった。彼女は7歳の時から父親に性的虐待を受けており、母親はそれを知りながら放任していたという。
高校卒業後、ベイクリーは女優を目指してハリウッドに出たがうまく行かず、以後、体を売って生活をしのいでいた。90年代にジェリー・リー・ルイスの子供ができたと彼に訴えかけるが、DNA鑑定で虚実とされた。さらに長女の売春手配をし、ドラッグの常習者でもあった。とはいえ、ロバート・ブレイクが妻の殺害依頼が事実なら、身勝手な犯行である。
ブレイクに対する無罪評決後、ベイクリーの3人の異父子はブレイクが母を殺害したとして民事訴訟を起こす。訴訟のさなかの05年11月18日、陪審はブレイクが妻の殺害事件に関して嘘の証言をしたと、3000万ドル(約30億円)の支払いを命じた。これを受けて06年2月3日、ブレイクは自己破産を申請した。偽証罪の罰金が30億円とは、さすがキリスト教のお国である。
本題の映画『冷血』だが、カンサス捜査局の腕ききの刑事が捜査に当たるが、まったく犯罪の動機の見当たらない不可解な事件だった。警察の描いた犯人像は、①不幸な子供時代(親の虐待)を経験、②身体・精神に障害をもっている、③現実と妄想の区別がつかないなどであったが、これといった手がかりもないままに空しく時が過ぎ、迷宮入りと思われていた。
ところが、事件は以外なところから割れる。かつてクラッター家の使用人で、州立刑務所に服役中のウェルズが、囚人仲間のディック・ヒコックという男に、クラッター家の金庫について話したことがあり、そのディックが出所後にクラッター家を襲ったのでは?という仮設の基に、捜査線上にディックと友人のペリー・スミス(ロバート・ブレイク)の2人が浮かぶ。
12月30日、事件発生1カ月半後、ペリーとディックは、ラス・ベガスで別件逮捕される。刑務所で仕入れたガセ情報を信じ、押し入った豪農家族4人を惨殺した無軌道な犯罪者2人の顛末だ。本作は原作の雰囲気そのままに、抑制した演出と陰影を強調した映像で仕上げた実録映画。1967年当時としては衝撃的であったが、映画の持つ普遍性は現在も兼ね備えている。
襲撃したのに40ドルしかなく、襲われた一家は殺されるはずないと信じ、犯人の言うことを大人しく聞いている光景はなんともおぞましい。実際、この事件は「殺す理由」がまったくない。一家に顔を見られた?──そんな事を怖れるような犯人ではない。刑事は2人の供述から証拠を固め、殺人罪で起訴。1960年3月22日、2人の裁判が始まり死刑の宣告が下りる。
後に2人は何度となく上審するなどして時間稼ぎをしたが、1965年4月14日、関係者一同が見守る中、絞首刑に処せられた。「なぜ2人の青年は、理由もなく4人の人々を殺したのか?」。ノンフィクション犯罪映画の最高峰が問うものとは何か?殺人には多かれ少なかれ理由があり、その理由は個々の歴史の中から生み出されていくものだと言うことを知らされる。
その理由の1つが、母親の子どもに対する姿勢であることを知るにつれ、"犯罪の者の影に親あり"との事実を突きつけられる。親が子どもに与える影響力を言い換えるなら、子どもは両親の罪を全て背負って大人になるのであろう。犯人の1人ペリー・スミスと原作者カポーティの生い立ちには、いくつか共通点があった。二人が子どもの頃、両親が離婚している。
カポーティ自身、まともな教育を受けず、独学で今の地位を築き上げた。故にカポーティは獄中のペリーと親密になれたばかりか、ペリーの心の闇に触れたカポーティは、ふと気付くのだった。彼は自分自身と同じであるということに──。ペリーに共感したカポーティは、死刑を宣告された二人に優秀な弁護士を雇い、控訴の手助けをするのである。
人助けのようだが、真の目的は自身の作品を完成させる事だった。そのためにはペリーの救命と取材時間を稼がねばならない。青年から事件の詳細を聞きだし、さらには死刑が執行されねば話が完結しないというジレンマが待っている。驚くべき創作意欲である。「同じ家に生まれ、正面玄関から出て行ったのが自分で、裏口から出て行ったのがペリーだ」。カポーティはそう呟く。
自分は賞賛される人気作家、ペリーは死刑が待ち受ける犯罪者だが、二人の根っこは同じであると。ペリーの死刑が確定したとき、カポーティは親友の女性ネルに電話し、「彼のために何もしてやれなかった」と落ち込んだ。ネルは、「死刑にしたかったんでしょ」と冷たく言い放つも、ネルには傷つき病んでいくカポーティの二面性を理解することは出来なかった。
カポーティは、その天才性でもって巧みにノンフィクション・ノベルの嚆矢となる傑作を書き上げた。が、反面彼は天才であるが故の鋭い感受性を傷つけ、自らの行為に身動きがとれなくなるほどに病んでしまう。『冷血』発表後は1冊の本も書けず、日々アルコールとドラッグに溺れた。そして1984年8月25日、ハリウッドの友人宅で59歳の短い生涯を閉じた。
カポーティは野心家である反面、トラウマを抱えた孤独で繊細な性格の持ち主だった。彼はまぎれもない人格破綻者だが、『冷血』の犯人たちのような、冷酷無比を隠匿する偽善者ではなかった。彼の『冷血』執筆までの苦悩が、『カポーティ』という映画になっている。監督はベネット・ミラー、カポーティ役のフィリップ・シーモア・ホフマンの完コピ演技が秀逸である。