孔孟より老荘と書いた。儒家は自分自身の修養から出発し、国家全体の統治にまで及ぶ目的を掲げる。老荘の道家はそれらを否定し、「無為自然」によってこそ世の中はすべて治まると説いた。 「無為」とは、「人為」の否定を意味するが、だからといって何もしないということではない。むしろ、人間の行いや人間的営為を「偽」として否定したうえで、天地自然の理法に従うこと。
そんなことが果たして人間に可能か?正直難しく、簡単にできるものではないが、近づくことや掲げることは可能だ。何かを行為する場合、「利」に殉じているか、「理」に殉じているかしばしば直面し、それを自らに問い直す。「道理」より、「利害」が優先する人は多い。斯くの人間は、「誰だってそうじゃない?」と言う。が、道理と利害を戦わせる人は、利害に蹂躙されていない。
道理と利害に葛藤し、自を批判・叱咤する。そのプロセスを経なければ、人間は自己の利益を何より優先する。例えば、日本が近隣の蛮国に攻められ、戦争が始まったら率先して銃器を持って戦うという人がいる。「しぶしぶ」ならともかく、「率先して」などと勇ましい事を言う。言葉は行動ではないし、言葉が本当かどうかは、実際に戦争が起こってみなければ分らない。
人間は未知のこと、未来のことについて即断意見をいうが、それらは今現在の考えであり、否定せずに聞いていればいいだけだ。ただし、人間の心は絶え間なく変化する。20歳のときに、「国のために戦う!」と言ったとして、30歳で戦争になり、妻子もいたとするなら誰だって行きたくなくなる。が、20歳の時にそういったから、信念は変えないというなら見上げたもの。
誰の制約も受けない自発的な言葉はいかに変節しようとも罪はない。環境は人を変えるし、自ずと変わるもの。「信念」という言葉は聞こえがいいが、信念は未来に問うもの、されど過去に問う事多し。小学生の子どもが、「将来はサッカー選手になる」、「野球選手になる」と綴った卒業文集は微笑ましい夢で、立派に実現した人には「信念」の言葉を贈りたい。
実現しないからと責めることもない。夢を持つのはいいが、持たないから悪いわけでもない。漠然とした夢、夢に向かわない夢、向かって挫折した夢、全ては他愛もない夢と見ていい。夢は叶ってこそ夢、叶わぬならただの願望である。あげく、持てば叶うということもない夢を本当に叶えた人の言葉は、「決して諦めないで夢を持ち続けた」というのが多い。
が、同時に諦めないで夢を持ち続けても叶わなかった人もいる。その差を「才能」というしかないだろう。「夢」の根本は、目的意識を持つことにあると考える。実現に向かってたゆまぬ努力を惜しまないことにある。結果として叶わなくとも、自分の人生の一ページに残る何かであろう。挫折もプラスにすればいいし、決してネガティブになることもないが、そうもいかない人もいる。
夢を抱いた時点では、未来のことは分らない。昔の少女は、「夢はいいお嫁さんになること」などといったもの。漠然とした夢であり、取立てなにもせずとも恋愛すればいい。恋愛が叶わぬならお見合いでもいい。が、いいお嫁さんになるためには、「お料理」、「お裁縫」が必須と、高校を卒業後に料理教室や洋裁学校に通う女子もいた。それらを花嫁修業といった。
それを思うと花嫁修業とは夢への邁進である。「花嫁」とは美しい言葉。「花」という言葉の持つ色々な意味にかけている。「花」=これから開く、美しく人の目引く、花の後には種が出来る…もある?御目出度い席に、花々しく煌びやかな美しい日本語だ。さするに、女が人生でいちばん輝くのは花嫁になる日。それをを知ってか知らずか、少女は本能的に花嫁を夢見る。
「結婚式」というイベントに夢中になる「花嫁女子」、昨今は、「地味婚」などの流れもあるが、それでも女性にとって結婚式は大事なイベントである。男にとってはどうでもいいとか、あまり興味ないというのが通例である。昨今のように、業者が演出したプログラムに乗っ取って、まるで猿回しの猿が如きは、男にとって屈辱とまではいわないにしろ、愚かさ丸出しに思えてしまう。
が、女性と言うのは、綺麗なウエディングドレス(あるいは白無垢)を着て、色んな人に祝福されて、それで大好きな人と結婚するってのは夢心地。業者によるプログラム演出やわざとい進行より、結婚式自体が大事である。結婚式など無駄な事だと思いつつ、女のナルシズムを理解する、もしくは、「派手はやめよう」と説得する。無理なら女の言いなりになるしかない。
「結婚式に大金をかけるなどバカげた事」との考えに同調する女性もいるが、「女性は小さい頃から『お嫁さんになる』っていうのは1つの夢です。それが現実になり、色々浮かれて何がいけないの?って感じ。彼女が喜んでいるなら、幸せにしてあげたいと思うなら、つきあってあげるべき。そんな事いっているようなら、あなたの結婚はないですね。是非、結婚式・披露宴なんてぜったいしたくない!くだらない!と言っている女性を探してください。」
と、こういう発言もある。自らの考えを表明するのはいいが、「あなたの結婚はない」だの、「そういう女性を探せ」と感情的になるところに思慮がない。「派手婚否定者」を愚弄してまで自分の考えを肯定する必要はないと思うが、自分と異なる考えにムキになる。「そうですね、そういう人もいますよね。わたしは派手にやりたい派ですけど…」といって、何も問題ないのだし。
己の考えに抗う相手憎しと人格攻撃する女は困りものだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の女性は、他者の考えを認めつつ、よりよいものを模索する議論ができない。バブル時期と違って、地味婚がこんにち社会の趨勢なら、柔軟に応対することも大事であろう。それでも派手婚が夢なら、しっかり蓄えて夢を叶えなさい。他人の褌で相撲を取って何が夢かと。
道理というものに欠陥はないが、「傲慢」にはどこか欠けたものがあるのよ。そこに気づかず夢だのなんだのと美辞麗句並べ、をゴリ押しする女性は、不作と思って間違いない。「臨機応変」とは、いわずもがな時と場合に応じて、対応や考えを変えることを言うが、男にもっとも必要なものとされている。『坂の上の雲』の秋山真之の対応をリーダー学の範とする経営者は多い。
老荘思想の根底にあるのは「自然思想」。四季の移り変わりという自然に合わせて、それに人間が対応するように、状況に合わせた変化こそ自然であり、それをせぬを「無理」という。詩人の加島祥造が昨年12月25日に死去したのが伝えられた。享年92歳、死因は老衰である。信州大や横浜国立大で英米文学を教え、フォークナーやマーク・トウェインの翻訳がある。
東京出身の加島は、90年ごろから長野県の伊那谷に移り住み、老子に傾倒した。「タオ―老子」、「タオ―ヒア・ナウ」など、老子の思想を現代詩で表現した本が話題を集めた。07年の「求めない」は、「求めない――」というフレーズで始まる作品を収めた詩集である。山深い谷での素朴な暮らしから紡がれた言葉は、競争激化の現代社会に広く受け入れられ、ベストセラーとなった。
彼は、「求めない――」について、「もう少し安らかに生きたいと思う時、この言葉を自分に向けると楽になった。80歳を超えた実感から出てきた言葉なんだ」と、2008年の朝日新聞の取材に答えている。自分も何がしかの実感から変わったもの、変わりつつあるものはあるが、まだまだ無欲や自然の境地には程遠い。が、自分の欲するものを求める域に近づきつつある。
『求めない』(加島祥造)より
求めない―― すると 失望しない
求めない―― すると 心が静かになる
求めない―― すると 心が静かになる
求めない―― すると それでも案外 生きてゆけると知る
求めない―― すると いまじゅうぶんに持っていると気づく
求めない―― すると いまじゅうぶんに持っていると気づく
求めない―― すると 比べなくなる
(ひとと自分を 過去と今を 物と価値を 持つと持たぬとを)
(ひとと自分を 過去と今を 物と価値を 持つと持たぬとを)
求めない―― すると 自分の好きなことができるようになる
求めない―― すると すべてが違って見えてくる
(だって、さがさない眼になるからだ)
求めない―― すると 前よりもひとや自然が美しく見えはじめる
ほんとうだよ、試してごらん 求めないものの美しさが見えてくるんだ!
(だって、さがさない眼になるからだ)
求めない―― すると 前よりもひとや自然が美しく見えはじめる
ほんとうだよ、試してごらん 求めないものの美しさが見えてくるんだ!
求めない―― すると ひとの心が分かりはじめる
だって、利害関係でない目で見るからだ
だって、利害関係でない目で見るからだ
求めない―― すると 改めて 人間は求めるものだ と知る
求めない―― すると 自分にほんとに必要なものはなにか 分かってくる
求めない―― すると 自分にほんとに必要なものはなにか 分かってくる
一切なにも求めるな、 と言うんじゃあないんだ
どうしようか、 と迷ったとき 求めない――と 言ってみるといい
すると 気が楽になるのさ
どうしようか、 と迷ったとき 求めない――と 言ってみるといい
すると 気が楽になるのさ
求めない―― すると 頼らなくなる
これが「求めない」の いちばんすごいポイントかもしれない
これが「求めない」の いちばんすごいポイントかもしれない
「自分全体」の求めることはとても大切だ。ところが「頭」だけで求めると、求めすぎる。ぼくが「求めない」というのは求めないですむことは求めないってことなんだ。
「求めない」の本質は「求める」であろう。加島とてそうであるように、人間は本当に自分の求めるものを求めればいいし、それが本当の幸福であろう。自分は、「親や周囲の言いなりになるな。迎合するな。」という基本的な考えにある。何かを手に入れたのに、たいして幸せを感じられない。目標を達成したのに、それほどうれしくない。こういう人は気づかなければならない。
それらは、本当に自分が望むものだったのか?誰かの望みや期待に応えるものだったのではないのか?人の目や周囲・世間体を気にしたものだったのではないのか?これについて、ラ・ロシュフーコーも同様の事を言っている。 『人はおのれの好むものを得てこそ幸福であるが、他の人々が好ましいと思うものを得たとて幸福ではない』と…。