学校出てから十余年 今じゃ会社の大社長
キャバレー通いのつれづれに
読まれた鼻毛が五万本
サバ云うなこのヤロウ
キャバレー通いのつれづれに
読まれた鼻毛が五万本
サバ云うなこのヤロウ
ハナ肇とクレージーキャッツの『五万節』の作詞は、元東京都知事の青島幸男で、彼は早大商学部を主席で卒業した秀才であり、処女作『人間万事塞翁が丙馬』で直木賞も取っている。肩書きは多く、作家、作詞家、タレント、俳優、放送作家、映画監督、政治家とマルチな活躍ぶりをみせた。小説を執筆する前に青島は、「直木賞を取る」と公言、有言実行して驚かせた。
役者として主演した「いじわる婆さん」で国民的人気を博す。政治家の一歩は、1968年、第8回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、2位で初当選した。第1位は石原慎太郎、3位は上田哲で、タレント議員のパイオニア的存在となる。作詞家としては、『スーダラ節』、『明日があるさ』などのヒットがある。2006年12月20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため74歳で死去。
なんでまた政治家に?行き着くところはそこなのか?彼は議員にならない方が魅力的だったし、矢崎泰久は著書で、「裏切り者」、「議員になって途端に尊大になった」などと酷評した。青島は世襲制を批判しておきながら、1995年の第17回参議院議員通常選挙には、自らの後継として実娘の青島美幸を二院クラブ公認で比例区に立てるも落選、二枚舌と批判を受ける。
野坂昭如や永六輔に都知事時代の失政を責められ、孤独感を漂わせたようだが、野坂の批判に対し、「てめえなんかホームレス以下だ!」と怒鳴り返すなど、頭に血が上りやすい面もあった。政治家タイプではなかった彼は、"政治にまで手を出した"というべきだろう。作詞の才能は抜群で、クレージーキャッツや植木等の歌詞はユニーク、『明日があるさ』は素晴らしい。
『五万節』は、鼻毛5万本、ピース5万箱、ホームラン5万本、斬られて死んだ5万回、雨戸におじぎ5万回、つぶしたシューズ5万足、飲んだビール5万本と続くが、当時のギャグはこんな程度のもので、いずれも「サバいうなこのヤロー!」のオチがつく。シューズ一足5千円として、5万足歩きつぶせば2億5千万円の出費となる。郷ひろみの歌じゃないんだから…
青島の『五万節』にイチャモンつけるなら、1番の"読まれた鼻毛が五万本"の歌詞。鼻毛という言葉の面白さを狙ったにしろ、全体の脈絡やその流れからして、「鼻毛」はいささか無理っぽい。大会社の社長がキャバレーのホステスに鼻毛の本数を読まれたからって、それが何だというのか?ここは鼻毛以外の別の言葉を入れた方がしっくりくる。自分なら以下の歌詞にする。
学校出てから十余年 今じゃ会社の大社長
成~りあがりのバカ丸出しか
通ったキャバレー五万軒
サバ云うなこのヤロウ
成~りあがりのバカ丸出しか
通ったキャバレー五万軒
サバ云うなこのヤロウ
単位にもよるが「五万」は相当な数。5万センチと5万キロでは大違い。今回、ウォーキングで初5万歩を達成した。アクシデントはなかったが、この日は下り坂をぴょンぴょン跳びはねた時に着地が問題だったのか、ふくらはぎの腱か筋肉を傷め、軽い肉離れ症状となる。少しの痛みだからどういうこともないが、跳びはねるのは結石を出すためとはいえ、着地には注意がいる。
5万歩程度で足がだるいとかはなく、明日も普通に歩ける。何事もムリはしないに決めている。漠然と歩くだけなら面白くも何ともないが、何をやるにつけてもその事を楽しくするための付加価値、プラスアルファーを自分なりに編み出すのが得意との自負もあり、ムリせず楽しくやれている。「三日坊主」という言葉があるが、「三日」は比喩であるから、「三日」の幅は広い。
人によって「三日」の幅は違うようで、この際自分なりの「三日」はどれくらいなのかを考えてみた。どうやら「何をやるか」によって「三日」の幅は違い、一例としてブログを3カ月続けてパタと止めたなら、「ようやった!」の評価はあれど、「三日坊主」の汚名はない。ジョギング、ウォーキングはどうか?週1で3カ月(月4回として12回)なら、こちらも「三日坊主」とは思わない。
週1で3カ月なら、歩く距離にもよるが、ウォーキングの基本10000歩を標準とするなら大変な作業である。2カ月で止めたは微妙だが、1カ月なら、「三日坊主」と感じる。自分は「三日坊主」という言葉がそもそも好きでない。こんな言葉を浴びせられるのはなんとも情けない。なぜ「三日坊主」となるのか?いろいろな理由はあろうが、「自分に甘い!」というのが一番ではないか?
「三日坊主」が嫌いなのは、「自分を甘やかせている」からで、人間は我が身かわいさからどうしても自分を甘やかす。人から命じられたり、強制されたりなら仕方ないから頑張れるが、誰に命じられるでもない、主体的に何かをやる場合はいつでも勝手に止められる。「疲れた」、「面倒くさい」などの理由を用意しておけばそれでいい。そこで頑張るかどうかが人の差異であろう。
自己に安易に妥協するのは情けないが、面白くないこと、しんどいことは誰だってやりたくない。面白くなくてもやる、しんどくてもやるという、崇高な根性を自分は持ち合わせてはいない。ならば、行為を楽しくできないものか?ブログは9年だから、「三日坊主」の域は抜け出ている。あとはいつ止めても満足の境地で終えられる。ウォーキングは12月で3カ月が経過した。
直線で広島から福島までとなったが、これも一つの面白さである。ならば北海道~九州と日本列島縦断でもやるかなと、「遊び心」が湧き上がる。人は「目標」などと大層にいうが、自分は「目標」というのが嫌いで、全ては「遊び」である。仰々しい「目標」と違い、「遊び心」はファンキーで、これが自分の原点だ。真面目人間ではないから物事を真面目には考えない、捉えない。
全てを遊びにしてしまう。だから楽しくやれる。ブログを書く事でいろいろ資料等を漁れば、知識も増える。書くことは調べることにある。自分の脳の容量などタカがしれたもので、知っていることだけ書いても満たされない。日記を書くのもつまらない。折角だから何かを得たいし、転んでもタダでは起きないそつのなさが楽しくもあり、自分にとっての面倒は「そつ」である。
「そつ」のない人は=面倒がらない人。いつごろだったろうか、「忙しい」、「めんどう」、「疲れた」を禁句にした。これらを口にしないで生きて行きたい。「忙しい⇒無能」、「めんどう⇒横着」、「疲れた⇒甘え」と定め、無能で横着で自分に甘い人間になりたくないと。「自己啓発」などと硬苦しい言い方は好まず、自分が自分を嫌う人間に自分はなりたくないとの単純な考えだ。
綺麗にではなく生々しい「生」を望みたい。「美言は真ならず、真言は美ならず」の成語に照らせば美言は自分を飾るもの。真言は「生」の言葉ゆえに美しくない。これも広義の自己啓発であり、これらは自分で考え、編み出した自己流である。自己流というのは、もっとも自分にあった方法だから、人はみな自己流で自分にあった何かを編み出すべきだ。
自分にあったものは自分で考える。人に聞く、人に頼るは、「横着」であろう。「横着だいすき」ならそれも結構、他人の横着を批判しない。横着は楽だし、便利だし、悪くない。が、好き嫌いの問題でいうなら横着は好きでない。もし、横着な自分を肯定すれば、どんどん横着になって行き、歯止めが利かなくなる。自分を知るから始めの一歩に注意する。
横着は嫌いだからと、それで他人の横着非難は傲慢である。自分は嫌いでも、横着好きの気持ちはよく分かる。人は人、許せる、許せないの言葉も傲慢で、人は人で自由でいい。自分は自分のことを考えればいい。人の言動に腹が立つのは、お若いということだ。若さとはそうしたもの。いちいち他人に干渉し、腹も立つ…、自分もかつてはそうだった。
人に干渉しないでいれると、世の中が楽しくなる。人の言動に責任を持つ必要はない。関心を持たないではなく、言いたいことがあっても言わない。無関心とは違い、他人には大いに関心を寄せている。が、言わないを決めている。求められれば口を開くが、求められない口出しは無い。「言う者は知らず、知る者は言わず」と、教わった。(《「老子」56章》)
孔孟より老荘の影響が大きい。いわずと知れた「無為自然」。自分はどんなものにも刃向かえるが、刃向かわず、静観するのも勉強である。その人が、その人なりにどうするか?あるいは子をじっと見守るのは、親の子への極限の教育であろう。なかなかできないという意味で…。母親にはできない父親の特権でもある。母は近視眼的愛、父は遠視的愛で子を育てる。
黙す父親に妻は口出しすべきでない。男の教育感を理解しろとは言わないまでも、手を貸すだけが教育ではない。口を出さない横槍を入れない、そういう良妻であることが幸いしたと感じている。いちいち口を出す、口を挟む、そういう妻なら、「うるさい、黙ってろ!」などと、無用な暴言を吐くことにもなろうし、言いたくない言葉を必要に迫られていう夫の心情憐れ也。
安易に手を貸さず、教えすぎず、自力育みをじっと待つのは、父親に委ねられた男の辛抱である。「教育」とは、教えて育むでなく、教えと育みである。手取り足取りで身についたものが横着で得たものなら、親の子への横着奨励である。ライオンの母親が息子に狩りを教える場面は感動する。言葉を持たない動物の親は、自らの行動で子に伝えるが、凄みを感じる。
人間は親ができない事、できもしない事を無謀に子どもに押し付けるが、近代社会の要・不要を善悪と絡めて論ずる前に、親子の原型より欲が先行するようだ。よって、子育ての原型については人間よりむしろ動物から学ぶこと多し。子を人任せ(外注教育)に委ねるのは横着といえば横着であるが、子育ての「外注化促進」全盛時代に、親は、大人は、日本の将来をどう考えているのだろう…