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騙し騙され、ふりふられ…

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昨日で書き納めの予定であったが、脳内にうごめくある事柄に触発されて、自問自答の意味もあってか、一人会話をしたくなった。自分のブログ記事は自問自答の「一人会話」が主体である。自己に問い、自分で答えるということだ。長年これで生きてきた。他人に問うこともあるが、その場合は本当に答えを求めているというより、他人はどういう答えを持っているか?ということ。

あくまで答えは自分で出すべき、それが自己責任と言うもの。他人の意見を聞くのは悪いことではないが、自分の場合は、"ある時にある事を問う"というよりも、普段の生活の中で様々な他人の言葉に何気なく触れる場合の方が、身につきやすい。切羽詰ったときに他人に答えを求めてみても、切羽詰っている状況にあっては良否を思考する余裕がない。

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しかるに他人の声は余裕(ゆとり)のある時にこそ、耳に入るし、心に突き刺さる。が、切羽詰ったときだからこそ、他人の意見を聞こうとする人間もいる。おそらくそういう人は、自分の考えや決定に不安があり、だから他人に背中を押してもらいたいのではないか。自己の決定に自信がなく、不安が強いなら人に背中を押してもらった方が安心なのだろう。

自分は物心ついたころから、「人があっち」といえば、「自分はこっち」という、人の真似が嫌な天邪鬼的気質であった。なぜ、その様になったかを自問して分析するに、母親とのあくなきバトルが大きな原因であったのではないか。ウソばかりつき、信用できない母であり、彼女が右といえば左が正しいといように、何事も彼女の反対の方が正しいと思っていた。

これも広義の反面教師であろう。信頼できない人間が身近にいた悲劇かも知れない。ある意味悲劇であるが、彼女の反対が正しいことが多かったので、悲劇というより良き親であったとの見方もできる。つまり、母親の視野の狭さ、一元的な価値観に抗ったことで、大きな視野、多元的な価値観を持つことになったのは母親という反面教師のおかげかもしれない。

仮にも自分の子どもたちが、自分のいう事の全て反対をした事が、「人生の糧になった」などといわれれば、親としてこれほどのショックはない。それほどに親と言うのは子どもに対して傲慢なのだと。「いい親でありたい」、「子どもに尊敬されたい」と、そういう親は多いが、そもそもそれが傲慢である。子どもは子ども自身にとって良いとすることを、受け入れて成長すればいい。

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親に食わせてもらい、育ててもらったからといって、親を妄信すべき理由は何もない。子どもが見てダメな親と思えばダメなのだ。儒家は、「とんでもない」というが、そんな儒家思想が間違っている。子どもが誰を批判し、誰を信奉したところで、子どもの信ずるものが正しい。「親の意見と茄子の花は、千に一つの無駄はない」などと、バカなことを言うなである。

子どもが親のいう事を聞かなくて腹が立った経験はある。親なら誰でもそうであろうが、そこが親の傲慢であると感じる親こそ正しい。何が正しいといえば、子どもの自由を尊重するという意味で正しい。仮に親の意見が正しく、子どもの考えが間違っていたとしても、押し付けないなら子どもの自由を尊重している。それが正しいということだ。正邪の判断で正しいではなくて…

「親がなくても子は育つ」という成語を、「親があっても子は育つ」と言い換えた坂口安吾である。これを、"親という障害を乗り越えて子は育つべき"と自分は解した。この二つの言葉は実は同じ意味かもしれない。「親がなくても子は育つ」は、食い物にしろ、環境ににしろ、いろいろと子どもに惜しむらく与えてくれる有り難い親という存在がなくとも、子どもは生きて行ける。

との意味で、子どもの生きる力、生命力の強さを指す。生きる望みがなくなったと、子どもを引き連れて無理心中する母親についていえば、斯くも思いあがった親はないと断じる。なんで子どもを道連れにするのか?親がいなくて「不憫」であるなど、とんでもない。それこそ「親がなくても子は育つ」であり、さらに強めて、「親があっても子は育つ」は逞しい。

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母親に虐げられていた幼少期、「こんな親など居ない方がいい」と感じていた。ばかりか、「死ね!クソババ!」と向かって言ったものだ。それに怯む母ではなく、子どもにそのように言われるほどに逆上する性向である母は、マゾでありサディストでもあった。「死ね!クソババ!」といわれれば、嘆き、悲しみ、そのようなことを言われないように、改めるのが良き親と思うのだが…。

妻によれば、長女や次女や長男は祖母にそんな言葉はなかったが、三女は言葉ばかりか、取っ組み合いをしたというから、そこは自分より上手と感心した。「親に手を挙げるなど、とんでもない」という修身教育の名残りを切実に感じていた我が世代である。と、前置きが長くなったが、本日予定していた記事は、「騙すもの、騙されるもの、一体どちらが悪いのか?」である。

オレオレ詐欺に引っかかり、「騙した人間より俺の方が悪いのか」の言葉を残して自殺した70代の父親の記事から派生したものだが、オレオレ詐欺も事件なら、父の自殺も事件である。身内からすれば父の死はいたたまれなかったろう。おそらく生真面目な父と見受ける。彼の気持ちを代弁すれば、「騙す奴が悪いに決まってる。なのに何で自分が責められる…?」

そう言いながらも父は、「騙す奴が悪い」と毅然としていられなかった。そりゃ、そうだろう。親族・家族に責められても、「何で俺が悪いんだ!」と頑張れなかったのは、自分に全く落ち度がなかったと思えなかったからだ。確かに、「騙す人間」がいるから騙されるわけだし、そう考えれば騙す人間が悪い。しかし、騙す人間がいても騙されない人間もいるわけだ。

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騙す人間がいるのに、「騙される人間」と「騙されない人間」の差異を考える必要がある。この世に悪人は多い。悪人を悪人と罵って、悪人が悪いと言っていいものだろうか?悪人は悪人に違いないが、悪人が通用しない人間もいて、そういう人間は悪人をあざ笑うことになる。悪人があざ笑われて、それでどうして悪人なのか?まさに茶番悪人であろう。

「悪の行使による全ての罪が悪人だけにあるとは言えない」とするのが妥当であろう。騙された人間にも二種類ある。一貫して「騙すほうが悪い」と言い張る人。「騙される自分にも非がある」と反省する人である。騙す側、騙される側、どちらが「悪」かを問うのは正しくないのは、同じ「悪い」という言葉であっても、騙す側と騙される側とでは、「悪い」の意味が異なるからである。

率直に言えば、騙す側は「故意」。騙される側は「過失」と言える。法律的には「過失」も罪となり、「過失だから許される」は大人の考えではない。「業務上過失」、「過失運転致死」なども文言が用意されている。確かに防げない過失もあるが、防げる、防げないをよくよく吟味して判例を出す。人間はズルいし横着だから、「過失だ」といって罪を逃れようとする。それでは済まされない。

十分に注意を払っていれば騙されないで済む、などの落ち度を過失とも言うが、交通事故などでも「過失割合」を算定するのが、世の習わしである。「オレオレ詐欺」で騙された側は法的な罪に咎められないのは、自分の金だからである。これがもし、公金管理の職責などにあれば、当然にその罪を問われ、裁判沙汰にもなるし、司法は罪を断罪し、損害賠償も成立する。

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自分の金が罪にならないのは、言っていくところが無いからで、過失そのものは公金と同じこと。言っていくところが無いから、自分に文句を言うしかない。それが反省である。ところが、自分に文句をいいたくない人は騙した犯人に罪をかぶせることで、自身の罪(過失)を逃れようとする。この場合、どちらが正しいかの判明はできる。親族・身内の鬩ぎはそういう事をいっている。

公金を騙し取られれば上司にも会社にも責められると同様、親の私的財産といえども、家族・親族から過失を問われようが、それを許すのが身内である。世間の風は厳しいが、身内は身内に甘いし、それが良くもあり、悪くもある。同じ過失を世間は許さないが、身内は許してくれる。この善悪は分らないし、「身内に甘い」と言うのは好きではないが、身内とはそういうもの。

「身内だから許される」、「身内は許してくれる」。そこに甘えるのもいい、身内なんだから。後は、騙された自分がその罪を悔い、十字架を背負って生きていけばいい。あまりの情けなさに自暴自棄になって死を選ぶ人もいるが、これは身内に限らない。責任を痛感し、過去に多くの企業人が死を遂げた。この手の詐欺で家族が追い込まれて死ぬなど、誰も予想だにしない。

だから、過失を責めたのだろう。まさか、「知らない人にお金をあげてよかったね!」というはずがない。責めてはいけないが、稚拙な過失なら責めたくもなる。特に、「オレオレ詐欺」は、「思い込み」という軽率さに負うところが多い。何も事を急がなくともいいのに急いでしまう。当然、相手は急がせるが、「そんな大金をそうそう簡単に…」という常人感覚があれば…


騙す男が悪いのか、泣いた女がバカなのか、どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙して欲しかった…、西田佐知子のそんな『東京ブルース』の歌詞が頭を過ぎる。『感覚は欺かない。判断が欺くのだ』とゲーテは言った。『言葉は自分を欺くためにある』といった哲学者もいた。思考よりも感性、論理よりも感情。答えは体が知っている。「こうした方が上手くいく」という打算は上手くは行かない。

気持ち(心)がこもってないので、相手に伝わらない。が、それでも騙せる相手はいる。騙されたと後で嘆く男も女もいる。「騙された」背景には、人間の切ない「欲」がうごめく。その「欲」を「願望」などと、綺麗に修飾するのも人間だ。選択を誤るのは、感覚が未成熟だからで、それは仕方のないこと。だから、失敗を繰り返すことで感覚は磨かれて行く。

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